授業が終わって一時間半も経てば、廊下や教室は一気に静かになる。帰宅する人、部活に励む人、それぞれの場所へ行くからだ。
私はさっきまで、職員室にて提出し忘れたプリントの欄を埋めていた。すぐに終わるかと思いきや、予想以上に時間をとられた。
教室にある鞄を取ったら、あとは帰るだけ。
走るのもばからしくなり、ぺたぺたとサンダルを小気味よく鳴らして歩く。
静けさからして、教室には誰もいないはずなので、普通にドアを開ける。
その瞬間、目の前に飛び込んできた嬉しい――いや、驚く光景。
私の想い人がジャージへと着替えている最中だった。
すぐにドアを閉めればいいのに、私は、彼の胸と腹筋におもいきり吸い寄せられる。
彼もシャツを頭からかぶったまま、驚いたようにじっと見ていた。
「出てってもらって、いい?」
カッターシャツを脱いだところで止まったまま、彼は口だけを動かす。
いやだ、と言えるわけもなく、私は、
「あ、ごめん」
ドアを閉めた。
その音を聞いて、どこかへ飛んでしまっていた感情が一気に舞い戻ってきたので、廊下の窓を開け、顔を風に晒す。
大きく何度か深呼吸をして、自分で呟いてしまった結論。
「見とれちゃうって……やばくない?」
あの時、彼に声をかけられなければ、たぶんずっと見続けていただろう。
男子が教室で着替えるところを見るなんて初めてじゃない。女子がいても平気で着替える男子もたくさんいる。だけど、好きな人の着替えというのは、また違った魅力があるらしい。
窓枠にもたれる私の背後から、ドアを開ける音が聴こえた。
「もしかして、かばん? 取るつもりだった?」
振り向くと、上はジャージで、下は制服ズボンの彼が立っている。
「そう。取るつもりだった」
「あっそ。ちょっと待って」
ドアを開けたまま、彼が教室へと戻っていく。私のかばんを持ってきてくれるのだろう、とそのまま待つことにした。
「はい」
「わざわざ、ごめんね」
鞄を受け取ろうと差し出した私の手首が、彼につかまれ、強い力で引っ張られた。
「えっ、ちょっ……わっ」
こけそうになった私は、すんでのところで、近くにあった机に手をついて耐える。
引っ張った彼は、驚く様子もなく、楽しそうに私を見ていた。
「い、いきなり、なに? 危ないんですけど……」
彼が置いた鞄をつかみ、私はドアから教室を出ようとしたけど、
「あ、ちょっと待って」
と、背後から伸びた彼の手がドアを閉めた。
目の前で閉じられたドアと、私の真後ろに立っている彼。
あまり、素敵な状況ではない。むしろ、わずかに危険寄り。
へたに動くこともできず、私は肩にかけた鞄をぎゅっと握る。
「あ、っと……怖がらないでくれない?」
ドアを押さえていた手は離れ、彼の影が少しだけ遠ざかる。
恐怖の中でも、生まれた隙は逃さない。私は急いでドアに手をかけた。そのままスライドさせればドアは開く。
「待てって。あんたもしぶといな」
「い、やっ」
ドアにかけていた手が、すっぽりと包まれてしまった。彼の手が押さえつけるように重ねられている。
恐怖と、彼の手が重なってることへの緊張で身動きがとれない。もう片方の手でドアを開けることも可能だけど、そんな考えにも及ばないほどに緊張していた。
「な……」
「な?」
「泣きそう……」
「うわ、そりゃ困る。けど、出て行くなら放せない」
出て行きたい私と、そうはさせない彼。お互い、少しも動かなかった。
やがて、彼がゆっくりと手を離す。
「一つ、聞きたかっただけ、なんだ」
悲しそうな、諦めたような彼の声音に、ドアから手を放して振り向いたけど、彼との近さに少しだけ後ずさる。
「何を?」
にやりと、彼の口の端が上がる。罠にはまった獲物を見るような目に、私はさらに後退する。
「さっき、見とれてなかった?」
やはり、気づかれていた。あれだけ、じっと見ていれば気づかないほうがおかしいのかもしれない。
ただ、本人を目の前にして、肯定できるほどの度胸は無い。
「別に。着替えてるんだ、と思って……」
彼は試すようにじっと私を見ている。この見つめ合いから目をそらせば、認めてしまったも同じ。
好きな人と見つめ合う恥ずかしさをこらえ、私は彼から目をそらさなかった。
「触って、みる?」
「えっ……?」
驚いているうちに、私の手をとった彼は、自分のお腹へと導く。
私の手のひらが、彼のお腹へぴたりとつけられた。
驚きが限界を突破してしまい、思考がまともに働かない。つかまれている手にも全く力が入らない。
「腹筋、自信あるんだ。日々の部活の成果が出てるだろ?」
「あ、うん。そう、だね」
返事はしてみたものの、手から伝わる腹筋の硬さが一般と比べてどうなのか、までわかるはずもない。
好きな人の腹筋に手をあてている、という状況がいまだに信じられないし、実感も湧かない。
嬉しそうに微笑んでいる彼と、導かれるままにお腹へ手をあてている私。
沈黙が続けば続くほど、私の頭はさらに混乱していく。
「俺も……」
彼が空いている手を私のお腹へとくっつける。
その瞬間、陶酔と沈黙に包まれた空間が一気に破られる。
「えっ、だめ、無理っ」
考えるより先に体が彼から離れ、つかまれていた手を振り解き、両手で必死にお腹を押さえ、彼を凝視する。
手を伸ばしたまま、彼は驚いていた。やがて、手をおろした彼は、拗ねたように口をとがらせた。
「俺が触ると嫌がるわけ?」
「嫌がるって……当たり前だと思うんだけど」
「俺の、触っただろ?」
彼が自分のお腹を指す。
私も必死に否定の意を込めて首を振る。
「違う。あれは無理やり」
お腹を押さえている私の手を、彼が強引につかんできたので、力を入れて振りほどく。
「今みたいに、いつでも振りほどけるようにしてた」
言われた瞬間、返す言葉をなくした。
お腹を触った彼から逃れる時、あっさりと手も振りほどけた。そう、今のように。
「振り払えなかったの」
「なんで?」
振りほどかなかったのは、私が彼を好きで、自信があるという腹筋にも惹かれていたから。
「言えない」
あくまでも答えを言わない私を睨んでいた彼は、自分の手を広げて、自嘲気味に笑う。
「俺が男で、振り払ったら何かされそうで……怖かった?」
「違う」
それは誤解だから、即座に否定する。
お腹に触れている時は、恐怖など全く感じていなかった。いや、彼相手に感じるわけがない。
「じゃあ、本当は?」
持久戦になってもいい、とじっと見つめる彼の目が語っている。
答えを言うまで、私は教室から出られないのだろう。
あっ、と彼がくすりと笑う。
「男の裸、好きなだけ?」
私を嘲笑うようなその声に、押さえていたものがぷつりと切れた。
「そんなわけないでしょ。あのね、好きな人の体に触れば、誰……だって……」
誤解を解くはずが、告白していると気づいたとたん、私の言葉は歯切れが悪くなり、ついには小さく消えていった。
目の前の彼が、満面の笑みへと変わっていく。
「俺も。あんたの体に興味ある」
「エッチな言い方しないで」
「どっちがだよ。先に見とれたのはそっち」
それを持ち出されると、もう何も言えない。観念した私は黙秘することで認めた。
「あ、返事、だ。俺もあんたのことが……」
「いい、言わなくていい。わ、わかってるから」
「そっか……」
こういう状況に慣れているかのように言っていた彼が、とたんに照れくさそうに笑った。
好き、という言葉を聞きたかったけど、改めて聞くのもまた恥ずかしい。
「俺も白状すると……あんたの手がさ、すごく柔らかくて、強く握れなかった。ふりほどけるように、なんて考えられるわけないって」
明るく笑いながらも、彼の顔は真っ赤になっていて、私の頬にも伝染する。
「そう、だったんだ」
そう返すだけで精一杯だった。
そうだったんだ、と心の中でもう一度呟き、頬を緩ませる。彼もドキドキしていたのかと思うと、嬉しい。
「あ、着替え」
彼がズボンを見つめる。
「私、帰る、ね」
私はドアに手をかけ、彼はベルトのバックルへと指をかける。
「今度は、見とれてもいいから。あんたに見られるのは嫌じゃない」
着替えを見てもいい、と言われても、少し困る。返答を避けることにした。
「腹筋フェチとかじゃないけど、さっきの感触、嫌いじゃないよ」
ゆるくなったベルトの重みで、彼のズボンが下がる。
「わっ……あ、ああ、どうも」
少しだけトランクスの柄が見えたことは黙っておくことにして、私はドアを開ける。
「着替えの邪魔してごめん。じゃ、バイバイ」
「あ、待った」
振り向くと、ズボンを押さえたままの彼は目をそらす。
「友達に、彼女できたって自慢して、いい?」
「い、いいよ」
勝手に頬がどんどんと緩もうとする。変なにやけ顔を見せてしまわないうちに、と私は教室を出てドアを閉めた。
直後、机を叩く音と、彼の嬉しそうな声が背後から聞こえてきた。
◇終◇
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