彼氏と先生
 何の連絡もせずに来た私が悪いというのはわかっている。そして、彼がパソコンに向かっている背後で寂しがる立場でもないこともわかっている。
「でも……なんかむなしい」
 無造作に置かれていた男性のファッション雑誌を引き寄せ、特に目的もなくパラパラとめくる。
「帰ればいいんじゃねぇか?」
 彼は右手をマウスに添え、左手はモニターに映っている表に数字を打ち込んでいる。
 小さなテーブルに寝そべるように頬をつけた。
「何してんの?」
「一学期の出席日数、テストの点数の打ち込み、など」
 中学校で教師をしている彼は、学期末になると忙しくなるらしい。学校側にはもちろん内緒だけど、大量に持ち帰られたテストの採点を手伝ったこともある。高校生の私が。そうでもしないとデートする時間もとれなかったから、やむをえない状況というものだ。
「私のとこの先生もやってんだろうね」
「だろうな」
 コーヒーを飲もうとパソコンから離れた場所に置かれたグラスに手を伸ばした彼は、空になった中を見て小さく舌打ちした。飲み干してしまっていたようだ。
 ここは彼女である私の出番。
 立ち上がって、彼に背後から抱きついた。
「コーヒーのおかわり、いる?」
 耳元で息を吹きかけるように聞く。
「抱きついて聞くようなことでもねぇと思うが」
「一人で放っておかれて寂しいから、抱きつくくらいはいいかと思って」
 私の腕を彼が撫でる。
「なんだ? 溜まってんのか?」
 彼の手からするりと逃れた。
「別に。そんなことする時間ないくせに」
「十五分もありゃ済む」
「済ませないで。コーヒーどうすんの?」
「……頼む」
 キッチンに立った私は冷蔵庫から作り置きされたアイスコーヒーをグラスへ注ぐ。彼の好みはシロップ無しで牛乳が少し。氷を二個入れて彼のもとへと持っていく。揺れる氷が涼しげな音をたてた。
「お待たせしました、っと」
 グラスを置いたとたん、後頭部を引き寄せられる。バランスを崩しそうになったけど、手を椅子の背についてなんとか耐えた。驚いて開いたままの口に、彼の舌が入り込んでくる。
 盛大に私の口内を蹂躙した彼は、やがて唇を離し、何事もなかったかのようにパソコンへ戻ってしまった。
 口の中にたまった唾液を嚥下したけど、呆然となった頭は理解にしばらく時間がかかる。
「……なに? ちょっと、いまの、なに?」
「理由がいるってのか? めんどくせぇ奴だ」
「だって、あんなのいきなりすぎるでしょ」
「予告すりゃあいいのか? ……じゃ、今から胸触る」
 さっきのキスと同じように、彼の手が私の胸を握る。撫でるではなく、握る。
「い、言えばいいってもんじゃないし」
「今日は蒸し暑いだろ。とりあえず、この薄っぺらいの脱いでみねぇか?」
 椅子を回転させた彼は私のわき腹に手を添える。
「薄っぺらい? キャミのこと?」
「あぁ? キャミ?」
 中学教師であっても、高校生と付き合っていても、キャミソールは知らないらしい。名前と物が一致しないだけなのかもしれない。
「キャミソール」
「名前なんぞどうでもいい。手を上げろ」
 彼の手がキャミソールを上に引き上げていく。素直に腕を上げると、頭からすっぽりと抜き取られてしまった。小さくなったキャミソールが放り投げられる。さらに、ブラジャーを上にずらされた。
「ホック、はずせば?」
「このほうがお前の胸がでかくなる。まあ、ささやかなもんだが……」
 言った当人である彼がそこで吹き出す。
「うわ、失礼」
 目の前にある彼の頭をぺしぺしと叩く。だけど、私のそんな抵抗は突然の感覚によって遮られる。両手で私の胸を寄せた彼は、片方の胸の先を口に含んでいた。
 明るい中で声を出すのが恥ずかしくて、声にならない喘ぎを彼の短くて固い髪をかきむしって抑える。ざわざわと胸にあたる何か――。
「ひげ……いたい」
「そういやぁ、剃ってねぇな」
 私の胸を咥えたまま話すものだから、息や舌が絶妙な角度で先端を撫でる。直接舐められるよりも気持ちがいい。
「って、反応しやがった」
 固くなった胸の先端を彼が指の腹でつつく。過敏になっている箇所は、ささいな刺激にも大きく反応する。体が震えた。
「んん……下着、やばいんですけど」
「これだけで、か? しかたねぇな」
 スカートの中に入った彼の手が下着を引き下ろそうとする。
 いよいよだ、と思ったせいか足の力がうまく入らなくなってきた。机の上にお尻をのせようと、積まれたプリントの束を横に寄せる。
 ――と、彼の手が止まった。下着が膝より少し上で止まっている。
「俺も……やばい」
「うん、いいよ。私も我慢できないし」
 私たちの『やばい』が別だと気づいたのは、彼の視線が先ほど寄せた束に向けられていたから。
 突然、下ろされていた下着が元へ戻された。
「えっ! ちょっと、嘘!」
「忘れてた。チッ……そんなとこにもありやがった」
 プリントの束を指す。
「やめた原因、これ?」
「子供を遊園地に連れて行くって先生のを引き受けたんだ」
「優しい。……けど、最低」
「これも、とっととしまえ」
 ブラジャーも彼に無理やり元に戻された。布地が敏感な先端をかすめていく。それだけで下着は濡れていく。このまま放置されたくない。恥ずかしいのを覚悟で言った。
「私、濡れてる」
「自分で済ませてくれ。俺は……萎えた」
「一人で? こんなとこで? バカみたい」
「お前の怒りはごもっともだが、本気でまずい」
 彼は椅子を回転させてパソコンへ向き合う。動き始めていたスクリーンセーバーから、作業途中だった表へと画面が換わる。
 プリントの束をめくりながら、時計を睨む彼を見ていると、本当にやばいということが伝わってきた。胸をきちんと戻し、投げられたキャミソールを着る。
「手伝おうか?」
「俺の左手を使うか?」
 重なった言葉に、二人で顔を見合わせる。
 差し出された彼の左手を見つめる。
「左手って、なに?」
「一人でってのは悪いから俺の左手でも使え、と思ってだな」
「いりません」
 浮いたままの左手をぴしりと払った。
 彼のクローゼットの中から古いノートパソコンを取り出す。
「これ使って、分担して打ち込むってことはできない?」
 彼は何も言わずにじっと私を見ている。手も止まっている。
 すぐにでも作業にとりかかれるようにと、テーブルにノートパソコンを置き、コンセントを挿して電源を入れた。
 そこで、ようやく彼が口を開いた。
「萎えたモノが蘇りそう、と言ったら?」
「知らない。なんで?」
「お前が優しいから」
「私は大変そうだから手伝ってあげようかって言ってんの」
 寂しそうに下半身を見やり、
「終わったら存分にあの女を抱きゃいい。今は我慢しやがれ」
 小さな声で話しかけていた。あの場所を『ムスコ』とはよく言ったものだ。
 彼がフロッピーディスクとプリントを私へ差し出してきた。
「フロッピーに表が入ってる。四組から六組まで頼む」
「はい、先生」
「絶対に変なちょっかいかけてくるんじゃねぇぞ」
「先生、わかりました」
 パソコンへ向かおうとしたけど、彼につかまれ引き止められた。
「あと……その『先生』ってのやめろ」
「変なプレイに目覚めそうになるから?」
 笑って言った私とは逆に、彼は真顔で首を振った。
「……生徒を思い出す」
 私の向こうに可愛い生徒の笑顔でも浮かんでいるのだろうか。本当に少し辛そうだ。今日は、『彼氏』じゃなくて『先生』を優先させてあげることにした。
「いい先生、してんだ」
「おっさんだとかオヤジだとか呼ばれてるがな」
「作業が終わったら彼氏に戻ってよ」
「……了解」
 プリントをパソコンの横に置き、キーに指を添え、彼が打ち込み始める。
 その横顔を少しだけ見つめた後、私はこっそりとプリントの束へ鼻を寄せる。
 彼が担任をつとめる教室の一員になったような気がした――。


 ◇終◇
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