壁紙
 母に書いてもらった地図を手に、私はとある家の前に立つ。表札を見て目的の場所だと確認して、呼び鈴を押した。
 表札がローマ字。それだけでなんだかおしゃれに思えてしまうのは、私の家の表札が石に名前の彫ってあるタイプだから。
「はい?」
 玄関のドアを開けて顔を出したのは、ついこの間までお隣に住んでいた家族の息子。私と同級生の彼。ついでに──私の好きな人。
「よっ」
 最初は彼のお母さんが出てくるものだと思っていたから、挨拶の準備が出来ていない。おかげで無愛想に片手を挙げるという、なんとも女らしくない挨拶になってしまった。
 そんな私の後悔も知らぬ彼が同じく、ドアを押さえていないほうの手を挙げて、
「おぅ」
 とだけ言った。
「引っ越しおめでと。前はうちの両親が来たでしょ? ほら、私は用事あったから」
 サンダルを引っ掛けて彼が門まで歩いてくる。
「わざわざ、ここまで? 祝いなんて親同士でやってっからお前が来る必要もないのに」
 彼の頭をひっぱたいて突っ込みたかった。
(あんたに会いに来たのよ!)
 でも、私も口実もなしに来るわけない。そういう質問されるだろうことは見越していた。
「お母さんがさ、あんたの部屋がなんだかすごいから見に行きなさいって。そんなこと言われたら見たくなるもんじゃない。だから、見に来たの」
 来る前の予想では、ここでうっとうしがられると思っていた。だから、もう一段階分の答えも用意していたのに、彼はただうろたえるばかり。
「え、あ、部屋? 部屋、なぁ……やべえな。でも、お前は見たい、んだよなぁ?」
「うん、見ないと帰れないじゃない。散らかってても大丈夫よ。兄ちゃんの部屋も汚いしさ」
 困りながらも彼は門の鍵を外してくれる。
 私も、開けられた門から中へと入る。
「いや、汚いっつうんじゃないんだよな。引っ越したばかりだし、むしろ物が無くて散らかりようもないってくらいで」
「じゃ、問題ないじゃないの。私に見せられないものでも? あ、エッチな本ならそれも免疫ついてる」
 開けようとしていた玄関のドアを彼が思いっきり閉める。背を向けて歩いていた彼が振り向いた。
「エッチな本はあるけど、お前に見せられないっつうほどでもない。いや、それのほうがましかも……」
「もう、まどろっこしい!」
 彼を追い越して、私は勝手にドアを開けて中へと入る。
「ま、待てって。ああ、くそ」
 言葉は引きとめているのに、彼が私を取り押さえる気配は全くない。本気になれば、私に追いつくことも、私を捕まえることも可能なはずだ。
「お邪魔します」
 言いながら彼の部屋があるであろう二階へと上がる。
 階段横の部屋は女らしい色どりに包まれていた。彼のお姉さんの部屋だと思われる。
 その隣の部屋のドアを開けて、中を見た私は思わず立ちすくんだ。
「……見られたくなかったのに、よ」
 彼が隣に立って、私の顔を覗き込む。いや、反応を待っているらしい。
 視界いっぱいに広がる色は青。
 壁一面に広がっているのは──空。
「空に包まれてるみたい」
 窓からいい具合に光が入り込んでいて、物があまりないこの部屋はまさに空の中に立っているようだった。
 部屋に散らばった雑誌を適当にまとめつつ、彼が得意げに私を見る。
「だろ? お前さ、空の壁紙好きだっつってたじゃん?」
 空の中へと足を踏み入れる。中心に立って見回してみた。
 私の好きな色が溢れている。
 引っ越す前、彼がサンプルを見ながら部屋の壁紙を決めている時、私は真っ先にこの壁紙を指した。私はこれがいい、と。彼は、俺の部屋だから関係ない、と笑って却下したはずなのに、今まさにそれが使われている。
「あの時、却下したくせに、なんで使ってるのよ?」
 まとめた雑誌類をベッドに放り出した彼は、おもむろに窓へ向かい、カーテンを開けたり閉めたりし始めた。
「き、気分ってやつだな」
 なぜだか、近づいてくるなと彼の後ろ姿が語っている気がした。だから、私の疑惑が伝わるように、じっと後ろ姿を睨みつける。
「嘘。だって、私がこれって言う前は、緑色系にするって言ってたじゃない。すでに三つほどに絞られてたんじゃなかったっけ?」
 カーテンの開閉が止まった。今度はカーテンの裾をごそごそといじりだしている。
「こ、これがいいなと思ったんだよ」
「なぁんで、あんたがこれを使うのよ。私がいつか使おうと思ってたのに」
 彼からの返事がない。
 重いようでいて奇妙な沈黙が私たちを包む。
 彼の手が相変わらずカーテンをいじっている。
 私は、なんだかわからない彼の態度に少しだけ戸惑いを感じ始めている。
「……気分ってのは嘘、かも」
「え?」
 かろうじて、一文字だけ返事をすることができた。
 本当は言葉なんて思いつかない。あまりに驚いてしまっていたから。
「でも、これがいいな、とは思ったんだよな。これは本当」
 いきなり始まった告白。気分が嘘で、いいなは本当。相変わらず私にはよくわからない。
 でも、どうしてだか、いきなり恥ずかしくなった。そう感じることは何も言われてないはずなのに、彼の醸し出す雰囲気に触れると恥ずかしくなるのだ。
「何が言いたい、の?」
 聞いてはいけない気もしていたけど、聞きたい好奇心が湧き上がってきていたので、抗うこともせず、私は素直に彼に質問をぶつけた。
 突然振り向いた彼の顔は真っ赤。
 でも、私は心のどこかで、やっぱり、なんて思っていた。
 彼がこんなに赤くなるんだから、私も恥ずかしくなるようなこと言われるんだ、と覚悟しながら彼の目を見返した。
「お前がこの壁紙好きだって言ったから、俺はこれを選んだ。だから……気分、じゃないんだ、本当は」
「私が言った……から?」
 無言で彼がうなずいた。
 好きな人のいる私には、その心理の向こう側にある気持ちが少しだけわかった。でも、認めてしまうということは、自惚れてしまうことにも繋がるわけで。
 そう考えると、彼の顔なんて見ていられない。
「これにしたらお前も見に来るかな、とか、俺の部屋に来るようになるかな、とか、そんなに好きならこれ見に来いよと言えるな、とか。まあ、そんなようなことを考えていました」
「……うん」
 返事すら出来ないと思っていたのに、恥ずかしさに顔を上げられない状態でも、きちんと思考と口は一体になってくれるらしい。
 うつむいていた目線を少しだけ上げた。
 赤くなりながらも、じっと反応を待つ彼と目が合う。
 また、うつむいた。
「そういうわけでぇ、俺の告白終わり。もう言わないから、な、前みたいに喋ろうぜ。困ってるだろ? わりぃ。なんか『今!』ってのが俺の中にあったんだ。今なら言えるってな。でも、お前にとってはいきなりだもんな。……だから、終わり。よし、ジュースでも持ってくるから、ちょい待ってろ」
 横を通り過ぎる彼の足元だけが見えた。
 勇気を出して顔を上げ、両手で彼の手を抱きしめるようにつかんだ。
「また、見に来るからっ」
「は? あ、ああ、見に来ればいいだろ」
 何が言いたいのかわからないのは私のほうだ。思考がぐちゃぐちゃだから、出てくる言葉も私の意思に反してしまっている。
 思いっきり首を横に振った。
「ごめん、違う。見に来るんだけど……えと……あんたに会いにも来るから。これも違う。ああ、もう。この空よりも私はあんたに会いに来るから。うん、これ。で、いい?」
 思いを言葉にするのは難しい。
 捕まえているくせに、私は彼が逃げないうちにと必死になってまくしたてた。
 言い終わったら、先ほどの彼のように、相手の反応をじっと待つ。
 見上げた彼の顔は真っ赤で、腕は捕まえた時のまま固まっている。
「む、胸……」
「胸?」
「胸……俺の腕……」
「腕?」
「放せ! 俺の腕にお前の胸が……あ、あた、当たってるんだ!」
「うわ! ごめん!」
 振り払われた手で思わず胸を隠す。きちんと服も着ているというのに。
 私の腕を払った彼は息を荒くしたまま、私が捕まえていたほうの腕を何度もさすっている。感触を消すかのように。
 お互いしばらく、冷静になるための作業と深呼吸に没頭する。
 そして、沈黙。
「で、お互い好きってことでいいんだっけ?」
 思わず冷静になりすぎて、彼にとんでもない確認質問。
 冷たく向けられる彼の視線が痛い。何を言ってるんだ、と目が語っている。
「そういうことでいいんじゃねぇの?」
「よね。よろしくお願いします」
「こちらこそ、また部屋に来てやってください」
 私が軽く頭を下げれば、彼もまた頭を下げる。
 挨拶するなんておかしいけれど、たったこれだけで幸せを感じる私。
 彼も同じだといいな、と笑いかければ、彼も顔を上げてから微笑んでくれた。
 本当は私が一番好きなもの。
 空の中にある彼の笑顔──。


 ◇終◇
読んでくださってありがとうございました
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