好きな人が持っていた物は、たとえ自分が使わない物だとしても、愛しい。
吸わない煙草、使わないライター、あの人の前では使えない消しゴム、学校名の入った黒いボールペン。
あの人――先生のもとから奪った物たち。
気づいていないはずはないだろうけど、特に犯人を突き止めようともしていない。
職員室に行くたび、先生が空席の時を狙ってこっそりと盗んでいるから、机の上に放置されている消耗品くらいしか取れない。
それでも、先生が手元に置いているであろう物たちは、私に至福の時を与えてくれる。持っているだけで元気が出る。
学校で見せることはないのだから、私が犯人だとばれるはずはない。そう、思っていた――。
期末テストの日。
先生の担当する教科の時間は、質問を受けるために各教室を回るので、私のクラスに先生が来るのは少しの間だけ。
ペンケースから、こっそり先生の消しゴムを取り出す。先生の教科だけに、これを使えばいい点数が取れるような気がするのだ。何より、励みになる。
「はい、今から五十分。何かあったら手を挙げるように」
担当の先生の声を合図に、鉛筆の音だけが教室内に響く。
先生の消しゴムを使っても、解けない問題はやはり解けないけど、開けられた窓から流れ込む風を心地よいと感じるくらいの余裕はある。だてに試験勉強はやっていない。
二十分後、隣の教室から、それではお願いします、という先生の声が聞こえてきた。教室も廊下も静かなので、いつも以上に声が響く。
ぺたぺたとサンダルの音が、私のクラスに近づいてくる。
プリントから目を離し、ドアの窓を見る。先生が入ってくるのをじっと待つ。
「失礼します」
教室に入ってきた先生は、そのまま黒板に修正箇所を書いていく。
「二ヵ所、ミスがあったので訂正箇所を書いておきました。それから、問三の問題は言葉じゃなくて下の記号から選んで、記号で答えること。枠が大きいから勘違いしやすいと思うけど、ここは一つ三点なのでミスするともったいない」
耳は向けていても、先生を見ている生徒はいない。教室内を見回す先生と目が合ったので、慌ててプリントへと戻る。
「質問はありますか?」
私の隣の男子が手を挙げる。
驚きながらも、先生が近づいてくるので、私は素早く消しゴムを左手で覆った。見られるわけにいかない。
質問に答え終わったらしい先生は、かがんでいた背を伸ばした。
視界の隅にある先生の顔が、私の解答用紙を見下ろしている。
なんとか問題は解いていってるものの、先生が動かないので、漢字を書き間違えてしまった。でも、左手の下にある消しゴムは使えない。しかも、まだ先生は立ち去る様子を見せない。
どうしようか、と考えている間、私のシャーペンはプリントから動かない。
机の端を先生の人差し指が叩く。
私が顔を上げると、先生が少しかがんだ。
「消しゴム、忘れたのか?」
書いている途中でじっと止まっていれば、先生が不審に思うのも当たり前だ。
「……持ってます」
「書き損じで止まっていては、時間がもったいない。早く書き直して次の問題に移りなさい」
「はい」
先生をかわすべく返事をしたけど、左手から消しゴムは出せないし、もちろん使えない。
書き間違いは後で消すことにして、とりあえず次の問題に移ろうとしたとたん、先生の手が私の左手を持ち上げた。
不測の事態に対応しきれない心は、ばれてしまった、というパニックに包まれる。
見上げれば、先生の視線も消しゴムに注がれている。
「持っている、のか。カンニングかと疑って悪かった」
左手をゆっくり離した先生は、もう一度、質問の有無を確かめた後、担当の先生に挨拶をして教室を出て行った。
混乱の中、なんとか時間を確認して、私は残りの問題にとりかかる。
何を書いたかほとんど記憶のないまま、とにかく、テストは終了した。
翌日、言及される前に、と先生から盗んだ物をこっそり返す作戦をとることにした。
名残りは惜しいけど、問い詰められたら何も言えない。先生への気持ちを言う以外に答えが見つからない。
消しゴムも含めて、全ての物は紙袋へと入れてきた。誰もいない時間を狙うべく、朝早くに登校もした。
あとは先生の下駄箱を探して紙袋を入れるだけ。
職員用下駄箱は、ラベルが貼られている。先生の人数もそれほど多くないせいか、予想以上に簡単に見つけることができた。
怪しいのを承知で周りを確認した私は、素早く紙袋を押し込む。
用事を済ませたら、こんなところからは逃げるに限る。
猛ダッシュで下駄箱まで走り、靴を履き替えて教室へと入ったところで、ようやく安堵の息を吐くことができた。
あとは普通に学校生活を送ればいい。
皆が登校してくる時間まで一時間はある。何もすることはないので、眠気に任せて素直に寝ることにした。
自席に座り、机に顔を伏せる。
廊下から、サンダルの音が聞こえてきた。
顔を上げて時間を確認したけど、顔を伏せてから数分ほどしか経っていない。でも、サンダルは生徒も履いているし、朝早くに登校する人もいるだろう。
とりあえず、起きていることにした。
朝早くに登校してくるなんて一体誰なんだろう、と思いながらドアを見つめていた私の視界に信じられないものが入る。
開けられたドアから手と、紙袋と、少し遅れて先生の顔。
「おはよう」
鞄を持っているということは、下駄箱から直行したのだろうか。先生は爽やかなほどの笑顔で挨拶してきた。
「お、おはよう……ござい、ます」
挨拶を交わすためだけに、わざわざ教室へ来るわけがない。しかも、先生の手にはあの紙袋。
一気に目が覚めた私は、敗北を認め、覚悟を決めた。謝るための心の準備に入る。
「何を言われるのかわかってる。そんな顔だな」
先生が私の前の席へ横向きに座り、背もたれに肘をつく。
「これは君が置いていった。そうだな?」
「はい、置きました」
「中には俺の私物が入っていた。……あの、消しゴムも」
「昨日、見られました」
「別に取られて困るものでもないから、盗んだことに関して怒るつもりは全くない」
「……はい」
私の机に紙袋を置き、先生が大きく息を吐いた。
そのまま、先生が何も言わないから、私は伏せていた目を少しだけ上げる。
目が合った瞬間、先生が口を開く。
「どういう理由で、こんなことをしたんだ?」
「欲しかったんです」
「欲しいものが? 煙草、ライターは不要だろう。あとは……ボールペンか? それとも消しゴムか?」
先生が紙袋を開けて、中の物を一つずつ取り出していく。
私は首を振った。物が欲しかったわけではないから。
「先生の持ってる物が、欲しかった、だけなんです」
「俺の……物、だと?」
並べられた物を見ていた先生の目が、驚く声と共に私へと向けられる。
ありえないものでも見るような目だったので、私は少し悲しくなる。でも、泣きたくはないので口元を緩めた。
「わかんないですよね。何でもよかったんです。先生の持ち物だったら」
机に並べた物を、先生が紙袋へと戻していく。
「全くわからない、ということも、ない」
紙袋が私へと差し出された。
思いもよらない行動に驚きながらも、私はおそるおそる手を伸ばす。紙袋に指が触れても、先生は引っ込めない。
「もらってもいいんですか?」
紙袋が私の手に渡る。
「今さら返されても、仕方がないからな」
「……ありがとうございます」
先生にお許しをもらったというわけだから、今度は堂々と使える。それだけで嬉しい。
かばんに紙袋を入れる私を見て、先生が呆れた顔を見せる。
「嬉しそうな顔をするほどのものか?」
「先生にはわかんないですよ」
「さすがの俺でも……わかった。露骨すぎる」
高校生にバカにされてたまるか、といった風に先生が笑う。
気持ちがばれてしまったのなら、物を持つ許しだけでなく、これの許しも先生から得ておかなければならない。
「じゃあ、想ってていいですか?」
先生の顔から笑みが消える。
「俺は卒業まで君にとって教師にあたる。それまで教師以外の何者になるつもりもない。あとは君の恋愛の問題だ。俺が口を出すことじゃない」
「これって……ふられたわけじゃないんですよね?」
「受け入れてもいないが、な」
「卒業まで。長いですね……」
「我慢できなくても、物は盗まないように」
「じゃ、心を盗みます」
返ってきたのは呆れたようなため息だけだったけど、先生の目は穏やかに私を見つめていた。
◇終◇
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