人生は上々だ  文:日下部亮
これまでの人生23年と少し、とりたてて不幸ではなかったと思う。
逆に言えばそう大きな幸せを感じたこともあまりなく、せいぜいが微妙に色のついた明るめのグレー。
そうして、その夜もいつもと変わらぬ夜が過ぎ、朝が来て、同じような毎日が続いていくはずだった。
滅多に鳴ることのない呼び鈴が、二度鳴らされるまでは。

「はいはいはい、今開けるっつの」
手にしていた漫画雑誌をベッドに放り投げ、コタツから這い出す。
ビデオデッキのデジタル表示は22:15。
誰だこんな時間に、とぶつぶつ文句を言いながら玄関の鍵を開けた俺は、一瞬にして言葉を失った。
扉の向こう、帽子とマフラーで顔を隠すような姿で立っていたのは、まさに予想外の人物だったから。
「……よ」
相手が、少々気まずそうに片手を上げる。
何故ここに。何故彼女が。何故今時分。
たとえ出身大学が同じだろうと、二次元愛好会の先輩後輩であろうと、あまつさえ卒業後も俺が部室に入り浸っていたとしたって、彼女が一人でここに来ることなんてあり得ない。
なのに、周りに他の誰かが──同じく後輩で彼女の恋人であるあの男ですら──いる様子がないとあっては、頭の中を『何故』の二文字が支配するのも当然の事だろう。
何がどうなっているのかさっぱり分からないまま、俺は呆然と目の前の相手を見下ろした。
それに気づいているのかいないのか、彼女は視線を足下に落としてボソリと呟く。
「っていうか、入れてくんない? すっごい寒いんだけど」
いつもと同じ無遠慮な口調に、俺はようやく自分を取り戻した。
「え、あ、あぁ、そ、そうだな」
見れば暗い通路に流れる吐息は真っ白で、ダウンジャケットを纏った体は小刻みに震えている。
上ずった声であいづちを打ち、俺は慌てて彼女を部屋に招き入れた。
脇を抜けるその姿に、こんな時間男の部屋に一人で来るなよ、と言いかけて思い直す。
下手にそういう事を口にすると、オタクくさいとか自意識過剰とか言われるのがオチだ。
普通の男が言えばそれなりに納得する台詞も、恋人がいるという理由だけで会に籍を置く彼女にしてみれば、オタクという名の別の生き物の戯言に過ぎないのだ。
俺にしてみればアニオタだろうがゲーオタだろうが男は男だろうと思うのに、彼女の意見は違うらしい。
確かに自分が手を出したところで、あっさり撃退されるのは火を見るより明らかなのだが──
そこまで考えて、俺は苦笑した。
まったく、これだから自意識過剰と言われるんだ。
「おい、コーヒーと茶があるがどっちがいい?」
先に部屋に入った相手に、キッチンとは名ばかりの一角から声をかける。
「んー…」
端切れの悪い返事に、軽く息を吐いて言葉を付け足す。
「あーちなみに、コーヒーは一昨日買ったばかりだ」
「コーヒー、ブラックで」
「………あいよ」
あまりに予想通り過ぎて、腹をたてる気にもならない。
どうせ恋人の所も似たようなものだろうに、と再び思考のループにはまりかけるのを制し、俺はインスタントコーヒーをいかに上手く入れるかに専念することにした。

「ほれ」
「ん、サンキュ」
通常の定位置であるパソコン机の前には既に彼女が陣取っていたので、反対の壁際にあるベッドに腰を降ろし、コーヒーを啜る。
湯気で曇った眼鏡をセーターの袖口で軽く拭いつつ、漂うコーヒーの香りにリラックス……出来るはずもなく。
心臓が凄まじい早さで拍動しているのを努めて表に出さないようにして、俺はカップ越しにこっそり相手の様子を窺った。
深い緑のタートルニットにミニスカート、ワインレッドのパンスト。いや、タイツか?
形の良い脚のラインに釘付けになりかかる視線を心の中で叱咤して、顔の方に移す。
そうして初めて異常に気付いた。
目元が赤い。
ゲームでよくあるトキメキ状態などではなく、明らかに泣いた後の。
そう言えばいつも隙のない化粧をしている彼女からは考えられないノーメイク。
嘘だろ、おい、マジかよ、と俺は一気にパニックに陥った。
初めて逢ってから今まで三年と半年、彼女の涙を見た記憶はない。
冗談抜きで強い彼女の事、恋人ならともかく、この俺に彼女を泣かせるほどの影響力などないのだから。
そもそも泣くような目に遭うのはこっちの方で、当然彼女を慰める術の持ち合わせがあるはずもなく─。
「ねえ」
「うわっ、え、は、な、何?」
危うくコーヒーをこぼしかけた。
思いきり挙動不審な態度に、相手が眉を顰める。
「何よ、どうしたの?」
いつもと変わらぬ態度に、俺は曖昧な笑みを浮かべて眼鏡の位置を直すフリをした。
「ああ、いや、ちょっと考え事してたもんで。 んで、何? 何か言いかけた?」
落ちつけと自分に言い聞かせ、コーヒーを口に含む。
今現在泣いていないのに、うろたえてどうする。
単に、ゴミが入っただけかも知れないのだ。そうだ。そうに違いない。
「んー、何か部屋片付いてるなって。 前来た時より物減った?」
辺りを見回しながら彼女が言い、釣られて俺も視線を走らせる。
言われてみれば、3年程前皆で集まった時よりは明らかにゲームと漫画の数が減っていた。
「いやー、なーんかマジに仕事忙しくってねー。 オタクやってる暇ないのよ、これが」
いつまでも大人になりきれず、燻っていた一年前の自分。
当たり前のように就職を決めていく同輩を羨む反面、居心地のいい場所を離れる事が妙に寂しくて、結果選んだ職場は大学から徒歩10分。
散々呆れられるのを就職しただけマシだと居直り、頻繁に大学に足を運んでいたのだが、ある日ふと自分が情けなくなった。
きっかけは何だったか、そもそもそんなものがあったのかすら覚えていないが、結局の所漠然と感じていた事を改めて意識しただけだったのだろう。
オタクだろうがお子様だろうが俺は俺だ、と開き直るフリをして、その実必要以上に周りを意識していた自分を。
さすがに泣きはしなかったものの、あまりに情けなくて一週間どっぷり落ち込んだ後、とりあえず惰性で流していた仕事と真正面から向き合ってみた。
その気になれば仕事なんていくらでも湧いてくるもので、ただがむしゃらに取っ組み合っているうちに、それまでの生活は一気に遠のいた。
おかげで高校の頃から欠かさず行っていたコミフェスも、新作ゲームの0時売りにも行けずじまい。
あれほど頻繁に顔を出していた愛好会にすら、2ヶ月以上足を運べないまま今に至っている。
オタクをやめたつもりはないのだが、購入の頻度が違う。 そうして、古い物を人にやったり処分したりしている間に、いつの間にか部屋はあくまでも多少だがスッキリしていったのだ。
とは言え。
「ホント俺らしくもないって感じ?」
オタクとしての自分しか見せたことがない俺にとって、らしくない行動はどこか気恥ずかしく、つい茶化してしまうのは相変わらずだ。
けれどそんな俺の様子を気にした風でもなく、彼女は少し笑みを浮かべる。
「ちゃんと社会人やってんでしょ、いいんじゃないの?」
予想外に好印象の返事に面喰らった俺は、かろうじて苦笑らしき物を顔に張り付けた。
彼女はいつもストレートだ。
『嫌い』も『気持ち悪い』も『最低』も思ったままに口にして、時には同時に手が出る。
誇張でも何でもなく、俺が一番その被害を受けているはずだ。
もちろんプラスの感情も素直に出るのだが、それは八割がた恋人や女性に向けられる。
なのに、そんな彼女に振り回され引っ掻き回されした挙げ句、オレは彼女を意識するようになっていた。
共にオタクであること以外、顔も性格も腕力も多分ゲームの腕さえも、比較すること自体馬鹿馬鹿しくなる程に差のある男の恋人を。
はっきり言って茨の道、針のムシロだ。
オタクだから駄目なのではなく、あいつでないから駄目なのだと思い知らされる度、手の届かない存在だったはずなのに、と苦い思いが心を占める。
どう足掻いても無理ならさっさと諦めてしまえと思うのに、現実世界の恋愛ごとに不馴れな心はそう簡単には軌道修正がきかないのだ。
今だって、何しに来たのか尋ねることさえ出来ないままに、相手の出方を窺って。
ゲームのように選択肢が表示されればどれだけ楽か。
「何ぼーっとしてんの」
ふいに声をかけられ、俺は思考の淵から引き戻された。
「え、いや、あはは」
どうも、急な訪問に脳が対処出来ずに、いつもの3割増位で余計な事を考えている。
そう言えば、ある程度の事なら笑って流せる程度の器用さを身に付けたのも、彼女に逢ってからのような気がする。
もちろんいちいち反応して喧嘩になることもしばしばだが、それでも多少は相手の意見を許容できるだけのスペースを心の内に確保できるようになったようだ。
たとえ何を考えていようとも爽やかな笑みを浮かべるあいつとは違い、いつも眉を下げた苦笑めいた笑いになってしまうけれど。
どうせ顔の造りが違うのだ、自分にはこれが似合いだろう。
「…のさ、ひょっとして迷惑だった?」
そんな俺の態度をどうとったのか、言いにくそうに彼女が呟いた。
斜め下に視線を外し、少しだけ口を尖らせて、どこか拗ねたように。
「…………………明日は大雪だな」
「あんたねぇ、人がわざわざ気を遣ってやってんのに」
「いやいやいや、だってどうしたのよ、急に。 今までに気を遣われた記憶なんてないんだけど、俺」
「記憶違いね、もうボケたの?」
「ほお」
売り言葉に買い言葉。
これがいつもの自分達の形で、勝手にセオリーから外れてもらっては困るのだ。
いきなり可愛くなられては対処できない。
相変わらず現実に弱い自分を頭の隅で嗤いながら、そっと胸をなで下ろして
「だいたい俺があんたに気を遣うはずないでしょ、迷惑なら玄関で追い返してるって」
続いた自分の台詞に固まった。
これでは迷惑ではないから帰るなと言っているのと同義ではないか。
いや、考え過ぎるな、単なるフォローとしか受け取らないはずだ。
だが俺が彼女にフォローの言葉をかけた事などあっただろうか?
頭の中で何人もの自分が騒ぎ立てる。
いい加減パンクしそうになった所で、ふ、と目の前の彼女がわずかに微笑んだ。
「ありがと」
ただそれだけで俺の頭の中は綺麗に真っ白。
聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声は、あるいは独り言だったのかもしれない。
笑顔だって別に好意的なものではなく、単にこちらの台詞がおかしかっただけなのかもしれない。
そうやって無理矢理理由付けをしつつも、心のどこかが喜ぶのは抑えられなかった。
ゲーム中とは違い、生の感情はやっぱり制御が難しい。
「ほんとここ来たのって何年ぶりって感じ。 あの時は確か週一で皆のトコ回ってたんだっけ」
たった今の笑顔が幻だったように、いつもの様子に戻った彼女が言う。
「ああ、工事で部室が使えなかった時な。 オタクの部屋なんて、あんたにゃ未知の領域だったんじゃねーの?」
「あったりまえじゃん、モノ多いし汚いし。 まぁでもあいつの部屋も似たようなモンだったからさ」
親し気な呼び方にちくりとまた棘が刺さるのを無視して、俺は笑った。
「住めば都ってね。 しかしあん時もあんた、やらかしてくれたんだよな…」
言ってしまってまたもや俺は硬直した。
どうして今夜はこう、余計なことばかり口を滑らせてしまうのか。
「ああ、あれ? 隠されたら余計見たくなんない、好奇心てやつよね」
「い、いやいや、普通そっとしとくでしょ、人の秘密なんて」
言いつつ、背中を冷や汗が流れるのを感じる。
やばい。
とにかくやばい。
今すぐにでも立ち上がりたいのだが、挙動不審になれば彼女は絶対に興味を示すに決っている。
すぐ横の、あの抽き出しに。
「えー、そう? 秘密って興味湧くじゃん、それもあんだけ必死になられたらさぁ」
「や、でも隠すって事は知られたくないって事だし、それってやっぱプライバシーの問題じゃない?」
思わず裏返りかけた声をなけなしの根性で抑え、俺はつばを飲み込んだ。
喉がからからだ。
「それにあいつらも言ってただろ、たとえオタク仲間にだろうと知られたくない最後の砦はあるって」
その最後の砦を暴いたのが彼女だった。
人の部屋の抽き出しを無許可で開けるなど、好奇心旺盛にも程があると今でも思う。
そのとばっちりを喰うのはいつも俺なのだ。
「でもあんたの場合、秘密の方がある意味普通の趣味だったんじゃん?」
当時の俺の抽き出しから発掘されたのはSMものの実写AV。
結構ハードな代物だったと思うのだが、その時もアニメやゲームよりは普通っぽいと彼女は言っていた。
だが、あれは。
「ハイハイ、でもやっぱ知られたいもんじゃないのよ、俺としては」
「そりゃまぁちょっとは悪かったかな、とは思うけどさ。 でもオタクの最後の砦ってのも、微妙に気になったし?」
「微妙程度で人の秘密を暴くなっての」
俺は苦笑しつつ、呟く。
タイトルすら記憶に残っていない数本のDVDは、あの後すぐに処分した。
皆の手前、多少バツの悪い思いはしたものの、あれが俺の秘密だと思わせることには成功したし、そうなればもう必要のないものだ。
だから今そこにダミーはない。
あるのは。
「そんな気にすることないってば。 だいたいこんなの…」
「って、ちょ、待った!」
不意打ちのように開けられかけた抽き出しを、慌てて押さえる。
コタツに乱暴に置いたカップからコーヒーがこぼれたが、気にしている場合じゃない。
その剣幕に驚いた相手が少し力を緩めた隙に、俺はぴしゃりと抽き出しを閉めた。
「な、何よ、もう知られてんのにそんな必死になんなくてもいいんじゃん?」
「たとえそうでも、あんま何回も見られたくないもんなの」
こんな事になるのなら、別の場所に移しておくんだった、と心底後悔しつつ、俺は押さえる手に力を込める。
後悔は先には立たないが、後に立っても役に立たない。
「多少増えてたって気にしないわよ。 あ、何か別のとかも入ってる?」
「増えるとか別のとかAV興味あんならレンタルでも行って来いっつの」
内心ぎくりとしたが、表に出ないよう不機嫌を装って言い返す。
「だいたいね、あんたが気にしなくても俺はするんだって。 それともそんなに俺の秘密知りたいわけ?」
自棄になって言った一言に、相手が少し眉を顰めた。
「オタクがむきになって隠すものにちょっと興味あるだけ。 べっつにアンタの秘密知りたいわけじゃないわよ」
彼女の一言一言が、鋭い棘になって刺さる。
何年も前から増え続けたそれはもう、心臓をびっしり覆ってしまっているのに、まだ増え続けるのか。
「………よ」
「は?」
眉を顰めた彼女に、掠れた声で告げる。
「俺の、秘密だよ。 オタクの、じゃない。 俺の」
本当に本当の、最後の領域。
これを知られたら、もう。
「マジ、勘弁して?」
俺なんかに興味ないでしょ?と俺は苦笑した。
眉尻を下げた情けない笑顔。
黙って見上げていた彼女は、軽く息をついて肩を竦めた。
「そんな気にする事ないと思うけどね、ま、いいわ」
大人しく手を引いた彼女に、どっと安堵の念が押し寄せて、抽き出しを押さえる力が弛んだ。 途端。

ガラリ。

「!!」
そう言えば前もそうやって、気を抜いた瞬間に開けられたんだ。
と以前の記憶が脳裏をよぎったが、時既に遅く。
無造作に放り込まれていたものは、あっさりとその身をさらした。
「なに、これ…?」
「いやあ…はは…」
力なく笑う以外、出来ることなどあるはずもない。
彼女は、半ば呆然とした様子でそれを手にとった。
別段何の変哲もない、数枚のスナップ写真。
程度で言えば、明らかに以前のDVDの方が隠されて然るべきで、これ自体はとりたてて問題ではないだろう。
そのどれもに彼女が写っている事を除けば。
「…あ」
「あ?」
ごっ!!
聞き取れなくて少しだけ身を乗り出した俺の顎に、綺麗なアッパーが決まった。
「あんたらだけは絶対撮るなって言ったじゃん!!」
久々の一撃に目の前を星が飛ぶ中、上から怒声が降ってきて、その怒りの出所が分かった。
俺が初めて手に入れた彼女の写真、すなわち無理矢理させられたコスプレ写真だ。
「撮ってない、カメラ小僧から買ったんだ」
言っても無意味な事だが一応報告する。
「同じ事だ!」
案の定、無意味どころか火に油を注いでしまったようで、怒りのオーラが出力を上げる。
痛む顎をさすりながら、俺はその視界が随分ぼやけている事に気づいた。
眼鏡が飛んだのだと分かって、けれど探す気も起こらないまま、黙って彼女を眺める。
知られてしまった最後の領域は、彼女を決定的に遠ざける要因としては完璧なものだ。
これでようやく数年来の茨の道を抜けだせるのだと、心のどこかで自虐的に喜ぶ自分がいて、そのくせ、最後の拒絶の顔は見たくなかった。
「とりあえずこれは没収」
「ええ!?」
だが拒絶の言葉を予想していた俺に、彼女は予想外の台詞を投げつけた。
いや、見つかれば処分されるのは予想の範囲内だが、引かれるより先にその台詞が出てくるとは思っていなかった。
「ええ!?じゃない。 こんなもんが周りの人間の手にあるなんて考えんのも嫌なんだから。 どうせコレなくたって、他にも色々持ってんでしょ」
「あるかよ、んなもん」
「へ?」
反射的に返した言葉に、彼女が毒気を抜かれたように呟いた。
変に落ちついてしまった自分を自覚しつつ、俺は肩を竦める。
何を言ってもどうせふられるのなら、隠した所で無駄な話だ。
「他のなんて持ってねえよ。 コスプレマニアじゃあるまいし」
ぼそりと告げて、それでも少し頬が熱くなるのを感じた。
開き直った癖に修行が足りん、などと訳の分からない事を考えるのは、やはり多少混乱しているのか。
「えー? あ、そうか、じゃあこのキャラ…えっとなんだっけ? これ好きなんだ?」
「……いや、別に」
そう答えながら俺はふと違和感を覚えた。
なんだかわからないが何かが微妙に。
「何よそれ? ま、確かにこのキャラじゃなかった気はするけど」
呟いて、自分の写真を(多分)嫌そうに眺める彼女。
何故だろう、どこかひっかかる。
「って言うか、そんなのどうだっていいのよ。 とにかくこれは処分よ、処分!」
「…………………………………」
ふいに気づいた違和感の正体。
コスプレ以外の写真が、目に入っていないわけではないだろうに、それについては不問にしてくれるのだろうか。
部員の集合写真はともかく、残りの2枚に俺は写っていないのに。
それはもちろん手に入れるのに相当気を遣ったし、没収されずに済むならそれにこした事は……って待て馬鹿違う、そうじゃない。
痛い思いをするのが嫌で、つい考えがぬるま湯の方へ脱線しそうになるが、ここは普通拒絶の言葉が返ってくる場面じゃないのか。
それとも自分には一般常識が欠けていて、知らぬ振りを決め込むのがこういう場合の定石なのだろうか。
「何か言いたそうね」
「……いや」
「言い分があるなら言ってみなさいよ、聞く耳持ってないけど」
「………言う意味あんのかよ、それ」
常と変わらぬ彼女の態度に思わず苦笑する。
拾い上げた眼鏡をかけると、クリアになった視界に不快感をあらわにした彼女がいた。
気づかない振りをしてくれるのなら、それに乗るべきなのかもしれない。
そうしてまた自分はこのままずるずると茨の道を歩き続けるんだ。
いつまでも、ずっと。
自力で諦める事さえ出来ないのなら、きっと永遠に。
「さすがにそれは嫌だな」
「だから何が?」
独り言に反応して、彼女が眉間の皺を深くする。
この先俺の前で、その皺がなくなることはないのだろうと思う。
それでも。
「処分するのはその写真だけでいいのか?」
こんな思いはもうたくさんだ。
「は?」
「他のは持ってても構わないのかって聞いてんだけど?」
一瞬の沈黙が、随分長いものに感じられた。
「他のなんて関係な………ちょ、何よコレ、全部あたしなわけ!?」
「…………………………」
気付いてなかったのかよ!と、ひどい脱力感が体を襲う。
つまりは一番上になっていたコスプレ写真だけに気を取られていたということか。
ひょっとしなくても藪蛇だったのかもしれない。
今さらながら今夜の自分の運のなさに呆れ、俺は少し冷めてしまったコーヒーに手を伸ばした。
いずれにせよ、これでふられるのは確定項だ。
何がどうなろうと、もうどうだって─
「なんであんたがこんなの持ってんのよ」
からからに渇いた喉に一気にコーヒーを流し込もうとしていた俺は、思わず吹き出しかけたそれを必死で飲み込んだ。
既に温くなっていたので火傷することはなかったものの、慌てた拍子に肺へ吸い込んでしまい、思いきり咳き込むはめになって、目に涙が滲む。
ソコマデイワセタインデスカ?
喉元まで上がって来た質問は至極妥当なものだと思ったが、口に出す事も出来ず俺は溜め息を付いた。
何なんだ、この鈍さは。
そういった事には敏感なはずの彼女なのに、それとも自分には一般常識が──ああもう以下略だ。
何だか腹が立って来た。
だいたい生まれてこの方23年と少し、告白はおろか恋すらろくにした事がない俺にこれ以上どうしろと。
圧倒的な経験値不足。
選択肢が無限に近い現実に、恋愛シミュレーションが役に立つはずもない。
「つーか、何でわかんないかね、ここまで来て!? 分かれよ、分かるだろ、フツー!」
「何がよ! オタクのフツーなんて私が知るわけないじゃん!」
「この件に限っちゃ、オタクは関係ないっつの! 全く、これっぽっちもな!」
「じゃ何なのよ、さっさと言えばいいでしょ!」
「〜〜〜〜〜〜〜っ」
いつまでも続きそうな睨み合いを断ち切って彼女に背を向け、ベッドに勢いよく腰を降ろす。
はあ、と大きく息を吐き出して少しでも落ち着こうとしたけれど、どうも無理のようだ。
いら立ちまぎれに髪をかき回し、奥歯を噛み締める。
「……ったく、何で俺んトコなんかに一人で来るんだよ。 ありえねーだろ、それ自体」
吐き捨てるようにそう言うと、彼女が息を飲む気配があった。
「…さっき、迷惑じゃないって言ったくせに」
「迷惑じゃねーよ、訳が分からんだけだ」
彼女が何故ここに来たのか。
顔を上げると、彼女は気まずそうに視線を外した。
「…って…ないじゃん…」
下を向いたまま彼女が呟くが、消え入りそうな声で言われた台詞はほとんど耳に届かない。
「はい? 聞こえないんですけど?」
だが聞き返した途端、こちらを向いた顔に思いきり睨み付けられ、思わず少し身構えてしまった。
漫画で言うなら、『ぎろっ』とか『ぎんっ』とかいう擬態語が大きな描き文字で入りそうな表情だ。
「だって、仕方ないじゃん! あたしだってまさかオタクに転ぶなんて思ってもなかったんだから!」
真っ赤な顔をして半ば怒鳴りつけるように告げられた言葉。
たっぷり十秒悩んでから、ようやく口を開く。
「…………ええっと、オタクの世界へようこそ?」
「誰が入るかぁっ」
ごす、と頭頂部に鈍い音が響く。
鋭いチョップにずれた眼鏡の位置を直しつつ、俺は目の前の星が消えるのを待たずに怒鳴り返した。
「どうしろっつーのよ、俺に! あんた、オタクの仲間入りしたんじゃねーのかよ!?」
「するわけないでしょ、バカにすんな! あたしはオタク野郎に転んだっつったのよ!」
「はぁ!? んなこた最初っから判っとるわ、改めて言う必要ねーだろ!」
「ちっがうわよ、あいつはオタクって判ってて好きになったんじゃないもん!」
互いに息を切らし、黙って睨み合うこと数秒。
「……同じことだろーが」
「全っ然、違う」
彼女の言いたい事が掴めないのはいつものことだが、それを差し置いても今夜の彼女は説明を端折り過ぎている気がしてならない。
だいたいここに来た理由を聞いたはずなのに、何でこんな。
軽く溜め息をついて、俺は眼鏡を押し上げた。
「あー、つまりだな、あんたはオタクと知らずにあいつを好きになったと言いたいわけだ」
「そうよ」
何でこんな自分のキズを抉るような事実を確認しなければならんのか。
「だが、結果的にはオタクに転んでしまった事になると─」
「違う」
「……だから、何が?」
こめかみの辺りが引きつっているのは気のせいじゃないだろう。
目が険を帯びているのも、眉間に皺がよっている事だって、自覚済みだ。
今さら取り繕う気もないし、そもそもがそんな関係じゃないが、それでも少し思う。
普通、片思いの相手にここまで本気で喧嘩するか?
恋人同士の喧嘩ならともかく、これじゃ嫌われて当然だ。
と、イライラしながら考えていると彼女がキレた。
「あーもう、何でわかんないのよ! あんた鈍すぎ!」
「な、い、今の話で何を分かれっつーんだ!」
これだけの会話で理解出来るくらいなら、苦労はしていない。
と言うより、これでわかるなんて一般人の方こそ異常な感覚の持ち主なんじゃないだろうか。
「これだけ言えば、普通は理解するでしょ!?」
「俺に世間の常識を求めても無駄だっつーの!」
「威張んな!」
「そっちこそ、俺の言いたい事の半分も分かってねーくせに、人にだけ理解求めんなよ!」
言い返しつつも、不安がよぎる。
ひょっとして、自分が彼女にそういった感情を抱く事が、想像の範疇外の事なのだろうか。
「だから何だってのよ、さっきから聞いてんじゃん!」
だとしたら。
「あー、わかった、わかった。 俺はあんたが好きです! 惚れてます! マジに片思いしちゃってます! これで満足かよ!?」
ああ、だとしたら、認めるしかないじゃないか、ここまで来てしまったんだから。
誤魔化すなんて器用な真似、俺には出来やしないんだから。
「…………………」
目を見開いて絶句した彼女の視線から逃れたくて、目を閉じた。
ああくそ、どこの世界に逆ギレで告白するやつがいるって言うんだ。
少なくともゲームやアニメにはいなかった。
これが現実というやつなのか、単に自分がおかしいだけなのか、もう考えたくもない。
部屋に落ちた痛い程の沈黙が、沸騰していた頭から急速に熱を奪っていく。
喉から飛び出しそうな心臓の鼓動はひどくうるさくて、今すぐにでも耳を塞いでしまいたかった。
なんて本当は、彼女の拒絶を聞きたくないだけなのかもしれないけれど。
「…………満足よ」
気の遠くなるような沈黙のあと、ぽつりと彼女が呟いた。
「……へ?」
言われた内容を理解し損ねた俺に、そっぽを向いた彼女が繰り返す。
「あんたの言いたい事が分かって満足だって言ったの。 ついでに言えば彼とは別れてきたから」
「……………………………………………………別、れた?」
彼女の台詞は再び混乱の中に俺を突き落とした。
泣いた痕はそのせいか、なんて感想は頭の片隅に追いやられ、溢れる疑問が脳を埋め尽くす。
何故満足なのか。
何故別れたのか。
──何故、今それを?
ふと、あまりに都合のいい想像が掠めて即座に打ち消した。
とてもじゃないが、そんなこと──
「あり得ない、って顔に書いてあるわよ」
「いや、だって実際…………」
実際あり得ないだろう?
そう言いたいのに、彼女の態度が表情がことごとくそれを裏切っていて、言葉が出てこなかった。
「ほんと、鈍すぎ。 はっきり言葉にしなきゃ理解できないわけ? ……って、それはお互い様か」
苦笑する彼女から目が離せない。
こんなにしっかり顔を見たのなんて初めてかも知れない、とぼんやり思う俺の前で、彼女は少し目を伏せた。
「好きよ」
小さな小さな声でそう言うのが聞こえて、どくんと大きく心臓が鳴った。
またもやその場を支配した沈黙が何かを言えと促すが、選択肢はもとより単語の一つも浮かんで来ない。
焦れば焦る程、頭の中が真っ白になって行くこの状態は、時間制限のあるゲームに似ていながらより心臓に悪かった。
「……趣味わりぃ…」
そうして散々頭の中を引っ掻き回した挙げ句、出て来たのは何とも情けない一言。
「ほんとにね。 顔とか頼りがいとかあいつの方が遥かに上なんだもん、我ながらびっくりよ」
肩を竦めて彼女が言う。
「ここんトコ部室来なかったじゃん? 1ヶ月位経って寂しいって思った時がく然としたわよ、ほんと。 認めんのにもう1ヶ月かかった」
結構辛らつな台詞だったが、怒るよりも先に納得してしまって、思わず苦笑がこぼれた。
それを見て、彼女が何だか泣き出しそうな笑みを見せる。
「けどさ、あんたそうやって笑うから。 馬鹿みたいにむきになったりもするくせに、最後にはしょうがないなって笑うから………ホッとする」
少し意外だった。
俺自身は気にも留めないような、そんな事が彼女にとって重要な事だったなんて。
だけど人が誰かに与える影響なんて、案外そんな物なのかも知れないな、とか思った途端。
ぶわ、と顔が熱くなった。
事ここに至ってようやく、俺の頭脳は現在の状況をはっきり認識したらしい。
「え、ちょ、待って、あれ?」
もしかしなくてもこれは、告白(?)成功のシーンではないだろうか。
うわ、すげ、マジに?
頭の中は盆と正月とクリスマスが同時にやってきて、サンバのカーニバルに繰り出したかのようだ。
何だそれはと突っ込む俺がいて、知るかと頭を抱える俺もいて、そんな様子をあざ笑う俺までが浮かんできて見事に収拾がつかない。
実際感情が渦巻いて嬉しいんだか驚いているんだか。
ただ顔の熱さと心臓の鼓動だけが妙に現実感を伴っていた。
椅子に座り直した彼女は、気負った様子もなくごく自然に明るい色の髪の先をいじっている。
だからと言っていつまでも惚けているわけにはいかないし、一体何をどうすれば。
「こーゆう場合、俺はどうしたらいいわけ?」
思わずこぼれた台詞に彼女がピタリと動きを止め、次いで脱力したように肩を落とした。
「あのね、普通聞かないわよ、そんなこと。 好きにすればいいじゃん」
「好きにっつったって…」
「似たような場面はゲームでも漫画でもあるんでしょ、参考にすれば?」
「出来るか、んなもん」
即座にそう返した俺は、頭に浮かんだ妄想を必死で打ち消した。
ゲームにおけるこういうシチュエーションは、全てが一つの行為を目指して進むのだ。
参考にしたが最後、返り討ちEDまっしぐらなんて笑い話にもならない。
それ以前にこの俺にいきなりそこまでの度胸がないのが、情けないとも言えるけれど。
こんな時の経験値は彼女の方が遥かに上で、俺はそれこそ胸を借りるぐらいの気持ちで………。
…………………なんだか本気で情けない。
ああまさに事実は小説より奇なり。
誰が言ったか知らないが、確かに現実は二次元より遥かに予測不可能だ。
こんな出来事が起こるなんて、一体誰が想像出来ると言うのか。
しかも選択肢も出て来なければ、あからさまに判りやすい態度なんてのも示されはせず、こういう場合の常套句はこれだ、こんな時はこう動け、なんてマニュアルはどこにも存在しないのだ。
だが、たった一つ間違えただけで即リセット、なんて状況は稀らしいから、少し位したい事をしてみるのもありなのかもしれない。
一応好きにすれば、の許しも受けている事だし。
そう考えてチラリと視線を落とすと、うっすら頬を染めた彼女は少しだけ眉を顰めてあらぬ方向を向いていた。
それが不機嫌さ故のものなのか、はたまた単なる照れ隠しなのかは判別不可能。
とりあえず殴られる未来だけは予想しておこう、と体を傾けつつ覚悟を決めた。
──はずが、彼女の顔が近づくにつれ、それは大きく揺らぎ出す。
結局、残り数センチで俺は不安に負けた。
「…のさ、キス、とかしていい?」
「………………」
はぁ、と彼女の溜め息が、俺の唇を撫でる。
「さすがに毎回こんなの、やだからね」
「……し、精進します」
その返事に彼女はもう一度軽い溜め息をつき、ふいに俺の首に腕を回す。
ぎし、と彼女の座る椅子が音を立てた。



コタツに向かい合って座り、入れ直したコーヒーを啜る。
「人の一生で、心臓の拍動回数って決まってるって聞いたことあるんだよな」
言いつつ、己の胸にこっそり手を当てた。
確認するまでもないくらい大きく、ものすごいスピードでそれは鼓動を繰り返し、今も終焉に向けての道のりを突き進む。
「何、急に?」
「いやー、恋愛するたびこれじゃ、俺早死にするなーって。 一回でいいわ」
一瞬呆気に取られた表情をした彼女は、ふいに頬を染めて眉を顰めた。
「……悔しい」
「は? 俺何か変な事言った?」
「気づいてないから余計悔しいの。 もー、ムカつく〜」
「何がよ、何で怒ってんの」
下から睨み付けるような上目遣いに、またもや心臓の鼓動を無駄(?)遣いしつつ、俺は首をかしげる。
「それって、私が最初で最後の女ってことじゃん? すごい殺し文句よね」
言われた内容に固まった俺を満足そうに、どこか嬉しそうに眺める彼女。
たった一時間程度で極彩色が塗り足された人生を前に俺は思う。
現実も捨てたもんじゃない。
どう転ぶかは、いつでも自分次第なのだ。


 ◇終◇
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