番外編1:早退
「大丈夫。一人で行けるから」
 保健室へ同行するという塩崎くんの誘いを断って、休み時間、私は一人で保健室へ向かう。
 まさか、生理痛の薬をもらいに行くのに、いくら塩崎くんとはいえ男子が一緒なのは私も恥ずかしい。
 今日は生理の二日目で、腹痛は半端じゃない。しかも、教室には坂内がいない。関係ないようで関係あったりするのが、複雑な乙女心。
 気力で乗り切るつもりだったけど、2限目で早くもダウン。次の時間は体育だから、それをやり過ごすつもりもあって、私は保健室行きを決行した。
「失礼します」
 保健室のドアを開ければ、とたんに暖かい空気が私を包む。病人が来るところとあって、教室より暖房が効いている。
「どうしました?」
 年配の保健医さんに聞かれ、私は生理痛の薬が欲しい旨を伝える。ついでにしばらく休ませてほしい、というのも忘れず言う。
「じゃ、これ飲んで。ここにクラスと名前書いてくれる? 理由は……恥ずかしいでしょうから、腹痛とでも書いておいたら? 右のベッドは男の子が寝てるから、左のベッド使って。次の授業は何?」
 白い小さな顆粒を渡され、水の入ったコップも手渡された。
「……体育です」
 言って、顆粒を水で流し込む。口内で溶ける前に一気に飲んだ。
「体育か。職員室に先生いるかな? 急がないと。じゃ、担当の先生に言ってくるから、スカートのホック緩めて楽にしてから寝るのよ。カーテンも忘れず閉めてね」
 そう言って、パタパタとスリッパを響かせて、先生は保健室から出て行った。
 ドアが閉まったとたん、授業の開始を知らせるチャイムが鳴った。これの音に焦らなくてもいいと思うと、なんだか少し優越な気分になる。
 私は机の上に開いたノートを見る。クラスと名前を書こうと、近くのボールペンを手にとって、なにげなく上の段を見てしまった。

『3−3 坂内亘 頭痛』

 しかも日付は今日になっている。早退欄に○がついていない。つまり、右の使用中のベッドには坂内がいるということ。今日、保健室に来ているのは私と坂内のみ。
(今更治ったといったところで体育だし、お腹痛いんだからしょうがないか)
 私は痛むお腹を思いながら、クラスと名前と理由をノートに記入した。

『3−3 河原沙紀 腹痛』

 そして、坂内を起こすことのないように、静かにベッドへと向かう。幸い、彼が寝ているであろうベッドのカーテンは閉められていて、私の姿が見えることもなく、無事にベッドにたどり着く。
 ベッドに上がり、カーテンを閉めようとした時、上半身を起こしてカーテンに手をかけている坂内と目が合った。
 私の片手はスカートのホックにかけられたまま、動かせずにいる。男子がいるのに、坂内がいるのにスカートのホックを外せるわけがない。カーテンに手をかけたまま、呆然としてしまっている。
「……起こさないようにしてたのに」
「河原さん来た時に起きた」
「それはそれは……。起こしてごめんね」
 私は一気にカーテンを閉めた。向こうから開けられるかと思って、しばらくは様子を見ていたけど、坂内のベッドのカーテンが閉まる音を聞いて、私はスカートのフックを外す。
 たかがホックを外すだけでも、お腹がすごく楽になった。そのまま寝ると、さらに苦しさがましになる。
「頭痛って書いてあったけど、さぼり?」
 カーテンで見えないけれど、坂内の方向を向いて話しかける。
「先生いねぇから正直に言うけど、二日酔い」
「二日酔い!?」
「でかい声出すな」
 カーテンが大きな影に押された。たぶん坂内の足が蹴りをいれたのだろう。
「中3の身で、なんで二日酔いになるわけ?」
「しゃれになんねえくらい頭痛いんだぜ、これ。教室の声が頭に響くし。先生に言えるわけないから、風邪ってことになってるけどな」
「ふーん……」
 平気そうに普通の返事を返しているけど、私の体は横に向いている。吐き気が少しひどくなってきて、じっと上を向いていると喉からあがってきそうになる。
「河原さんは生理痛? 俺、姉ちゃんいるからなんとなくわかる。大丈夫か?」
「ん……」
 もう口が開けない。開いたら吐きそうなくらい。
 私はずるずるとベッドからおりて、外のトイレで吐くべく、保健室を出ようとする。坂内がいるところで吐きたくなかった。
 なのに、坂内もベッドからおりてきて、私の肩に手をかけた。
「吐きそうなのか? そこの水道んとこで吐けって」
「離して。どけて。トイレ行くから」
「だから、そんなとこまで行くことねぇし、そこで……」
 私は肩にのせられていた坂内の手を思い切り払った。その反動で少し体がぐらついて、思わず壁に手をつく。
「坂内がいるから嫌なの。お姉さんいるなら、それくらいわかれ」
 私は坂内に止められないうちに、と保健室のドアへ向かう。
 私の体に、冷たい風がひとすじ吹いた。次いで、大きな音をたてて閉まるドア。
 坂内が保健室を出て行った。
 遠ざかる足音で私を後悔が襲う。でも、そんな中でも吐き気は収まらず、私は水道の蛇口をひねって、思い切り水を出しながら吐いた。
 口の周りを洗ってから、その場にしゃがみこむ。吐いたせいなのか、涙が止まらない。
「坂内ごめん……」
 坂内が出て行ったドアを見つめていると、そのドアが開いた。一瞬、坂内かと思った私は、目元を腕で隠した。
「大丈夫!?」
 明らかに女性の声。腕をはずすと、保健の先生が私に向かって走り寄ってきた。
「吐いたの? もう今日は帰る? どうする?」
 聞きながら、ハンカチで私の涙を拭いてくれている。
(坂内に謝ってないから……)
 まだ帰らない、と答えようとした私の口は、開いたドアの音に止められた。
「先生、俺も早退する」
 坂内の入室に驚いたのは私だけじゃない。
「あれ? 君、寝てたんじゃなかったっけ?」
 彼の片手に持たれているのは、私のバッグ。
「河原さんのかばん、これでいい? 机の中のもん適当に詰めてきた」
 驚く先生を尻目に、じっと坂内の手にあるバッグと、坂内を見つめていた。
「ん……」と差し出されたバッグを受け取る。
「……先生、私も早退します」
 驚いてたわりには、先生はあっさりと私たちの早退願いを承諾した。
「早退届は出しておくわね。お母さんとか家にいる? 迎えに来てもらえるように連絡しないといけないから」
 自分で勝手に返事すればいいのに、なぜか私は坂内の返事を待った。
「俺んち、今の時間だと両方いないから。連絡つかないと思う。俺は歩いて帰れるし」
 先生がうなずいて、私を見る。
「私も……」
 先生がしゃがんでいた私を立ち上がらせる。スカートについた汚れもついでに払ってくれた。
「それならしょうがないか。じゃ、担任の先生に連絡しとくから。気をつけて帰りなさいよ」
「さようなら」
 坂内が保健室を出る。続こうとした私の耳に、先生のささやき声。
「……彼氏?」
「は……い?」
 振り向く私の近くに、先生の微笑み顔。
「おばさんが気にすることじゃないと思うんだけど、そういうの聞きたいの。付き合ってたりする?」
「彼氏……じゃないです。さようなら」
 私は保健室を出る。ドアの横に立っていた坂内を見て、思わずうつむいた。
「熱、出てたっけ?」
 のぞきこむような坂内の顔。
「熱なんか出てない。さっさと帰ろう」
 赤くなった顔を見られないように、坂内の前を歩く。
 『彼氏』という言葉を自分の口が言った。しかも、言葉が指すのは坂内のこと。こんなに恥ずかしいことはない。
「さっきはごめん。急に保健室出て行くからびっくりした」
 そんな気持ちだったから、坂内に面と向かって話せない。流すように、背後の坂内に謝った。
「姉ちゃんが言ってた。なんで女だけこういう目に合うのかって。それ思い出して、河原さんも女だと思い出して……違うな。女ってのはわかってるんだ。わかってるんだけど……。……言いたいことが、わけわかんねぇ」
「いいよ、無理にフォローしなくても。坂内の私を見る目はわかってる」
「俺がいるから嫌だって言ったよな? あれは嫌いってわけじゃないだろ?」
 私は返事ができない。天然で鈍感な坂内の鈍感な質問。私の照れくさいつぼを突いてくる。
「……当たり」
 ぼそりと返事をしてあげると、坂内は私の横に来た。
「よっしゃ。わけわからねぇ河原さんのこと、少しだけわけわかるようになってきた」
 少し嬉しそうな坂内の顔に、ため息が出た。
「わけわからないんだ、私」
「俺、男だから」
 私は口から出そうになる言葉を一生懸命引っ込めていた。
(坂内の場合は、わからなさすぎ)
 本人に突きつけてやりたい言葉だったけど、今日の坂内は少し優しかったので、私は一緒に早退できたことを素直に喜ぶことにした。


◇終◇
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