足音
 普通の放課後。
 今日は用事があるのだ、と友達は先に帰ってしまった。
 私はゆっくりとのんびりと、下駄箱へ向かう廊下を歩いていた。
「これから用事あるか?」
 後ろから何の前触れもなく問いかけられた声の主を、振り返ることもなく判断している私。
 好きな人の声というものは、耳が勝手に覚えてしまっている。そんな人の授業を受けていればなおさらのこと。
「帰るとこですけど……」
 言いながら振り返ると、私よりも高い位置にある目に見下ろされていた。
 ネクタイのゆるめられたスーツ姿で、面倒くさそうに私を見おろしている先生が、肩を軽く叩いてきた。
 滅多に触れられることのない先生の手の感触に視線が泳ぐ。
「行くか?」
「どこに、ですか?」
「来ればわかる」
「わからないところに行きたくないです」
 授業中でもほとんど表情の変わらない先生が、私の言葉を受けて少しだけ苦笑した。
 本当はその顔を見られただけでついていく価値はあるけど、一度きっぱり言ってしまったことの訂正はできない。
「校内であることは確かだ」
「学校っていっても広いですよ」
「この時間はほとんど生徒残ってないんだな」
「テスト前で部活もないし、そりゃとっとと帰りますって」
「運が悪かったと思って諦めろ」
 生徒とほとんど談笑することのない先生に声をかけられたのだから、私はかなり運がいい。
 何の用事かは知らないけど、二人きりになれる可能性も大きそうなのだから、さらに運がいい。
「諦めました」
「……悪いな」
 ポンッと頭を撫でて歩き出す先生。
 突然すぎるふいうちに私は動き出せず、頭に手をあてて先生の後姿をしばらく見ていた。
 隣にいない私に気づいて振り向くかと思いきや、先生はどんどんとマイペースに歩いていく。
 私は小走りで先生の後を追った。


 先生につれてこられたのは図書室。
 入り口近くの机には、何枚あるのかわからないほど大量のプリント。
「プリントばっかり……」
「これを全部会議室まで運ぶ」
「全部……。二人で、ですか?」
 先生と二人きりだというシチュエーションに少し浮かれていた私も、さすがに大量のプリントを目の前にして絶句してしまった。
 私の隣で先生も改めてプリントを眺め、大きく息を吐いた。
「……女子にはきついか。断るなら断ってくれてもいい。今さらだが、罪悪感がこみ上げてきた」
 立っている私にそう言って、先生は運べる枚数へとプリントを分けていく。
 さっきの嘆息は、プリントを見て先生なりに一人で運ぶ決心をしたのだろう。
 もちろん、先生が忙しいのも見逃せないし、二人になれるチャンスも見逃せない。
 私は図書館のカウンターにかばんとコートを置いた。
「一度にたくさんは運べませんけど、それでもよければどんどん運びます」
「俺はこっちの端から運ぶから、お前はそっちから運んでいってくれるか」
「おっけーです」
 先生と私はプリントの束を抱える。
 二人で一緒に図書館を出たのだから、二人でゆっくりと持っていくのだろうと思った私は甘かった。
 先生はいつものペースで私の歩幅を気にすることなく、どんどんと歩いていく。私がついていける速さではない。
 結局、私が一回往復する間に、先生は二回往復する。そんな調子でプリント運びは進んでいった。
 もちろん、私の体力もそれほどは消耗していなかった。
 そろそろ最後だろう、と思いながら図書館へプリントをとりに行くと、先生が入り口で待っていた。
「これで最後、といいたいところだが、あと少しで最後だ。ついでに鍵閉めるから、かばんとコート着てくれるか」
 言われた通りにコートを着て、かばんを腕にひっかけて、最後のプリントの束を持った。
 先生が図書室の鍵を閉めて、今度は二人で歩き出す。
「先生、他の先生に頼まなかったんですか?」
「俺の仕事だから頼みにくいな。生徒のほうが楽だろう」
「でも、ほとんど生徒いない時間でしたね」
「男子を探す予定だったんだがな。男子はおろか女子すらいなかった」
 話している間も、先生のサンダルがペタペタと音をたてる。
 その音と私の鼓動が重なっていくような、奇妙な感じが襲ってくる。
「私に声かけたのは……偶然ですよね?」
 ばかな期待を持っていることを恥じながらも、先生の返事にかすかな期待をこめてしまう。
「偶然ではあるが、お前でよかった、と思ってはいる。手伝ってくれたからな。それなりに申し訳ない気持ちもあるが……」
 今まで気にならなかった自分のサンダルの音が、やたらと耳について離れない。
 音から気持ちが伝わるはずもないのに、先生の足音と同じリズムを刻んでるのが恥ずかしくなってきた。
 歩く速さを変えればリズムも変わる。足に集中するあまり、自分が日頃どういう風に歩いているのか深く考えすぎてしまった。
 右足が狂えば、左足も狂っていく。
 そして、案の定、私は足をもつれさせてしまった。
「わっ、わっ……」
 先生がとっさに私の肩を抱くように強く引き寄せてくれたので、なんとかその場に転倒することは避けられた。
 足元へ散らばるプリントを眺めながらも、私の心臓はこれまでにない速さを記録していた。
「おかしい歩き方してると思ってみれば……予想通りだな」
 少しだけ目線を上げれば、私の目の前に先生の喉があった。頭上から聞こえる声と共にそれが動く。
「プ……プリント拾います」
 先生の手が離れたので、私は慌てて一番遠くにあるプリントへと手を伸ばす。
 あれ以上は私の理性が持たなかった。先生であるにも関わらず、告白してしまいそうになっていた。
 持っていたプリントを脇に置いて、先生もしゃがんでプリントを拾い始める。
「さっき、少し、な、離れがたかった、などと言ったら……セクハラ教師発言だな。悪い……」
 呟くように言う先生の言葉が理解できないわけではなかったけど、あまりに信じられない言葉だったから、私は即座に返事ができなかった。
 私たちは無言でプリントを拾っていく。
 拾い終えた頃、私は集まったプリントを抱えて、先生に聞こえるか聞こえないかの大きさで答えた。
「私も……同じこと思ってましたから」
「セクハラ教師、好きか?」
「先生だったら……好きです」
「そうか……」
 私の足音の隣で響く先生のサンダル。
 気持ちを伝え合った私たち。
 だけど、周りから見れば先ほどと同じ、プリントを抱えた教師と生徒の姿。

 ◇終◇
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