便利屋の男
 コンクリートに覆われた雑居ビルの階段を上り、「便利屋」と書かれたプレートのついたドアをノックもなしに開ける。話はすでに電話で通してある。
 応接室のようになっている部屋。男はそこに置かれた革のソファへと体を沈ませて私を見ている。
 ゆるくなでつけられた黒髪に、ふちなしの眼鏡が映える整った顔。ダークスーツに身を包む男の目だけが、只者ではない経験を匂わせていた。
 鋭い目に私を捕らえたまま、男は煙草を口に咥える。火はつけないようだ。
「お嬢さん、部屋をお間違いではないですか?」
 目と同じく、鋭く冷たく言い放つ。ただし、男の顔は微笑みを絶やさない。
 男の放つ尖った氷に一度でも臆せば、私は声が出せなくなってしまう。依頼をすることもかなわなくなる。悟られぬよう、私も笑みを浮かべた。
「いいえ、間違えるはずはないわ。三十分前に電話で話したもの。貴方こそ、私の声を忘れたのかしら?」
 男の口の端がわずかに上がる。テーブルからライターを取り、男は煙草に火をつけた。
「いいでしょう。外見には幼さを残していますが、貴女は確かに電話で話した女性です。先ほどの失言、お許しください。早速ですがご依頼は?」
 男が、手で正面のソファに座るよううながす。
 小さくうなずいて私はソファへ座った。短いスカートのスーツ。足は組まない。
「その前に、お付き合いされている女性はいるのかしら?」
 小さな針を投げるように、一瞬、男の視線が私を射抜く。
「それに答えないと貴女の信用を得られない、とでもおっしゃるのでしょうか?」
 唐突に煙草を灰皿へ押し付けた男が、白いハンカチを差し出した。
 受け取ろうと手を伸ばしつつ、私は聞く。
「何かしら?」
 笑みを浮かべたままだった男が、初めて真剣な顔を見せる。
「男の劣情を煽るようなことはお止めなさい。もし、それが計算なのだとしたら、私は貴女を即刻追い出します」
 怖い。
 抑えていた恐怖が手に伝わる。私は震える指を抑えながらハンカチを受け取った。だが、男の言ったことがどういうことなのかわからないし、ハンカチをどうすればいいのかもわからない。
 私の迷いを読み取ったのか、男はまた元の笑みを浮かべた。
「失礼。ハンカチを広げて足の上に置くといいでしょう。見なければよいと言う女性もおられますが、男としてそれはなかなか無理な注文なのです。色仕掛けかと勘ぐった私も自惚れすぎですが……」
 ふいをつかれた。
 男が浮かべた笑みに少年を垣間見て、私はしばらく目を奪われてしまった。
 今日だけは、依頼者である今日だけは冷静でいなければいけないというのに。彼への想いを悟られてはならないというのに。
 知らず握り締めていたハンカチを広げ、男の言う通り下着が見えないようにスカートの裾にのせる。
「ありがとう。貴方に色仕掛けが通じないことは、一目見ればわかるわ。ところで……」
 男の声が私の続きを制す。
「ああ、先ほどの質問の答えですね。お付き合いしている女性は残念ながらおりません」
 第一の質問突破。気持ちも看破されていない。
 膝の上で重ねた手に汗がにじむ。
 男の勘の鋭さをなめてはいけない。眼鏡で隠されてはいるが、時折その目に感情がのぼる。その瞬間を見逃してはいけない。
「次の質問よ。お付き合いしている女性はいない。それはわかりました。では、好きな女性は?」
 束の間、男のまとう空気が揺れた。かすかな動揺に私は心の中でほくそ笑む。
「私の恋愛ごとの何が、貴女の依頼に関係あるのでしょう? 依頼に関係ないのなら余計な詮索はやめていただきたい」
 男の返答で、また空気が鋭さを増す。視線と共に小さな針が私の心を狙っている。小さな隙を狙っている。
「おおいに関係のあることなの。お答え願えるかしら? 私が依頼を話すためにも……」
 一時休戦だとでも言うように小さく放たれる男のため息。張り詰めていた空気が緩んだ。
「貴女はなかなか警戒心の強い方だ。ここを訪れるたいていの方は、まず私の空気に気圧されるものです。そして、質問をするのはいつも私。少々、感服いたしました」
「いつも度胸があるわけではないの。相手が貴方だから、かしら」
 褒めながらも完全には緊張を解き放たない。
 この男は昔からそうだった──。
「私だから、ですか。なめられていないことを願います。現在は好きな女性はおりません。過去のことは今の貴女と私には関係のないことですから、答える義務もないでしょう」
 再度確かめるように、男の視線が私を捕らえる。
 男の過去。私が一番知りたいところでもあり、依頼におおいに関係がある。
「過去、好きな女性がいたということかしら?」
「過去のことは」
「関係あるの。依頼に関係があることなら、貴方にも答える義務があるはずよ」
 男が顔を伏せて、眼鏡の位置を指で正す。その顔が上げられた時、さきほどよりきつい目が私を見据えていた。
「私には依頼を断る義務もある。腹を探られるのはいくらでも構いません。……が、依頼を話す気がない、もしくは依頼自体が存在しないのでしたら、失礼ですが今すぐここから出て行っていただきたい」
 仕事に対する男の目。過去にも見たことのある目。私を一瞬で惹きつけた目が健在していることに、私は恐怖よりも喜びを感じている。
 これ以上の駆け引きは必要ない。男を煽る必要ももうない。やはり変わってはいないのだから──。
 私は小さくうなずいた。
「……依頼について話します。便利屋としては簡単な仕事かもしれないわね。でも、貴方には難しい仕事かもしれない」
「聞いてみないことには何とも言えませんが?」
「私の彼氏役……いえ、彼氏になってほしいの。依頼お受けしていただけるかしら?」
 男の見開かれた目。唖然とした表情を見せている。
 これは依頼ではなく、告白。さらりと言ったけれど、私の中ではいいようのない不安が渦巻いている。
 あの日に言うはずだった言葉を、ようやく言えたことに安堵のため息をついた。
「ですが、貴女にはお付き合いしている男性が……」
 震えている男の声音。先ほどとは口調も表情も全く違う。
「お付き合いしている男性なんていないわ、あの日から。貴女が私のボディガードを突然辞めてから、随分いろんな噂を聞いたわ。私はずっと言いたかった。好き、という言葉だけを言いたくてここまで来たの」
 私の前に座る便利屋の男。数年前は私のボディガードとして家に仕えていた。無口なのに仕事は有能。そして時折見せてくれる優しさ。私が惹かれるまでにそう時間はかからない。
 告白しようと彼を探していた時、父から、彼自身から辞めたことを聞かされた。
「忘れたことはありません。電話の声でわかりました。だから私は言ったでしょう。『お嬢さん』と……。本当に驚きましたよ、ドアに貴女の姿を見つけた時は。部屋を間違えてるのではないか、と本当に思ったのです」
 優しい、あの日惹かれた彼の目。私だけを映してほしいと願っていた。
 嬉しさに自然と手が震えてくる。
「どうして、あの日突然辞めたの?」
 知らないでしょうが、と苦笑しながら煙草に火をつける男。
「私は他のボディガードに嫌われていたのです。お嬢さんからの呼び出しを伝えなかったり、任務を失敗させようとお嬢さんを狙う奴まで彼らは雇い始めた。あそこまでひどくなると、私がガードしている意味がない。私といることで貴女が危険に晒されるのですから。答えは一つ。私が辞めればよかった」
 私は立ち上がり、男の口から煙草をひったくり灰皿に押し付ける。
 煙草を咥えていたまま、口を半開きにした男を放って私は衝動のままに言葉を紡ぐ。
「一言くらい言ってくれたってよかったでしょう? 他のボディガードのことだって言ってくれたら」
「私情を挟まずにお考えください、お嬢さん。辞めさせれば多くのボディガードを失うことになる。私に対しての私情さえなければ彼らは有能です。私一人で済む問題を話す必要もなかったでしょう。それに、貴女の気持ちは知っていたのです」
 さらにまくしたてようとした私の口が止まる。同時に襲う脱力からソファへと座り込んだ。
「知っていた? それこそ言ってくれれば、私だって……」
「貴女はまだお若かった。怖いものもなく、感情だけで走っていくこともできたでしょう。ですが、後戻りのきかない道は失う物もまた多い。去っていけば忘れるに決まっていると思っていたのです」
 脱力は涙を生む。緩んだ瞼から頬を伝って微かに涙が流れていく。
 私は男の言葉に苦笑せずにはいられなくなった。
「余計に忘れられないわよ。気持ちも伝えてなかったうえに、貴方からの返事も聞いていない。それで忘れられるわけないじゃない。依頼、聞いていただけるのかしら?」
 男が眼鏡をはずして微笑む。眼鏡をはずした顔を見たことがない私は、その顔にもまた目を奪われる。
「──お受けいたしましょう」
 男が立ち上がり、ソファに座っている私を後ろから抱きしめた。
 涙をすくう優しい指についた微かな煙草の匂い。
 男の腕に手を重ねて、私は涙を流しつづけた。


◇終◇
読んでくださってありがとうございました
感想などありましたら[感想送信フォーム(別窓)]から聞かせてください。
今後の創作の励みにさせていただきます。
← 短編メニューへ
← HOME