不精
 手の平サイズの紙の束を持って、私は職員室の一席へ向かった。
「先生、部員全員の公欠届です」
 椅子を回転させながら振り向いた先生は、
「マネージャー、ご苦労さん」
 と言って、私の手から紙の束――公欠届を受け取る。顧問として、公欠届に印鑑を押すのが先生の役目だ。
 先生への用事は済ませたのだから、さっさと職員室を出ればいいのに、振り向いた先生の顔をしげしげと見つめる。
「おい、教職者を誘うなよ」
 見かけと同じく、飄々とした口調で先生は笑う。
「そんなつもりは全くなくて。なんだか、先生、老けた? あ、老けたって言うよりも、年齢相応になった?」
 はっきりとした年齢はわからないけど、先生はどちらかといえば童顔で、二十二、三歳あたりに見える。面倒くさがりな性格のおかげで、おっさんくさい雰囲気を醸し出してはいるけれど。
 先生は顎をさすりながら苦笑した。
「老けたか、と聞かれても、三十路に足を突っ込んでるからな。ま、否定はせん」
 それでも、笑うと三十路過ぎには見えない。
「ここ最近で急に老けたような気がするんだけど……」
「心労が顔にでも出てるんだろう。ほら、もう行きやがれ」
 休み時間を知らせるチャイムが鳴った。
 先生たちは立ち上がり、私を含め、職員室から生徒が慌てて出て行く。先生より早く教室に入らないと遅刻になるからだ。

 好きな人と話せた時間――たった五分。
 次のチャンス――放課後の部活の時。


 空の大きなペットボトルに、スポーツドリンクの粉末を入れ、たっぷりと水を入れる。あとはひたすら振る。これで、部員の飲むスポーツドリンクの完成。
「顧問のくせにさ、短時間しか部活出ないってどうなのよ?」
 私と同じくマネージャーの先輩が、顧問に対する怒りをぶつけるかのように、豪快な音をたてながらペットボトルを振る。
 校庭に近い水道で、私と先輩はスポーツドリンク作りに励んでいた。
 粉末の溶け具合を見ながら私も振る。
「先生、一応、毎日ちゃんと来てますよ」
「でも、結局は見てるだけでしょ? ジャージに着替えるなら、サッカーやってけっての。……よし、完成。そっち、終わった?」
「終わりました」
「じゃ、戻ろっか」
 水道に並んだ三本のペットボトルを、先輩が一本、私が一本持つ。もう一本を抱えようと私が手を伸ばした時、後ろから大きな手が軽々とつかんだ。
「げっ、先生……」
 先に振り向いた先輩が頓狂な声をあげた。
 そんな先輩、そして私からペットボトルを取り上げた先生は、三本を上手に抱えた。
「悪口言うなら後ろに気をつけて。持って行ってやるから次の仕事しろよ」
 先輩は、私へ意味ありげな笑顔を向けて、トイレ、と走っていった。私の気持ちを知っている先輩のささやかな気遣い。トイレに行かないことは、私と先輩だけが知っている。
 残された私は先生を、先生は私を、互いに見つめる。
「便所、行かないのか?」
「あ、と、一本持ちます」
 不安定な場所にある一本を先生の腕から奪って抱える。
 先生は特に何を言うわけでもなく、ペットボトルを抱えて歩いていった。目はずっと穏やかだから、怒ってるわけではないらしい。かといって傷ついているとも見えない。
 所定の位置にペットボトルを置き、私と先生は端っこのベンチへ座る。
「マネージャー、部活終わったら部長に渡しておいてくれ」
 驚いたことに、先生のジャージのポケットから一本のビデオテープが出てきた。よくポケットに入ったものだ、と変なところに感心する。
「先生、これ、何?」
「この前の試合のビデオ」
「先生、そんなの撮ってたっけ?」
「俺が撮るわけないだろ。相手校の知り合いにダビングしてもらった。うちの学校を研究するんだとさ。さぞかし、いいアングルで映ってるんだろうな」
「それをどうして?」
「客観的に観れば見えてくるものもあるか、と思ってな」
 ベンチに座って私と話しながらも、先生は一度もこちらを見ない。練習メニューをこなす部員たちを見ている。
「尊敬したかも」
 やはり部員たちから目を離さず、先生は、ふっと笑った。
「こいつらには悪いが、サッカーができるから顧問になった、わけでもないんでな。慌てて勉強して偉そうにするよりは、素人なりにできることをしたほうが早い。つまりは、俺は要領がいいだけだ。実際、楽だからな」
「このビデオも先生が撮ったわけじゃないし?」
「そういうこった。……マネージャー、ガーゼと消毒の用意」
 先生が立ち上がり、部員入り乱れる中に入っていき、やがて、一人の生徒と一緒に戻ってきた。
 ベンチの下から救急箱を取って、消毒液と脱脂綿を先生に渡す。
 ベンチへ座った部員の膝は、派手に擦り剥けていた。
 先生がそこへ消毒液をそのまま吹きつけると、部員は歯を食いしばった。傷口はばい菌のせいで真っ白だ。そうとう、しみるだろう。
「時間、経ってるな、これ。どれくらい我慢した?」
 言いながら先生は、乱暴にガーゼをあて、紙テープで手早くとめる。
「こけた時に洗ったから大丈夫と思ってたのに、やばいくらいに痛いッスね」
「めんどくさがりもほどほどにしておけよ」
「どうも」
 部員の彼は練習へと戻っていった。
 救急箱へ消毒液などを戻す私を見ながら、先生は顎をさすって、にやにやと笑っている。
「悪いことをしたな」
「何が?」
「男のロマンを奪ったか?」
 救急箱を戻し、立ったまま、ベンチに座る先生を見下ろす。
「……何が、ですか?」
「マネージャーに消毒してもらうチャンスだったのにな。とっさに俺がやっちまった」
「なーに、言ってんですか」
 呆れた。傷口を処置して、何を気にしてるのかと思ってたけど、言うことがおやじすぎる。
「あ、おやじ、だ」
 思わず、呟いていた。
 先生が老けて見え、おやじっぽく見えてしまった――その理由。
「先生、ひげ伸ばしてる?」
「ん? これは、剃るのが面倒で放っておいたら」
「伸びてきた、と」
「そう、それ」
 先生は、今までとは違い、少し落ち着かなさげに顎をさすりだした。
「おやじくさい、か?」
 思わず、吹き出した。上目遣いで不安そうに聞いてくるのだ、大人の男性が。
「はい、って言ったら剃る?」
「前向きに検討する」
 老けた、とは思ったけど、似合ってない、とは思っていない。先生には言えないけど、色気が出ているような気もする。
 だから、冗談として受け取れるように、おもいきり笑顔で答える。
「かっこいいと思う」
 先生の手が止まった。じっと私を見つめてくる。
 冗談だろう、とでも言って笑うと思っていた私は、思わぬ反応に笑顔で固まる。
 よくよく見れば、先生の耳がどんどん赤くなっている。
 これまた予想外の反応に、笑顔さえもなくして、私は固まってしまった。
「冗談、と言わないのか?」
「先生こそ、冗談、って笑うかと思って」
「あ、ああ、ここは笑うところ、か……」
 顎にあてていた手を下ろし、先生は、無理やり絞りだしたような乾いた笑い声をあげたけど、すぐにおさめて、真剣な目で私を見てきた。
「冗談、だろう?」
「そのつもりだったんだけど、全部が冗談ってわけでもないな、って思ったりもして」
 告白する路線に入ってる、と気づいたから、なんとなくジャージの裾を指に巻きつけてみたけど、言った言葉の訂正にはならない。
 いつもの調子で流してくれればいい、と少し願っていた。
「教職者を誘うな」
 今日の休み時間にも言われた。そして、先生は笑うはずなのに、どうして、変わらず真剣な目を向けているのだろう。
「誘いにはのらない癖に」
 拗ねたような口調で言ってから、はっ、とした。これでは、まるで、誘ったように聴こえる。あの時点ではそんなつもりなんてまったくなかったのに。
 先生の反応が予想外すぎるから、私も予想外のセリフを言ってしまうのだ。そう、結論づけることにした。全部、先生のせい。
「のらないようにしてるんだ、普段は。お前が……笑うから、かっこいいなんて言うから、のってもいい、と思い始めてる」
 なんてこと言うんだ、この先生は。
 誘いにのってもいい、という受け取り方によっては非常に甘いセリフを聞いて、とっさに思ったことがこれ。驚きすぎると、変に冷静になってしまうものらしい。
「先生、教師でしょ? 私、生徒だし……」
 髪に指を突っ込んで、くしゃりと握り、先生は苦虫を噛み潰したような顔になる。
「そりゃな、俺のほうがわかってるさ。……お前が笑って、あんなこと言うからだろう?」
 軽い舌打ちと共に睨まれる。
「冗談だって言うと思ったのに、先生が真剣な顔するから」
「冗談でそういうことを軽々しく言うな」
「先生が、ひげのこと言うからでしょ。なんで、私がこんなに怒られなきゃいけな……」
「もう……もういい。黙れ」
 続けようとする私の前に、やめろ、と言わんばかりに先生が手を出す。
「黙れ、ってちょっとひどくない?」
「マネージャー」
 先生に手首をつかまれる。たったそれだけで、私の全てが止まった。
「とにかく、座れ」
 くい、と手を引っ張られて、すとん、とベンチに座った。
 手を離す際、先生は落ち着かせるかのように、私の手をぽんと叩いた。
 先生は、穏やかな笑顔を浮かべている。
「すまん。冗談、と笑えない俺が悪かった」
 あっさりと謝られたら、こっちの居心地が悪い。
「え、そんな……私も悪い冗談を言いました。ごめんなさい」
 ふっ、と笑った後、先生が大きく息を吐く。いつもの先生の顔に戻っていた。
「だがな。軽く聞くが……」
 口調も軽い調子に戻っている。安心して、私も、
「はい?」
 いつもの調子で返した。
 先生は、ドリブル練習に入った部員たちへと目を移す。
「惚れた男に、かわいいって笑顔で言われて、だ。お前、冗談と笑えるか?」
 聞かれて、想像する。
 先生に笑顔でかわいいだなんて言われたら……。
「笑えない、かも。本当に? って聞き返す、かな」
「だろう?」先生は私を指差し、嬉しそうに笑った。「だから、俺も冗談と笑えなかったわけだ。俺は悪くない」
「悪くない、って。でも、さっきは私が言ったんだから……」
 惚れた人に言われたわけじゃないんだから、と続けようとしたけど、何か引っかかりを感じた気がして、頭の中で少し整理に入る。
 答えを導き出した時、先生が練習を見ていてよかった、と心底思った。目が合ったら逃げてしまっただろうけど、横顔だから目が合うこともない。
「わかってしまったか? まあ、わかるように言ったんだが」
「わかってしまったけど……やばくない、ですか?」
 先生が素早くこっちを向いたので、慌てて私は目を足元へ移した。今はちょっとまともに見られない。
「やばい? 俺らが付き合うから、か? お前の気持ちはまだ聞いてなかったんだが、もう付き合うとこまで考えてたのか」
 くくっ、と楽しそうな笑い声が聴こえてきた。隣で先生の体が震えている。
「わ、わかってたんじゃないの?」
「全くわからなかったわけじゃないが、こっちは、いちいち淡い期待なんかしてられないんで」
「最低。なんか、もう、ほんと最低」
 無意識に出た言葉で、私からの告白が終了していた。言ってしまった私もバカだけど、日頃、教職者を連呼している先生から告白するのも卑怯だ。
 膝に置いていた私の手に、先生の手が重ねられた。
「俺は教師だから、あまりオススメはできんが……付き合ってみるか?」
「めんどくさいって言わない?」
「髭と同じ扱いにはしないさ」
「惚れた女だし?」
 返事の代わりか、先生が、私の手を強く握る。でも、すぐに離された。ずっと手をつなぐわけにはいかないけど、少し残念だ。
「顧問をクビにされちゃ困る理由もできたしな。さて、真面目にサッカーやってくるか」
 立ち上がった先生は、試合するぞ、と叫んで、部員たちのほうへ走っていく。
 私もマネージャーをやめさせられたら困るので、仕事へと戻ることにした。


 ◇終◇
読んでくださってありがとうございました
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