くちづけ
 今日は体育祭だけど、私はさぼるつもりで、委員の特権を利用して、特別教室の鍵をこっそり拝借していた。
 盗難防止のため、生徒が着替えた教室のある校舎は閉鎖されているけど、職員室のある棟は特別教室ばかりなので開放されている。
 競技には、特に点呼もないのでさぼっても気付かれない。
 職員室のある二階ではなく、三階の教室を選んだ私はなかなかの策士だと思う。各階にトイレもある。
 三階まで誰も気付かれずに到達した私は、社会科教室の鍵をなるべく静かに開ける。
 暗幕のせいで薄暗い教室。数人が囲んで使える大きな机が並べられている。その一つに白い大きな模造紙が広げられていた。いや、模造紙を布団代わりに寝ている人がいた。
 靴下のままだった私は、大きな足音を立てずに傍まで移動することができる。顔を覗き込んだ。
 ジャージ姿の先生が一人寝ている。先客がいる、と諦めて去りたいところだけど、目の前で寝ているのが好きな人となれば、そういうわけにもいかない。寝顔をじっくり見なければもったいない。
 勝手ながら、携帯カメラで撮らせていただくことにした。
 カメラモードにして、携帯を近づけながら、ゆっくりとピントを合わせていく。シャッターを切るデジタル音が大きく響いた。盗撮防止のため、携帯のカメラは音が消せないのだ。
 開いた携帯を閉じもせず、背中に隠して、先生の反応をじっと待った。
 先生の目がうっすらと開く。視点は動かない。
「まだ……足らねえか?」
「何が?」
 寝ぼけているかどうか確かめるため、聞き返してみた。
「もうちょっと……寄れ」
 先生のわけのわからない手招きに誘われ、顔を近づけてみる。
 本当にいきなりだった。
 気付いたら後頭部をつかまれ、引き寄せられ、唇に温かいものが触れていた。さらに、呆然とした私の歯をこじ開け、柔らかい何かが口内を這いまわるように動く。
 やがて、先生の唇が離れた。口に溜まった唾液をごくりと飲み込む。
「起こすなよ」
 目を開けることなく、先生は私に背を向け、模造紙を引き上げた。
 手の中から何かが落ちそうになる感覚で、我に返る。その瞬間、涙が出た。
 キスされたことはわかる。でも、涙が出る理由はわからない。いろんな感情が溢れ出てくる。
 携帯電話を短パンのポケットへ入れ、教室のドアの前までよろめきながらも歩く。椅子の脚には注意していたつもりだったけど、つまづいて派手に転んでしまった。止めようのないほど大きな音。
 机や椅子に打った腕は痛い。何が起こったのか徐々に頭は認識し始める。混乱する。次に何をすればいいのかすら思いつかない。
 ガサガサと音がした。
 大きな机の上で上半身を起こした先生が、寝ぼけてないとわかるほど目を見開いて、私を見ている。
 しばらく、どちらも何も言わず、見つめ合っていた。
「もしかして、さっきのは……」
「私、です、先生」
 体育祭の明るい音楽がかすかに届いてくる中、はっきりと聞こえた先生の舌打ち。
「寝ぼけていた」
「わかってます」
「悪い……なんかで済まねえ、な」
 次は、先生の深いため息。もう、後悔の漂う音は聞きたくない。
 立ち上がって、足元に転がる椅子を見つめたまま、口を開く。
「誰にも言いません。私は、大丈夫、です、から」
「泣いて、大丈夫って言われてもな、説得力ねえんだよ」
 先生の声音には明らかに苛立ちが含まれていた。
 後悔したうえに、先生は怒っている。どうしてなのかわからないから、早く去りたかった。
「先生には関係ないし、あんなことしたんだから、放っておいてください」
 そう言って、社会科教室を出た。わざと、先生が言い返せないような言葉を選んだ。
 体育祭の行われているグラウンドへと戻った私は、何かしないと思い出しそうだったから、委員の仕事に打ち込んで、さぼるつもりだった競技にも出まくった。
 先生も、何事もなかったかのように、教員リレーを走り、生徒の冗談に笑っていた。
 私の気持ちなどおかまいなしに、普通に一日が過ぎていった――。


 あの日から一週間。
 授業中、先生が私をあてることがなくなり、私はつい先生の唇を見てしまうようになっていた。
 私は忘れようと思ったし、先生の中で忘れ去られていると思っていた。
 だけど、あの日の出来事は確実に波紋となって心に残っている。
 あんなキスをするほどの女性が先生にいる、とこともわかってしまった。
 でも、先生を好きな気持ちはなかなか消えてはくれない。しかも、あの日以降、例えがたい想いが心を占め始めている。想うだけでは済まない何かが、先生の唇を見るたびに湧き上がってくる。
 その『何か』が『何』なのか、私は知らない。
「名簿の十七番、昼休みに宿題のプリントを俺んとこまで取りに来るように」
 授業終わりを告げるチャイムが鳴るなか、先生はそう言って、教室を出て行った。
 名簿の十七番は私だった。今日が十七日だから、名簿の名前を見ずに十七番と先生は言ったんだろう。名前を見ているとすれば、別の番号を選んだはずだから。


 社会科準備室のドアの前で、思わず、先生がいませんように、と内心で祈る。プリントだけが机に置いてあればいい。
「失礼します」
 ドアを開けたとたん、右側で唸っているコピー機。
 私も驚いたけど、それ以上に、コピー機に肘をついていた先生が後ずさった。
「十七番……って」
「私です」
「そう、か。印刷中だからちょっと待ってろ」
 適当な椅子を私の前へ引き寄せる。何も言わず、座った。
 コピー機は次々と紙を吐き出している。先生と私は何も言わず、目も合わせない。
 誰が見ても気まずい空気を醸し出している室内。
 視界の隅で、先生がちらちらと私を見ている。どうやら、今、強い立場にあるのは私らしい。
「先生、彼女、いるんですか?」
 あからさまにホッとした様子で、先生が嬉しそうな顔をした。反抗期の娘が話しかけてくれて嬉しくなる父親のようだ、と少し思ってしまった。
「いい年して独身、彼女なし」
「じゃあ、あの日、誰と私を間違えたんですか?」
 困惑したように先生は前髪をいじり始めた。どう言えばいいのか、と目が語っている。
「……一晩だけの女と」
 呟いて先生は思い切り目をそらした。
 まさに絶句。ある程度の答えは覚悟していたけど、これは予想外すぎる。こんな答えをさらりと流せるわけがない。しっかりと耳に残ってしまっている。
「やること、やったんです、よね」
「ただ寝るため、だとは、思ってねえ」先生がゆっくりとこっちを向く。「……よな?」
 経験はなくても知識はある。大人の男女が一晩だけ一緒に寝るだけ、だなんて思っていない。ただ、なんというか、頭がついていかない。先生と結び付けられない。
 ピー、とコピー機が規定枚数を刷り終えたことを知らせる。先生はプリントの束を取り、私へと差し出した。
「あのことは本当に悪かった。でも、俺が一晩の女と寝ようが、お前には関係ねえだろ。もちろん、お前が怒る必要も全くない」
「開き直り?」
「そうじゃねえって」
 苛立ちをぶつけるように、先生は、プリントの束を私の胸に押し付ける。
 渋々、プリントを受け取った。意外と重い。
「俺は謝る以外できねえから、それが不満なら……淫行教師だとでも言って校長に突き出せ」
「教師生活差し出されても、困ります」
「じゃあ」プリントの固まりの上を先生が指先で二度叩く。「プリント、お前だけ免除してやるよ。やらなくていい。提出したことにしておくから」
「せこい」
「……だったら、何か言えよ。それ、してやるから」
 キレる生徒ならぬ、キレた先生がいた。大人げも何もなく、一人の男性が私をおもいきり睨んでいる。対等に私と向き合っている。
 怖いとか、喜びだとか、そういうものが私の思考を鈍らせたのだと思う。先生の目を見ているうちに、口から洩れた。
「一晩の女に、なりたい」
「お前、マジで俺を淫行教師にするつもりか?」
 呆れるようなため息を先生が盛大につく。
 あの日のキスの感触が、私の脳裏に浮かんできた。もう一度、して欲しい。ずっと、それを渇望していたのかもしれない。
「それで、もう、終わる、忘れる」
 もう言ってしまった。抱かれて終わるのもあり、だ。
 長い沈黙のあと、先生が頷いた。私と同じように、思考がおかしくなっていたのかもしれない。メモ帳に何かを書いて私に手渡す。
「わかった。金曜の晩、俺んとこ来い。親に心配かけねえ理由作っとけよ」
「はい」
 住所の書かれた紙をポケットに入れ、社会科準備室を出た。プリントの重みがふいに手に戻ってくる。
 とんでもない約束をしたというのに、私は金曜日の夜を思って、足どり軽く教室へ向かっていた。


 今、道路を歩く私の足元を照らすのは街灯だけ。
 夜の十時は人通りも少ない。襲われたら、先生に抱かれるどころではない。男の人を見かけるたび、携帯電話を耳にあて、誰かと話している風を装った。
 好きな人に会いに行くのだ。服も下着も納得のいくものを着てきたし、この日のために、小さな香水も買った。もちろん、邪魔にならないていどにつけている。
 一人暮らしの女友達の家に泊まることにしてある。鞄には、夕飯のおかずの残りをつめたお弁当箱。母が作った、というところが少し情けない。
 三階まである建物の前、メモ帳に書かれた住所を見比べる。
「……いざ」
 気合の言葉を呟いて、部屋の番号のボタンを押した。オートロックになっていて、玄関の鍵は住人に開けてもらわないといけないのだ。
『はい?』
「えっと……来ました」
 名乗るのは少しためらわれた。私は生徒で、先生は教師だったから。
『今、開ける』
 カチャリとドアの鍵が下りる。入ってドアを閉めると、背後で自動的にロックされた。
 私の足音だけが響く。
 二階の左から三番目の部屋の表札に、先生の名前が書かれていた。インターホンを押す。
 少しだけドアが開いた。
「さっさと入れ」
 先生の声がした直後、ドアは閉まった。出迎えというよりは、応対に出ただけ、のようだ。
 自分でドアを開け、部屋へと入った。
「お邪魔します」
 リビングらしき部屋のドアを開けて、おそるおそる足を踏み入れる。汚いとも言えないけど、綺麗とも言えない部屋。
 先生はガラステーブルに肘をついてテレビを観ている。私のことなんて眼中にないらしい。
「先生、晩ご飯は食べました? お母さんが作ったものだけど、うちの晩ご飯の余りを持ってきたんです」
 独り言のようにまくしたて、キッチンでお弁当箱を開けると、先生の目が私へ向いた。お弁当箱じゃなく、私を見ている。緊張が増した。
「食べませんか?」
 テレビは今日のニュースを映している。
 先生はじっと、私を見ている。
 私はいたたまれなくなってきた。
「飯よりも俺はお前が食いたい」
 フタを落とした。立ち上がって近付いてくる先生から逃げる。
 先生がフタを拾い上げ、お弁当を覗き込んで笑った。
「飯、食うから、適当に好きなとこ座っとけ」
 箸とお弁当箱をテーブルまで運び、先生はそのまま食べ始めた。
 私は先生から離れた場所へ座る。バッグを小脇に抱えたまま、いつでも逃げられる態勢で。
 さっき、先生じゃなく、男性の目が私を見ていた。あの瞬間、先生が怖くなった。今も、逃げたいくらいに怖い。
 横顔の先生が、おかずを口に運びながら話す。
「温めて食えばよかったな」
「……うん」
「うめえ、これ」
「よかった」
「久しぶりにかぼちゃ食った」
「そう、なんだ……」
 先生が箸を動かしている手を止める。視線はお弁当に定められている。
「……帰りたいなら止めねえよ。弁当箱は月曜に返す」
 リモコンでテレビを消して、先生は再び箸を動かし始めた。
 そして、私は動けずにいる。隠しきれない恐怖心を悟られたことに驚いていた。
「ど……して、ですか」
「無理強いは趣味じゃねえんだよ」
 おかずを噛みながら、先生が答える。
「大丈夫、です」
「興味があるんだろ? でもな、好きじゃない男に抱かれても気持ち悪いだけだ……と思う」
「大丈夫です」
 先生は、私の好きな人だから、気持ち悪くはならない。でも――怖い。
 食べ終えたらしき先生が、コップの中身を一口飲んで、顔をしかめる。
「コーヒーは、合わねえ……。しかし、お前はどうにも強情だな。俺に固執してもしょうがねえだろうに」
「先生が……好きだから、です」
 言ってしまったら、肝が据わった。恐怖心がすうっと消えていく。
 先生は、しばらく呆然としていたあと、吐き捨てるように舌打ちした。
「そういうことは、先に言え。俺は今日は絶対にお前を抱かねえ」
 絶対に、を強調する先生に、四つん這いで近付く。
「ふられるのなら、抱いてもらったほうがいいんです」
「そんな覚悟で俺んとこ来るな。俺はな、断らねえから、抱かねえんだ」
「えっ?」
 四つん這いから正座に変わる。
 どうやら、私はふられないらしい。
 先生が私の肩を叩いた。
「わかったか? タクシー代でも何でも出してやるから、今日は帰ってくれ」
 両思いなら、なおさら一緒に過ごしたい。今、離れたら、また月曜には元の先生と生徒に戻ってしまいそうで怖い。
 手を差し出した。
「先生の携帯番号とメールアドレス」
 先生が彼氏になった、という実感が欲しい。
 テーブルの下にあった新聞を取り、角の余白に数字と英字を書き、先生は乱暴に破った。
 いびつな三角形の紙が私の手に乗る。
「これやるから、帰れ」
「一晩の女」
「……我慢する。浮気しねえから」
 バッグから手帳を取り出し、自分の携帯番号とメールアドレスを書いてちぎる。
「私の番号とアドレス」
「わかった」
 手帳を戻し、バッグを肩にかけて立ち上がり、財布を取ろうとした先生の腕をつかむ。
「終電に間に合うから、駅まで走って帰ります」
「やばくなったら、電話しろよ」
「先生、あのキス、まだ悪かったと思ってますか?」
 私より背の高い大人がうなだれる。
「……はい」
 やっと、言える。
 あの日から、ずっと唇と心にまとわりついていた感触。
「もう一度、してくれたら、許す」
「……若いって、怖えな」
 落ち込んだように長く息を吐いた先生の手が、私の頬にそっと触れる。
 どうしたらいいかわからないまま、とりあえず、少し上を向いて、目を閉じる。
 震える私の口を覆った先生の唇は、あの日よりも熱かった。


 ◇終◇
読んでくださってありがとうございました
感想などありましたら[感想送信フォーム(別窓)]から聞かせてください。
今後の創作の励みにさせていただきます。
← 短編メニューへ
← HOME