授業中、沈黙の教室内に下じきの奇妙な音が響き始める。あまりの暑さにたまりかねて、それぞれが下じきで扇ぎだしたからだ。
そんな、ささやかな風さえも愛しいほどの蒸し暑い夏――。
放課後、授業中に間に合わなかったプリントの空欄を、教科書片手に埋めていく。
右のひじで開いた教科書を押さえ、手にはシャーペン。左手には扇ぐための下じき。
昼よりはましだけど、夕方でも夏は暑い。じっと集中している間にも汗は流れ、そのせいで進めていた手が止まる。
「あっつ……」
誰もいない教室で呟き、窓の外へと目を転じて、下じきの動きを速める。外から聞こえる部活の声が爽やかなようでいて、意外と暑苦しい。
暑さでだらけてしまうけど、学校でだらだらしていても仕方がない。さっさと終わらせて、涼しい我が家に帰るのが先決。そう決めた私は下じきを置き、教科書を左側に移動させて、両手でプリントとの戦闘態勢を整えた。
「よし」
気合いを入れるために呟いたとたん、教室のドアがガラリと開いた。
私に臆することもなく、教室内に進入してきたクラスメイトの男子は、机の横に引っかけていたタオルを取って、廊下にある水道へと向かっていった。
クラスでは無口と言われていて、私もあまり話さないけど、実はこっそり好意を寄せている彼なので、そこはしっかりと視線で追う。
廊下から、勢いよく水の流れる音がきこえてくる。
教室に戻ってきたのはタオルを取るためだろうけど、部活中の彼が水道で何をやっているのだろう。
何をしているのか気になった。
彼に疑問に思われた時はそれを言い訳にしよう、と決めた私はシャーペンを置いて、教室を出た。
水音はあいかわらず続いている。
蛇口の下に彼の頭があった。じっと、流れる水の下へ頭を捧げている。
やがて無造作に伸びた手が、水道の蛇口をひねり、水は止まった。彼の頭がゆっくりと起き上がる。
彼は、水浴びした後の犬のように、頭をぶんぶんと振って、雫をあちこちに飛ばす。
近づいていた私の顔に雫が飛んできた。
「あっ」
黙っているつもりだったけど、目に飛び込んできた水分に驚いて、思わず声をあげてしまった。
「?」
彼が振り返る。
目が合った。
「ど、ども」
「……何か用?」
用意しておいた言い訳を活用しよう、と口を開きかけた私を置いて、彼が続ける。
「俺に用なんてあるはずないか……」
頭にタオルをのせて、グラウンドへ続くほうへと彼が体を向ける。
自己完結して行かないで、と突っ込みたい気持ちをこらえて、言い訳から会話へつなげるため、私はとっさに彼を呼び止める。
「あ、あのさ、私さ、プリント間に合わなかったから今までやってたの」
彼の足が止まる。タオルをのせたまま振り向いた彼は無表情でこう言った。
「うん。……で?」
続きをうながすわけだから、うっとうしくは思っていないらしい、と勝手に判断して私は、彼の近くへ立つに至った経緯の説明に入る。
「暑いからちょっとだらだらしていたら、そっちが教室に入ってきて、水が流れてる音がしたから……何してるのかなって。まあ、そんな感じ、です」
髪から顔へ流れてくる滴を拭いた彼が、何も言わずに私を見る。
言い訳に怪しいところがあったのだろうか。
直視できなくて目を伏せる。
「俺は、暑いから水かぶっただけ、なんだけど」
「え?」
話を聞いてないわけではなく、沈黙に不安が増長しすぎて、とっさの言葉に対応できなかっただけ。
彼が誤解しないよう祈りながら、私は返事を待つ。
「外走ってりゃ暑くなる。で、タオル忘れたことに気づいて教室戻った。ついでに、暑いから水かぶってた。……これでわかる?」
「わかるわかる。そこまでバカじゃないから」
「……質問答えたし、行っていい?」
彼は、向かおうとしていたほうを指して、至って普通に言い放った。
うっとうしがられてないのはわかったけど、歓迎されてもいないらしい。
今までにない会話の量に、だんだん興奮してくるのがわかる。それなのに、彼は行っていい、と私に聞く。もちろん、逃すわけがない。
必死に会話につながる新たな質問を探した。
彼が背を向けないうちに、私は水道の前に立つ。
「水かぶったら涼しくなる?」
「それなりに」
「私も髪、短いから濡れてもすぐ乾くよね」
「まさか……」
彼の表情がわずかに動いた。
あまり見ない困惑の表情に、私はさらに舞い上がる。いろんな顔を見たくなる。
「やってみたいな、って思ったから」
「女子はやらないほうがいいと思う」
「なんで?」
「女子、だから」
「やってみる。やったら、やらないほうがいいって言った意味わかると思うしさ」
彼からの返事はない。
呆れられたのかと思ったけど、その場を動かずに私を見ている彼の行動から推測するに、やってみろ、という意味なのかもしれない。
さっきの彼を思い出して、私は蛇口をおもいきりひねる。前髪をとめていたピンをはずし、流れ出る水の下へ一気に頭を突っ込んだ。
頭にこもっていた熱気が流され、代わりに水の冷たさがいい具合に包み込んでいく。
頭をあげた私は、水道を止めて、ゆっくりと彼に笑顔を向ける。
でも、彼は顔をそむけて、
「だから、やるなって言ったのに……」
と呟いた。少し怒っているようにも見える。
「本当にちょっと涼しいね、これ」
「喜んでもらえてなにより。でも、ちょっと無防備すぎない?」
ずかずかと近づいてきた彼は、持っていたタオルを私の頭にのせて、痛いくらいに強く拭き始めた。
「俺は男子、あんたは女子。そのへん、自覚したほうがいいと思うけど?」
「あ、ご、ごめん」
彼の拭く力につられて、私の頭がふらふらと揺れる。
「意味わかってないのに謝るな」
「……うん。わかってない」
「白い服って濡れたらどうなる?」
「透ける。……あっ」
私は自分の胸元を見た。びしょぬれではないので、それほど透けてはいないけど、水道のしぶきと、頭から流れる水のせいで、わずかに色が変わっている。肌の色が見える。
「わかった?」
「でも、下着なら普段からちょっと透けてると思うんだけど……」
「そう、たしかに見えてる。でも、好きな人の透けてる下着が直視できない俺の気持ちもわかって……くれる、と……あり、が、たい」
それまですらすらと話していた彼だけど、とある言葉を境に呟きと動揺が混じり始める。頭を拭いている手の力も少し弱まった。
「うん、ごめん……」
「ごめんって……もしかして……」
彼の顔は見えないけど、口調が明らかに落ち込みを含んでいる。
彼の誤解の意味がわかった私はあわてて否定の意をこめて首を振った。
「あ、ああ、違う! 気持ちわからなくてごめん。……で、あっちのほうは……ほ、本当に?」
「あんまり喋ったことないけど……いちおう」
「そ、そっちは……うれしい、かな?」
「……かな?」
「うれしい、です」
「うん……」
「……うん」
「そうか」
「うん、そう……」
私の頭を拭いていた手がついに止まる。
タオルごしに彼の手の大きさとぬくもりが伝わってくる。
タオルで私の顔が見えないことに感謝しつつ、ゆっくりとこみあげる笑みを広げていった。
◇終◇
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