別世界
 クラスにはなぜか、かわいい女子とかっこいい男子で構成させたアイドルグループのような派閥がある。多少好き勝手に振舞っても、その見た目で許されてしまうのだ。
 そして私は、彼らに関わらないよう一定の距離を保って、教室の片隅でひっそりと過ごしている。彼らに好かれなくても支障のない場所にいる。
 ただ厄介なことに、そんなアイドルの中の一人を好きになってしまったけど、告白なんて全く考えていない。話しかけることもできないのに、そんなことできるわけがない。
 だから、その彼と話す日が来るとは、本当に思ってもいなかったのだ――。


 学校からの帰り、忘れ物に気づいた私は駅から引き返してきた。
 早足で歩いてきたせいで額から伝い落ちてくる汗を、手の甲で拭いながら教室へと急ぐ。階段を上り終え、教室の近くまで来た時、話し声が聞こえてきた。
 私の教室で、あのグループが話している。そんな中、一人で平然と入っていく勇気はない。
 わざわざ戻ってきたのに、どうして彼らがいるのだろう。心の中で文句を言いながらも、どうしようかと廊下で足を止めて考え込む。
 どこかで彼らが帰るまで時間を潰そうか。そう思って体を反転させたとたん、教室から一人の男子が出てきた。
 彼だった。
 でも、どうせ私のことなど知らないだろう。見なかったふりをして階段へと戻る。
 べたべたと派手にサンダルの音を鳴らしながら、彼が後ろから迫ってくる。逃げるように私も早足になる。
「何か取りに来たんじゃねぇの?」
 彼の前には私しかいない。下り始めていた階段で足を止め、仕方なく振り向く。
 だらりと鞄を肩からさげ、汗ばんだ額にまとわりつく髪を指で払い、彼はめんどくさそうに私を見下ろしていた。うっすら茶色がかった髪と、耳に光るピアスは、先生に注意をされてもやめるつもりはないらしい。
「教室に用あるんだろ?」
 答えない私に焦れたのか、彼はもう一度強く聞いてきた。
 背の高い彼に見下ろされると、いつも以上に威圧感が増して見える。
「あるけど……もう、いいの」
「はあ? なんで?」
「……入りにくい、し」
「入っていけばいいじゃん」
 事も無げに言うけど、私の悩みは彼にはわからないだろう。
「もう、いい。ごめんね」
 忘れ物は今度こそ諦めることにした。あの教室に入るくらいなら、本当にもういいと思ったのだ。
 彼が短くため息をついた。呆れているのか、怒っているのか、とにかく謝ったほうがよさそうだ。
 ごめんね、と言おうとした瞬間、彼がやはりめんどくさそうに言った。
「取ってきてやるよ。どこにあんの?」
「机の中……日本史のノート」
「わかった」
 そのまま、本当に彼は教室へと引き返していった。
 私の席を彼は知っているのだろうか。話したこともない私のことなど、彼は放っておくだろうと思っていた。嬉しいよりも、驚きと疑問が頭に溢れてくる。
 やがて、彼は二冊のノートを持って戻ってきた。
「どっちかわかんねぇし、両方持って帰って」
「ありがとう」
 見ていた時とは違うドキドキと感情が胸に湧き上がる。話せた実感が今さらながらこみあげてくる。
「あんた、視力いいほう?」
「うん」
「じゃ、席替わって。明日でいいから」
「……うん」
 逆らう理由も気力もないから、私は素直に頷いた。
 黒板が見えにくいのだろうけど、残念ながら彼の視力を知らない私は推測するしかない。
「ありがとう」
 もう一度、彼にお礼を言って私は階段を降りた。


 翌朝、私の席にはすでに彼が座っていた。机上には教科書が置かれている。
 彼の席だった場所に座ると、女子からの視線がわずかに痛い。席替えくらいで目立つはずはないと思っていたのに。
 私より二つ前の席にいる彼が振り向く。
「机の中のもん、取っていってくんない?」
「うん、ごめん」
 机に向かっても彼が退ける気配はない。少し体をずらしただけ。
 机の中に手を入れようとすると、彼の体にどうしても腕が触れてしまう。彼にも悪いし、私の心臓にもよくない。
 大判のファイルを取り出す時に、肘が彼のお腹に触れた。あっ、と思ったけど彼の反応はない。
 熱くて少しかたい腹筋の感触が、はっきりと肘に残る。
 取り出した教科書などを抱え、ごめん、とだけ言って素早く私は席へと戻った。
 彼は何事もなかったかのように、友達とまた話し始めている。やっぱり、黒板が見えにくかったらしい。
 席替えのことは、それほど大きな話題になることないようなので、私は安心しながら確認のため机の中に手を入れた。と、小さく丸められた紙が指に触れる。
 無意識の好奇心で私はその紙を開いてしまった。短い文面が目に入る。

『話したいことがあるので、放課後、屋上で待っています』

 高校生の字ではない、しっかりした線で書かれた大人の文字。
 文末に添えられた苗字は珍しいものだったけど、私はその名前を知っている。この手紙を出した人は、去年、別の学校へ移っていった――女性の教師。
 彼と先生が付き合っている、という噂は確かに一時期流れていた。彼なら不思議ではなかったけど、高校生と先生が恋愛関係になる、というのは信じられなかった。
 でも、何かがあった、ということを手の中の紙は告げている。そして、彼はずっとこの紙を残している。
 見てはいけないものだったかもしれない。でも、見つけてしまった以上は彼へと返すべきだろう。


 授業が終わった後、急いで彼の机の上に丸めた紙を置いた。何も言わなくてもそれだけでわかるだろう。
 席へと戻ろうとした私の腕が強くつかまれる。無言の彼に廊下へと引っ張り出された。
 突然の行動で周りの注目を集めたことより、真意のわからない彼の表情が怖かった。
 渡り廊下に来て、ようやく手が離される。
「これ、見た?」
 この状況で嘘をつくほうが事態は悪化する。観念して頷いた。
「……うん、ごめんなさい」
「誰にも言うなよ?」
「やっぱり、その人……」
「だから、言うなよ?」
 丸めた紙を握ったまま、彼はズボンへと手を入れる。
「うん」
 安心したようなため息をついて、彼が渡り廊下の壁へと背を預ける。
「ま、俺が焦ったところで、もう終わってんだけど」
 用を済ませても彼が教室に戻らない。私と会話をしてもいい、と思っているのだろうか。
 都合のいい期待だと思っても、舞い上がる気持ちは止められない。
「噂はあったけど……本当だったんだね」
「俺なりにマジだったから、バカな噂は放っておいた」
 彼の横顔――視線はどこか違う時間を見ているような気がした。
 男子とこんな話をすることもなければ、教師と恋愛をした友達も周りにいない。どう声をかければいいのかわからない。
「すごいね……」
「なにが?」
「大人の人と恋愛」
 呆れるわけでも、怒るわけでもなく、彼はしばらく黙っていた後、ぽつりと返してきた。
「……別に普通」
「そうかな」
「大人でも、あんたとそんなに変わんねぇよ」
 男女交際すら経験のない私には、さらりとそう言える彼はやはりすごい、と思えてしまう。
 そして、彼と付き合うなんて想像は分不相応だ、と改めて自覚した。
 私では、未熟すぎる。


 あいかわらず、私は教室の片隅でひっそりと過ごし、彼は教室の中心で数人と話している。
 あの席替えの日以来、挨拶と少しの会話を交わすようになった。ほとんどは彼が話しかけてくるとはいえ、これはかなりの進歩だ。
 少し前までは、クラスメイトでありながら、彼と話をしないまま終わるのではないか、とさえ思っていたのだから。
 でも、やはり彼と私は違うのだ、と思い知ることになる。


 体育の授業は、隣のクラスと合同で行う。
 適当なグループに分かれてバレーボールの練習をしていた時、一人の女子が近づいてきた。
「聞きたいことあるんだけど」
「あ、なに?」
 彼女のあからさまな喧嘩腰の視線と口調に身がすくむ。
「好きなの?」
「えっと……なにが?」
「いつも話してるでしょ? 彼のこと、好きなの?」
 『彼』が誰を指しているのかはすぐわかった。でも、好きだと言ってはいけないような気がして、
「好きじゃない」
 と大げさなほど首を振って答えた。
 納得できない、そんな視線がじっと私を見ている。早く解放されたい。
「知らないと思うけど、あいつの彼女なの。だからさ、あまり話さないでくれない?」
 本当に、早く解放されたかった。
「話さないようにする。彼女いるの知らなかったとはいえ……本当にごめん」
「あたしこそ。じゃ、それだけ言いたかったし」
 先生の目をかいくぐるように、彼女はグループの中へと戻り、トスの練習を始める。
 その姿を見つめながら、私は友達に呼びかけられるまで呆然とボールを抱いていた。


 好きな人に素っ気ない態度をとることが、こんなに難しいものだとは思ってもいなかった。
 曖昧な返事を繰り返しながら、彼が私から離れてくれるのを待つ。
 自分から「話しかけないで」と言えないのは、心のどこかが喜んでいるから。頭で割り切って、行動することはできるけど、気持ちまで薄れてはいない。
「……うぜぇ」
 私の生返事を何度か聞いた後、彼はいらだった様子で呟いた。
 自分から離れられないのなら、彼が離れてくれたほうがいい。たとえ、それが怒りからくるものだとしても。
「今から商業教室来て」
 それだけ言って、彼は教室を出て行った。休み時間はもうすぐ終わろうとしている。
 少し迷った挙句に、私も教室を出て、上への階段を上った。
 商業科は今はもうない。この階には、使われていない商業科の教室が並んでいる。使われていないということは、入れないということになる。
 階段に近い教室のドアはやはり鍵がかかっている。ただ、一番奥の教室のドアは、私の手に逆らうことなく開いた。
 開けると、熱気が中から溢れてきて、思わず顔をそむけてしまう。
 閉鎖された教室の窓が開けられることもなければ、冷房装置も作動していない。夏の暑さが教室中にこもっているのだ。
 埃だらけの教室の中、一箇所だけ綺麗に拭かれた場所がある。そこに彼は汗だくで座っていた。
「ここ、俺のさぼり場」
「……鍵は?」
「俺が来た時には開いてたから、卒業生が開けたんじゃねぇの?」
「暑いね」
 入ってそれほど時間は経っていないのに、私の額からは汗が流れだしている。
「ここしか話せる場所ねぇし……鍵閉めてくんない?」
 私たちの教室とは少し構造が違うけど、鍵は中からも閉められるようになっている。
 鍵の音がやけに大きく聞こえた。これで本当に二人きりなのだ、という緊張が体に行き渡る。
 沈黙だけの私たちの間に、授業開始をつげるチャイムの音が流れる。
「初さぼり?」
 鍵と向き合ったままの私の後ろから、楽しそうな彼の声が聞こえてくる。
「うん」
「これで五十分間ゆっくり話せる」
 彼の言葉で、私はゆっくりと体を反転させる。
 無造作にシャツの袖で彼が汗を拭う。
 彼の言葉や動作のすべてを今は独り占めしているのに、どうして私は後ろの鍵から指を離せないのだろう。
 好きな人が目の前にいるのに、いつでも逃げられる体勢を整えているなんて変な話だ。
「こっち来ねぇの?」
「彼女に悪いから」
「彼女?」
「いるって……」
「いねぇし」
 彼の声は強い。苛立ちじゃなく、ぶつけられる感情は明らかな怒り。
 体育の時間に話しかけてきた彼女の顔や声が浮かぶ。かわいい人だった。
「……嘘」
「嘘じゃねぇよ」
 小さな声で、めんどくせぇ、と彼は舌打ちと共に吐き出した。
「隣のクラスの人、彼女って言ってきた」
「俺の自業自得なんだけどな、そういう女ときどきいるんだ。あんた、何かされた?」
「何か?」
「女子の嫉妬ってやつ? 俺でも怖いし、あれ。目の前で見たら冷める」
 彼は、いろいろな嫉妬の形を見てきたのだろう。楽しそうに笑っている。
「話さないで、って言われただけ……」
「何かひでぇことされたら俺に言って。そういうの、俺から女子に言ったほうがいいんだろ? 彼女って勘違いはさっさとやめさせねぇと……」
 あの女子は彼女じゃないと知らされたうえに、この状況でそんなこと言われれば、私も――。
「勘違いする、よ」
 彼女だとは思わないけど、彼は私を好きなのじゃないか、と勘違いしそうになる。
「はあ? あんたが?」
 彼の顔から笑みが消えた。
 めんどくさい女がまた一人増えた、と思われたのだろう。
「男子と話したことないし……こういうこと言われたら……勘違いしそうになる。だから、私にかまわないで」
 唐突に彼が立ち上がり、私に向かって大股で近づいてくる。
 慌てて後ろの鍵を開けようとしたけど、後ろから強い力で手をつかまれた。
「勘違いになんねぇよ、あんたの場合」
 ふわりと抱きしめられる。こんなこと、慣れていない。それだけで動けない。
「本当に……慣れてないから」
「あんた、俺のこと軽い男だと思ってんの?」
「……少しだけ」
「じゃあ、俺があんたのこと好きだって言ったら……断る?」
 腕にぽたりと落ちてきた雫は、彼の汗。
 流れ落ちるその汗を見つめながら、私はじっと考える。
 また、彼の汗が落ちてきた。
 彼は私の言葉を待ってくれている。
「ううん……断らない」
「マジで?」
 体を解放された直後、彼が私の前へとまわってくる。今まで見たことないくらい嬉しそうな彼の顔があった。
「うん、本当に」
「やべぇ……教室戻ったら言いふらす」
「えっ、それは……やめたほうがいいよ」
「なんか不都合でもあんの?」
 私たちがこうなっていることを教室のみんなは知らない。あの教室では、まだ私たちは別世界のままなのだ。
 彼の世界とは関わらず、学校生活を終えるはずだった。
「……怖い」
「俺が?」
「周り、が」
「見かけは俺みたいなのばっかだけど、別にみんな普通。あんたの周りも普通だろ?」
「うん」
「じゃあ、それでいいじゃん。俺はあんたの友達と話してみてぇけど」
「みんな……びっくりするよ」
「俺の周りにあんたを入れてぇから、やっぱり言いふらしていい?」
「……うん」
 頷いて顔をあげると、彼の目が近づいてくる。でも、寸前で止まった。
「あんたのペースってやつ守んねぇと」
「いい、のに……」
「これ、入れても?」
 彼は悪戯をしたかのように、軽く舌を出す。
 舌を入れるようなキス――。
 反射的に彼を突き飛ばしていた。
「ごめん。……無理」
「まずは、手を繋ぐところから?」
 笑いながら差し出された手に、自分の手を重ねる。
 自分以外の体温と密着している。これだけで十分にドキドキする。
 こんなことには慣れているのだろう、と思って彼を見る。
 彼は照れくさそうな顔で、私から視線をそらした。 


 ◇終◇
読んでくださってありがとうございました
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