ガレージ
 曇っているけど、家に帰るまでは持ちこたえるだろう、と、学校から家までの道をのんびりと歩いていた。いや、早く歩けないのには理由がある。
 私の前を、想いを寄せてる先生が歩いているから。
 私より十歳年上の先生は、女子から特に「オヤジくさい」と言われている。歩くのもだらだらとしているから、私が少しでも早く歩けば追い越してしまうだろう。
 大人の男性なんだからしゃきっと歩け、と単なる一生徒の私が、後ろから内心で喝を入れる。
 スーツ姿でだらだらと歩かれると、なんとなく後ろ姿が情けない。ただ、そんな姿にもときめいてしまうのは、好きだからこその弱みかもしれない。
 いきなり、先生が慌てて上を見た。
 なんだろうと思ったけど、それはすぐに私の体にも降り注いできた。
 ――雨だ。
 古典的ながら、通勤鞄を頭の上にあて、先生が走り出す。
 私の家はもうすぐだったので、先生のことは諦め、家まで猛ダッシュすることにした。
 目的の決まっている私は、おろおろと雨宿りの場所を探す先生より速い。すぐに追い越した。
 玄関の鍵は鞄に入っているので、とりあえず、家のガレージに飛び込み、屋根の下で濡れ具合を確認する。
 なんと、私の家のガレージなのに、続いて先生も飛び込んできた。
「お邪魔します」
 軽く会釈して、先生はハンカチを取り出し、肩や腕を拭き始める。
 鍵を取り出そうと鞄を開けたまま、私はあっけにとられてしまった。
「な、なに、してんですか? ここ、どこだかわかってます?」
「どこぞにいい雨宿り場所でもあるのだろう、とついてきた。一応、表札は見て入ったぞ。生徒の家だということもわかっている」
「まあ、私の家ですけど……」
「だから、お邪魔します、と言っただろ?」
「そういう問題、かなぁ」
 先生は目の前で降っている雨の様子を眺めながら、あいかわらずハンカチで拭っている。
 雨宿りしている人を、しかも先生を放り出すほど私も人でなしではないので、とりあえず鍵を取り出すことを優先させた。
 鍵を見つめて、ふと思う。
 私が家に入るのに、先生をここに放っておいていいものだろうか。先生なんだから、家に招いておもてなしくらいはしたほうがいいだろうか。
「先生、家に入って待ちませんか?」
 ハンカチをポケットに戻して、雨を眺めている先生におそるおそる声をかける。
「おかまいなく。お家の人はいないんだろ? だったら、なおさら入るわけにいかない」
 私の気遣いを制するように、ぴしりと手を挙げ、こっちを見ることもなく先生は答えた。
 あっさりと引き下がっていいのだろうか。先生でもあり、好きな人でもある。その先生をこんなところに立たせておくのも忍びない。
「ここで待ってるのも、家に入って待ってるのも……同じ、ですから」
 先生が振り向いた。
「いや、全然違う。娘さんが一人のところに、先生とはいえ男が入るのはだめだろう。お前はそういうことを考えてないかもしれないが、親御さんの気持ちになれば、ここは断るのがスジってやつだ」
 だらだらとした動きをするから「オヤジくさい」と女子に言われている先生だけど、中身もけっこう頑固らしい。独身のくせに親の気持ちになるあたりも、確かに少しおやじくさい。
 ここまで言われては引き下がるしかない。
「じゃ、私、家に帰ります」
「俺も雨足を見て適当に帰るから、おかまいなく。……と、お家の人はいつ帰ってくるんだ? こんなとこに知らない男がいたらびっくりされる」
「八時くらいまで誰も帰ってこない、と思います」
「それまでには……止むだろう。風邪には気をつけて」
「はい」
 ガレージを出て、ドアの鍵を開け、私は無事に帰宅を完了した。
 軽く濡れたまま、慌てて二階の自室へと入り、窓からガレージを見下ろした。透明な屋根を通して、立っている先生が見える。
 クローゼットから手早く着替えを取り出し、濡れた制服を脱いで着替える。下着までは濡れていない。
 次に、洗面所へ飛び込んで、バスタオルを二枚つかんだ。一枚は自分で使うため、もう一枚は先生へ渡すため。
 玄関で息を整え、拭いてましたと言えるようにバスタオルで髪を覆って、ドアを開ける。
 先生はまだ立っていた。雨もおさまる気配はない。
「あの、先生?」
「早い着替えだな。体育の時の女子は着替えるのが遅いのに」
 先生は、体育の担当教師でもないくせに、そんな愚痴をこぼす。
「タオル持ってきました。あの、頭とか拭いてください」
 早足で先生のもとへ駆け寄り、バスタオルを手渡す。
 タオルを広げた先生がおもしろそうに笑う。
「こりゃ……でかいな」
「あ、バスタオル持ってきたから」
「文句言ってるわけじゃなくて、だな。……まあ、ありがとう」
 髪を整えているから丁寧に拭くかと思いきや、先生は本当にがしがしと豪快に拭き始めた。タオルを取ったらぐしゃぐしゃになっているのだろう。
 私の予想通り、やはり先生の髪はくしゃくしゃになっていた。
 それは先生もわかっているのか、手ぐしで軽く整えている。
「拭いたら、やっぱり気持ちがいい。……お前も拭いてやろうか?」
 タオルを私に返しながら、見下ろした先生が何気なく漏らした言葉に、私はためらいなく頷こうとしたけど、先生が先に笑って遮る。
「セクハラと言われるのも勘弁だから、やめておくか」
 目の前に突然ぶらさげられたおいしい餌が、先生の笑いと共に引っ込められる。しかも、セクハラと言いそうな女生徒、という誤解まで受けて。
「セクハラなんて言いません」
 睨む私に気づいたのか、先生の笑いが引っ込められていく。
「言う生徒かどうかの問題じゃなくて、俺の中でまずいだろと思うかどうかの問題でもあって。あの発言はセクハラだなと俺が思ったから訂正したわけで……」
「イヤだなって思わないから、セクハラじゃないと思いますけどね」
 しどろもどろに言葉を紡いでいた先生が、私の一言でがくりとうなだれる。
「わかっちゃいたけど、セクハラってやはりそういう基準で選ばれるのか。ああ、怖い。体育のあの先生なら男前だから、何してもセクハラにはならんのだろうな」
 女子に人気の若い体育の先生が頭に浮かぶ。確かに顔はかっこいい。性格もまあ優しい。しかも、女子の体育担当だ。
 やはり、先生のような男性から見ても、かっこいいと映るのか。
 でも、私は……。
「あの先生に、胸触らせろとか言われたら気持ち悪いですけど、先生だったら別に嫌だと思いません……けど、ねぇ」
 正直な気持ちで、しかも告白にもなりそうなことを言ったのに、先生はさらにうなだれる。呆れるように首まで振り出した。
「胸触っていい、と言ってるようなもんだろ、それは……。恐ろしいこと言いやがる。俺をセクハラで追放する気か?」
 なんとも、ひねくれた受け取り方をする先生だと思う。ここは素直に、好かれているのだ、と受け取ってほしい。
 言い終わって緊張していた私のほうこそ、さすがに呆れてため息をついてしまった。
「追放なんてしませんってば。いなくなられたら困ります」
「ん? 困る?」
 うなだれていた先生が顔を上げる。
 また、ひねくれた受け取り方をされると思っていたのに、今度はまともに受け取ったらしい。
 引っかかった様子で、先生はけげんな顔を見せた。
「いい、先生、ですから」
「体育の先生みたいに男前ではなく、親父くさいのに?」
「えっ……」
 驚く私に苦笑いを見せる先生。
「聞かれたくない話はでかい声でするな、ということだ。女子は声が高いから聴こえやすい」
「私は言ってません。言ったことないですから、絶対に」
 別に怒っているわけではないらしい先生に、私は思わず両手を振って、誤解を解こうとがんばった。
「生徒にそう言われてることを知ってるから、いなくなられたら困る、と言われるとは思ってなかった。いい先生なこと、何かしたか?」
 先生を好きになったきっかけは忘れてしまっていた。しょせん、それはきっかけに過ぎないと思っていたから。その後は好きで見ていたから、先生のすること、言うことが輝いて見えていた。だから、いい先生なこと、と聞かれれば、全部、という答えしか用意できない。
 答えを探して沈黙した私に、先生は、もういいよ、と笑った。
「無い、だろ? 無理しなくていい。そんなに心に残ることをした覚えもないからな」
「無いってわけじゃないんです。ちゃんと、あるんですけど……」
 さすがに全部と答えるわけにはいかなくて、やっぱりちゃんと答えられない私がいる。
 先生の目が穏やかになる。
「親父くさいって言う生徒じゃないな、お前は。なんとなく、わかった。それでいいよ。無理しなくていい」
 諦めたように笑われたら、墓穴を掘ることになろうとも、答えてしまいたくなる。
「全部、なんです。……でも、こんなの答えになってないってのもわかってるから」
「ぜん、ぶ? ちょっと待て。意味がわからん。全部なわけないだろ。俺が一番よくわかってる」
 わかってもらえないじれったさを感じるくらいなら、言ってしまいたい。誤解されるくらいなら、墓穴は自分で掘りたい。
 とまどう先生の姿は、意識の中で半分わかっていたけど、半分は見えていなかった。だから、止まらない。
「先生のすること、言うことが、全部心に残るんです」
「いや、それって……お前、言ってる意味わかってるのか?」
 先生がおもいきりとまどっている。私を止めようと必死に言葉を口にしている。
 わかっているけど、ここまでくれば、言ってしまったほうが早い。どうせ、ふられることは覚悟しているのだから。
「意味はわかってます。そういうこと、ですから」
 先生の慌てる動きが止まった。驚きで目が大きくなっている。
 私もじっと先生を見ていた。
 雨の音は変わらず、ガレージの屋根を叩いている。おかげで言い合う声は、いつもより聞こえにくくなっているだろう。
 やがて、先生が、ほぅっと息をついた。
「そうか、わかってるのか。返事、しないと、な……」
 返事、という言葉を聞いて、やけくそだった私の心に現実感が入り込む。とたんに怖くなった。
「へ、返事はなし、で……」
 思わず呟いていた。
「そういうわけにはいかない」
 告白した私が辞退しているのに、先生はぴしりと言い放った。
 寄せられた先生の眉根は深い思案を物語っている。私への答えを考えているのだろうか。
 やはり、怖い。
「タオル、戻してきます」
 背を向けようとした私を、また先生の声が制する。
「ちゃんと答えるから、逃げるな。言葉を選んでるだけだ。答えに困ってるわけじゃない」
 逃げられなくなってしまった。怖い気持ちを両手に込め、ぎゅっとバスタオルを握る。
 沈黙の中で響く雨音が、逃げたくなる気持ちを追い立てる。
「あの、な、おそらく、電話くらいしかできないぞ?」
「……は?」
 告白の返事かと思いきや、なんとも意味のわからない言葉が返ってきたから、私もバカみたいな顔して聞き返してしまった。
「あ、すまん。順序を間違えた」
「はあ」
「お前は生徒で、俺は教師だから……な」
 そこで切られれば、後に続くのは、私をふる言葉しか思いつかない。教師と生徒だから無理、だろう。
 先生が言葉を続ける。
 私は、ふるための言葉を聞く覚悟を決めた。
「会うことはできない。隠れて会うにも限界はくる、と思う。学校で会うから、それでとりあえず、互いに我慢する。だから」
 先生の話はまだ続きそうだったけど、やはりふっているとも思えず、今度ははっきりと聞き返す。
「私をふってるんです、よね? 何の話だか見えてこないんですけど……」
「はあ? お前、さっき告白したんだろ?」
「した、つもりです。いつ、ふられるのかな、と思って聞いてたんですけど」
 深いため息が先生の口から吐き出される。おおいなる呆れが含まれていることも容易にわかった。
「よく頭に叩き込め。今後の、お付き合いをするにあたっての、互いに気をつけること、会ったり話したりする方法、などを話してるんだ。わかりましたか?」
 言い聞かせるようにゆっくりと話す先生の言葉を、ようやく理解することができた。
 だけど、理解したら、今度は飛び上がりそうなほどの嬉しさと、恥ずかしさが湧き上がってきた。
「お付き合いって、やっぱり、その、普通だったらデートしたり……」
 デート、という単語さえもがんばって口に出しているのに、先生は授業で正解を言った生徒に対するように大きく頷く。
「そう。そういうこと。ただ、俺らは教師と生徒だからな。対策はきっちりとたてておかないと……本気でやばい」
 ミッションスタートという状態だ。
 私も大きく頷き返した。
「うん。対策、たてましょう」
「俺は教師だから生徒の事情は知らない。お前は生徒だから教師の事情は知らない。互いに注意すること、相手に気をつけてほしいこと、をとりあえず挙げて……それを照らし合わせたうえで対策をたてる」
「レポート用紙に書けばいいですか?」
「ああ、レポート用紙に……」
 そこで先生が吹き出す。
 私は生徒としてまじめに対応していた。
 先生はおもいきり笑っている。
「お前、用紙の確認までするな。教師と生徒じゃないか」
「教師と生徒、ですよ?」
 笑いをゆっくりとおさめていった先生は、恥ずかしそうに自分を指した。
「……俺は彼氏。まあ、先生に違いはないが」
 私も自分を指す。
 彼氏という単語がくれば、次はあの言葉しかない。ただ、これがなかなか声になってくれない。
「私、は……わたしは……か、の、じょ」
「そういう仕草して、上目遣いで俺を見ないこと。学校では絶対にしないこと」
 小さく手を挙げる。
「はい、注意事項に書いておきます」
「そういう仕草も……って、まあいいか。とりあえず電話できるように」
 先生が名刺を渡し、私は渡された手帳に電話番号を書いた。
「夜なら電話はいつでもいい。こっちからはかけないようにする」
 先生の声がさっきより大きく響くな、と思っていたら、いつの間にか雨が小降りになっていた。
「今晩に宿題仕上げます」
 先生は、ガレージから手を出して雨の様子を確認して、道路に立った。
「レポート書きに宿題、か。今晩は忙しいな……」
 空を見上げて、先生が呟く。
「忙しいです、か」
 私の声音から何かを察したのか、先生がこっちを見てにやりと笑った。
「十五分くらいなら電話できる」
「宿題しながら待ってます」
「ん……じゃあ、な」
「はい。また」
「今晩に」
 そう言って先生は走り出していった。
 私は、先生の使ったバスタオルを抱きしめ、にやけた顔を隠した。


 ◇終◇
読んでくださってありがとうございました
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