逃がした魚
 有名な例えではないけれど、なくなった後になってその物の価値に気づくことはよくある。
 なくしてからじゃないとそのことには気づかない。
 ――持っている時には気づかない。


 私は三年前、お隣に住んでいるお兄さんに告白され、ふってしまった。当時はかなりあっさりふった。何とも思ってなかったから。
 社会人でスーツを着ていると大人に見える。私にとっては老けて見えた。サラリーマンは十五歳の私にとって十分におじさんだった。
 あの日から話しかける回数が減った。私もなんとなく気まずくて話しかけなくなった。
 そのまま、今に至る。
 ただ、あの頃と違うのは私が彼を好きになってしまった。立場がみごとに逆転。
「おはようさん」
 彼が家を出る時間と私が家を出る時間は同じ。そうなるように私が時間を調節している。
 彼は挨拶だけは欠かさない。
「あ、おはよう」
 今気づいたといった風に挨拶を返したけど、たった一言に嬉しさとドキドキが胸に湧く。
 彼も私の一言にときめきを感じたんだろうか。思っていても今はもう聞けない。
「乗せていってやろうか?」
 駐車場から自転車を出す私と、同じく駐車場にある車の鍵を開ける彼。
「帰りに歩くのだるい。迎えに来てくれるなら乗っていく」
 嘘。下校する時、歩くはめになっても隣に座りたい。でも、座ったらいろいろな歯止めが全てはずれてしまう。それが怖い。
 毎回断っているのに、どうしてこうもまめに声をかけてくるのか。
 私を乗せたいのだろうか。そんな小さな期待が大きくなろうとしている。
 考えを振り切るように、でも、彼の前だからだるそうに自転車に乗る。
 彼が車に乗る前に、自転車をこぎ始める。
 ある程度走ったところで、後ろから車の音が近づいてくる。軽くクラクションが鳴り、振り向いた私に彼が手を振る。そのまま車は私を追い抜いた。
 これがあるから先に出発する。たったこれだけ。でも、嬉しい『これだけ』。


 学校の休み時間、おもしろいくらい好きな人の暴露話で盛り上がった。
 下校時にも話していたから、とうぜん、いつもよりもテンションが高い。
 しかも、そういう時に限って、彼と家の前で会ったりする。
「クッキー、食う?」
「……う、うん」
「じゃ、これやる。株主総会知ってるか? 会社の上司に頼まれて代理で出席したらクッキーもらった」
 クッキーの缶が入った紙袋を手渡される。
 そういう時に限って話しかけられ、クッキーまでくれるのだから、これをチャンスだと勘違いするのも無理はない。
 衝動的に口から出ていた。
「ありがとう。あの、さ……好きなんだけど……って迷惑、か、なぁ?」
 クッキーを指して何か言おうとしていたらしい彼の口が止まる。開けられたまま止まっている。
「クッキーやっただけで、そうなるのか?」
 私がずっと好きなのを知らない彼にとっては、あまりに突然すぎる告白だったのだ。だから、告白がクッキーのせいだ、と誤解される。
 あわてて、手を、首を振った。
「ち、違う。クッキーのせいじゃなくて、前から……好きだった」
「俺が告白したのは覚えてるか?」
「覚えてる」
「あの頃から?」
「あの後から」
 じっと返事を待つ私の前で、彼が大きく息を吐いた。呆れたような表情。
「年齢的に無理、って言っただろ? 俺からは悪くて、お前からだといいわけ?」
 的確に突かれれば黙るしかない。
 年齢的に無理、という子どもの単純な理由で納得できるはずがない気持ちを、彼はおそらく長い時間をかけて納得してくれたのだ。
 今の私が、同じ言葉を理由に断られても、諦めることは絶対に無理だと思う。
「年齢なんてな、いくら成長しても差は縮まらないんだ。俺が遅く生まれるか、お前が早く生まれるか……そんなもの、俺がどうこうできるわけがない。それを理由にされたら引き下がるしかないだろ?」
 怒鳴られているわけではない。普通の口調と共に怒りを投げつけられている。
 今の私に言っているけど、彼をふった十五歳の私を責めているのは明らかだ。
「……今さら、そんなこと言われても、さ。あの頃はそう思ってたんだから」
 小さく呟き、うつむいていた顔をあげる。
 彼を好きだと気づいた日から、私も断ったことを悔やんだ。でも、いくら悔やんだところで、あの頃の私たちに戻れるわけはない。それが事実。
 告白したのに、昔のことをを持ち出された上に、ここまで言われる筋合いもない。いや、筋合いくらいはあるかもしれないけれど。
「お前にふられた後、そのことに気づいた。それから、ずっと言ってやろうと思ってたんだ」
「じゃ、同じ理由でふる? 復讐するんだったらそれで成功、だと思うけど?」
 そんなに憎まれていたのか、というショックは小さな怒りを含んで、やけくそな気持ちを生み出した。
 ふられるんだろうな。
 諦めが脳裏によぎる。
 三年の期間。私が彼を好きになったように、彼は私への気持ちを捨てただろう。私はもう彼の好きな人ではなくなっている可能性は極めて高い。そこへ加えて、私の皮肉な発言。
 九割の確率でふられる。一割はかすかな希望。あくまで希望。確信にはならない。
「そんな器の小さい復讐するほど俺は子どもじゃない」
「昔のことをうだうだ言うのは子どもの証」
 とたんに頬を緩めて笑顔へ変わる彼。
「あいかわらず、うまく返してくるな」
 いきなりすぎる。さらに怒りを増長されるんだと思っていたのに、まさか笑顔に変わるとは思わなかった。
 見せつけられる優しい笑顔。
 ふられる、と諦めていたのに、納得していたのに、ふられるのは悲しい、と心に小さな針が刺さる。
「わ、笑ってごまかすなんて……」
 唇の震えを止めるため、言葉を途中で切った。
 声を出したら、涙も出そうになる。ふらないで、と泣き出してしまいそうになる。
「ふらない」
 笑顔のまま、きっぱりとそれだけを彼が言った。
「え?」
「……ふってほしいのか?」
 試すように私の顔を覗き込む彼。
「ふられる、と思ってた」
「嫌いだったらふるだろうな。でも、俺は……」
 じっと、続きを待った。
 断らないなら、俺は、の続きは予想するまでもない。
「言わない。聞きたそうな顔してるから、これ以上は言わない」
「えっ、そこまで言ったのに……」
「昔、言ったからそれでいいだろ」
 ふった立場だから、それを持ち出されたら何も言えない。
 わかってて言っている。大人の余裕を見せつけられる。
「もう、いいよ」
「好きだ」
 みごとに私の声と重なった。でも、好きだ、という言葉らしいことはなんとか聞き取れた。
「いきなり言うなんて反則。もう一回」
「ほら、帰って、クッキー片手にお茶でもしろ」
 すばやく彼が背を向ける。
 背中をつかもうとしたけど、少しだけ見える彼の頬が赤いので、気を利かせた私はそのまま帰宅させてあげることにした。
 クッキーを見つめ、しばし回想にふける。
 にやけそうになる顔を抑え、私も家のドアを開けた。


 ◇終◇
読んでくださってありがとうございました
感想などありましたら[感想送信フォーム(別窓)]から聞かせてください。
今後の創作の励みにさせていただきます。
← 短編メニューへ
← HOME