放課後、教室に残って、窓際でひとり読書をしている。はたから見れば寂しい光景だけど、私の気持ちは温かい。
この席からは校庭が見える。放課後になると、校庭のあちこちで部活動が行われている。
私の目的はそこにあるのだ。
誰かが入ってきても言い訳ができるように文庫を持ち、視線は、校庭で走る一人――名前しか知らない陸上部の先輩を追う。性格も声も話し方も知らない相手だけど、たぶん、これは恋愛感情だと思う。
騒がしい校庭とは隔離されたかのような静けさを持つ校内で、じっと先輩を見ていると、本当に心が安らぐ感じがする。
しみじみと浸りながら校庭を見ていると、背後でがらりとドアが開いた。慌てて本へと目を戻す。
体操服姿の男子が一人、靴下のまま自分の席にある鞄を開けた。下駄箱を使わず、渡り廊下などから直接校内に入ってきたのだろう。
忘れ物を取りに、ふいに誰かが戻ってくるのはよくあることなので、私も慣れている。出て行くのを待つだけだ。
本を読むふりをして、視界に隅で彼を追っていたけど、なぜか、なかなか教室を出て行こうとしない。いや、私を見て、じっと立っている。
立っている彼と、本を読むふりをする私の間に、しばらくの沈黙が流れていた。
「あんたさ……」
教室には私と彼しかいない。『あんた』が指すのは私だ。
「……なに?」
顔を彼へと向けると、かちゃり、と音がした。彼が眼鏡を指で上げたのだ。
「本、読んでないだろ?」
「よ、読んでるよ」
じっと立っていたのは、私が本を読んでいるか確かめるためなのだろうか。ページをめくらなかったのは盲点だった。
図星をつかれて、なんとか返答したものの、私の言葉は不自然に途切れる。
「ふーん、そう」
自分から質問したくせに、興味なさそうに呟いて、校庭へと彼が視線を移す。
「じゃあ、俺が何部か知ってる?」
話題が転換して安心したけど、どうして次の質問がこれなのかさっぱりわからない。特に気にしていない男子のプロフィールなど頭に入っているわけもない。
「知らない」
「陸上部のマネージャー」
「へえ、そうなんだ」
愛想笑いのごとく、興味があるような返答をした。内心では、どうでもいい、という言葉が渦巻いている。
もう会話は終わると思っていたのに、彼の指が一本、窓に向かった。
「あんたが毎日見ている陸上部の、ね」
うまく返す言葉も見つからないほどに、一気に頭がパニックへと陥った。
とにかくどうにかしたくて、本を閉じ、頬に流れる髪を梳く。
「私は……ここで……本を読んでるだけで……別に陸上部とか」
「俺を見てる、なんて思ってないけど、あんたが見てたのは知ってる。認めれば?」
「だから、私は、別に……そんなとこは、見てないって……言ってる、し」
眼鏡をかけてる人の無表情というのは、相手の気持ちに関わらず、冷たい雰囲気を醸し出していて怖い。直前の『認めれば?』という言葉が目から溢れている気すらした。
机上の本に両手を添える。
「……見てました。認めたんだから、もう、いいよね?」
彼が近付いてくる。本を盾に襲撃に備えた。
机の上に、プラスチックケースに入った男性二人組の歌手のCDを置き、私の机に片手を置いて、彼は窓の外を覗き込んだ。
「今、ハードルの前で話してる二人、見える?」
「えっ? あ、うん」
「右側の人だろ。あんたが見ているのって」
「うん、そうそう」
はっ、とした。
彼の何気ない口調にのせられ、ついうなずいてしまった。いや、それよりも、彼はなぜわかったのか。
校庭の二人を見ながら、
「顔で人気あるのってあの先輩くらいだから」
さらりと彼は答えた。
好きな人を知られたからには、あのセリフを言わなければならない。
「誰にも言わな……」
「女子みたいに、くだらないことをいちいち言いふらしたりはしない」
女子という単語にどこか毒気を感じたけど、言いふらされる心配はなさそうだ。私を含める女子に対しての蔑みには、この際、目をつぶることにする。
「このCDって何?」
「先輩に貸してもらったもの」
「あ、そう、なんだ」
おもわず、両手でつかみ、目の前に寄せる。ただのCDには違いないけど、先輩の分身に触れるような心地になった。
「三日間借りてたから、俺んちの匂いしかしないと思うけど」
彼の前で匂いまでかごうとは思っていなかったけど、ここは内心で舌打ちしておくことにする。
「この人たち、好きなんだ。そっか……」
言いながら、CDを彼に差し出す。
先輩の好きなアーティストがわかっただけでも素晴らしい収穫だ。早速、帰りに買って帰ろうと思っていた。
私からCDを受け取った彼は、また机へと置いた。
「借りて帰る?」
「えっ、なに、その神の言葉は」
「歌詞カードは触ってないから、先輩の手垢くらいはついてるんじゃない?」
CDに伸ばそうとした手を引っ込める。
「でも、いいの? 先輩に返そうとしてたのに」
「じゃ、返す?」
返さなければいけないCDだけど、先輩のもの。触れてない歌詞カード。
神々しいプラスチックケースに触れ、
「……借りよう、かな」
ゆっくりと手元へ引き寄せた。
CDの行方を見届けたらしい彼は、校庭を見て、
「やばい。あんたのせいで遅れる」
慌てた様子で机から離れ、走って教室から出て行った。
手にもっていたCDを見て、私も急いで後を追いかける。三階の階段から下を見れば、彼はもう一階まで下りていた。
「CD、ありがとう」
聞こえるかわからないけど、上から叫んで、私は教室へ戻る。
CDを丁寧にハンカチで包み、そっと鞄の中に入れ、片付けに入っている陸上部に彼が混ざるのを見届けてから教室を出た。
家に帰って、晩ご飯を食べ終えて、自室のコンポで先輩のCDを聴いてみた。
歌詞カードを開いたのは、先輩の手垢に触れたかったからではなく、純粋に歌詞を知りたかった。
でも、歌詞を読んで、少しだけ泣いてしまった。なんだか、先輩に言われているような気がしたから。
バラードばかりで、曲調は私の好みではなかったはずなのに、先輩が好きなんだ、と思っただけで不思議と心に入ってきた。
曲も、好きになった。
プラスチックケースを鼻先につけ、少しだけ息を吸ってみる。
先輩か、クラスメイトの彼かわからないけど、他人の家の匂いがした。
明日に返すことが惜しくなり、母に、お小遣いの前借りも要求した。
家事の手伝いを担保に、渋々、手渡された三千円と、何度も聴いた先輩のCDを鞄に入れ、そっとチャックを閉めた。
そして、また、放課後――。
借りていたCDを返すため、彼の席へと向かう。
「これ、ありがとう」
「聴いたの?」
「何度も。帰りにね、買おうと思って三千円持ってきた」
「なんか、あんた……すごいな。でも、返すのはもうちょっと待って」
「先輩に早く返さないと」
「だから、待てって。……あっ」
私をよそに、彼は廊下に向かって軽く手を振り、ぺこりと頭を下げた。
何だろう、と思って見ると、教室の入り口に先輩が立っていて、彼と同じように手を振っている。
持っていたCDをとっさに背中に隠した。見知らぬ女子が、自分のCDを持っているのはあまり気持ちのいいことではないだろう。そう、思った。
「あんたが、自分で返せばいいと思って」
「無理。絶対に無理」
先輩から見えないよう彼の大きな鞄を盾にして、CDを相手に押し付ける。
平然と彼は言うけど、先輩と話したこともない私にとっては、嬉しいよりも恐怖と不安のほうが勝る。
「俺に合わせればいい」
CDも私も置き去りにして、彼は先輩に向かって歩いていく。あわてて、追いかけた。
「わざわざ、すみません」
「本当に、わざわざ、だ。俺に二年の廊下を歩かせるな。恥ずかしいだろうが」
先輩と話すという大業が待っているのに、私は、その声だけでどこかに飛んでいきそうになっていた。
しかも、先輩が私を見ている。
「あ、の……はじめ、まして」
「ん? あ、はい、どうも。……お前の彼女?」
とんでもない、と大きく首を振りたくなった。
隣の彼が、鼻で笑って否定する。
「違いますって。先輩が俺に無理やり押しつけたマイナーなCDが好きって女子」
いきなり先輩の顔が近づいてきたので、驚いて後ずさる。これでもか、というくらいの距離に先輩の顔があって、視線をそらしたくなるほどだ。
「うっそ、マジで?」
「帰りに買うって金も持ってきたらしいですよ。ほら、CD」
彼の援護を受けて、私はCDを差し出して、深く頭を下げる。
「勝手に借りてすみませんでした」
手からCDが抜き取られる。かすかに、先輩の指が触れた。ゆっくりと頭を上げる。
「ベスト版が出てるから、それ、買ったほうがいいな。二枚組でアルバム一枚分と同じ値段だし、このアルバムの曲も収録されてるし」
「あ、はい、そうします」
「こういうのって好みだから、俺が買えって言うのも変な話だ。……ごめん」
「いえ、教えてもらって助かりました」
申し訳なさそうな表情の先輩と、さらに恐縮してしまった私で、どうにも気まずい雰囲気に包まれる。
「好みの合うやつ見つかってよかったですね」
とたんに、先輩が嬉しそうに微笑む。
「だな。彼女ですら、好みに合わない、で終わったからな。俺はあいつの好みを理解しようとしてるのに」
私は、先輩が発した一つの単語のせいで、笑えなくなった。
後輩の彼とひととおり笑った先輩は、
「そろそろ、行くか」
と足元に置いていた鞄を肩にかける。
「俺はちょっと遅れます。担任に呼ばれてるんで」
「部長に言っといてやるから、まあ、なるべく早めに来いよ」
「はい、すみません」
先輩は私を見て軽く頭を下げ、教室のすぐ脇にある階段を下りていった。
先輩を見送って、ぼーっとした頭を抱え、自分の席へと戻る。陸上部を見る必要がなくなったことを思い出し鞄を取った。
帰ろうとする私の前に彼が立ち塞がる。
「怒らないの?」
「彼女いるの知らなかったんだよね。仕方ないよ」
彼の横を通り過ぎる。
「知ってた」
即座に振り向いた。
ふられた女を前にして、彼はとんでもないことを平然と言い放った。
「知ってて? わざと?」
悪びれる様子もなく、彼は頷いた。
「うん、そう、わざと」
「どうして?」
「あんたがさっさとふられればいいな、と思って」
「わ、わけがわかんない」
彼が乾いた笑いを洩らした。馬鹿にしているような、寂しそうな顔で。
「わけはわかるし、いたって単純。俺があんたにむかついてただけ」
「いじめ?」
「……ちょっと違う。けど、今は言わない。つけこむみたいになるから」
「でも、黙ってたよね?」
「まあ、事実だから言い訳はしない」
「しばらく、話したくない、かも」
「わかった」
ズボンのポケットから、小さな何かを取り出し、彼は私に差し出してきた。
受け取ったものの、用途も何もわからない。
「最後くらい、大きいのを見ても損はないと思うよ」
「えっ……これ、何?」
私の問いに答えることなく、彼が背を向ける。
「バカなあんたにヒント。見てるのはあんただけじゃない」
大股で歩き、彼は教室を出て行った。
先輩の声、顔、彼女。
さっきの彼の言葉、意図、手の上の物体。
いろいろなことが怒涛のように襲ってきて、どこから整理していけばいいのかわからなくなってきた。
小さい何かに取りかかることにした。回転させて全体像を見てみる。矢印を見つけたので、それに従って引っ張ってみると、ハーモニカ程度の大きさになった。レンズが二つ。
オペラグラス――だ。
こんなもので校庭を見ていたら、言い訳のしようもない不審者になってしまう。でも、どのくらい大きく見えるのか興味もある。
鞄を肩にかけたまま席に座り、オペラグラスを目にあてて、とりあえず教室を見てみた。そのまま、首を捻って校庭へ移す。オペラグラスを手で包んで隠すようにしながら。
先輩が入ってきた。
こんな大きさで見えるなら、もっと早くに用意しておけばよかった、と少しだけ後悔した。ただ、今は、じっと見てはいられない。声も彼女のことも知ってしまった。
顎を引くと、マネージャーである彼が見えた。紙を見ながら、別の先輩と話している。
目を離そうとした時、オペラグラスに映っているうちの一人がこちらを向いた。
目が合う。
こちらが見えているかのように、相手は視線を外さない。その時、眼鏡のフレームに夕焼けが反射し、私は思わずオペラグラスから目を離した。
とっさに思い出したのは、彼の言葉。
――見てるのはあんただけじゃない。
◇終◇
読んでくださってありがとうございました
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