湯せんされたボールの中で溶けていくチョコレート。
とろりとなっていくチョコをかき混ぜながら、ついつい思ってしまうのは『あの人』のこと。
『あの人』なんて似合わない。『あいつ』のこと。
チョコを待つカップを眺めながら、彼にあげることになるとは思わなかった、と大きくため息。
バレンタインのチョコだけは本当にわからない。今年は義理だけだろうと思っていたし、彼にあげるつもりはなかった。告白するつもりもなかった。
不思議だけど、やっぱり私にとっては便利な日。告白する口実になるのだから。
「持ってきた?」
朝、教室に入ってきた私へ、友達が挨拶より先に聞いてくる。
「どうなるかわかんないけど、一応持ってきてみた」
「わからない、ってあげるしかないでしょ。ってか、あげるんでしょ?」
「……まあ、一応」
かばんの中身を机の中へ入れていく。もちろん、チョコ以外を。
いつもと少し違う教室の雰囲気に私もついついドキドキしてしまう。彼にチョコを渡す放課後はまだまだだというのに。
「おはようッス」
隣の彼の元気な声。次いで出される手。
「おはよう。で、なに?」
「俺への義理チョコ一丁はいりまーす」
「……はいんないわよ」
毎年、定番になっていた義理チョコ渡しがこんなところでアダになるとは思ってもいなかった。
あっさりと返した私に残念そうな顔を一瞬浮かべて、彼は友達へと手を移す。
「じゃ、そっちは?」
「ないない。チョコの無駄遣いするつもりないから」
彼女も私と同様、ひらひらと手を振ってかわし、自分の席へと戻っていった。
「お前ら最低。あてにしてたのにさ」
「こっちにも事情ってもんがあるの」
「高校生になったからって調子のんなよ。あ、さては……」
さっきまでつまらなさそうにしていたくせに、いきなり目を輝かせて私のほうを見る彼の姿に、思わず私はたじろいだ。
「な、なによ?」
続きをせかす私に、一呼吸ためて彼が言う。
「本命ができた、だろ。だから、今年から義理配りやめた、と」
正解を言い当てられて思わず言葉に詰まった私。
「い、いつまでも義理チョコあてにするのやめれば?」
「本命がねぇから義理をあてにするんだ、よ」
「今年は……わからないかもしれないじゃない」
「今年もないかもしれないだろ。義理チョコくらい用意しとけよ」
拗ねるように机に伏せてしまった彼に、声にせず言葉を投げかける。今年は義理じゃなくて本命を用意したんだ、と。
そんなことを知るよしもない彼は、手で机の中を探って、
「ここにも入ってねえなぁ」
と、また拗ねた。
私は、放課後に呼び出す方法を考えながら、しだいに思考の中へ入っていった。
授業中、休み時間、昼休み、と、彼に約束をとりつける時間はいつでもあった。
ただ、あまりにいつも通りな彼に、なかなか話を切り出すことができず、結局何の約束もないままに放課後を迎えてしまった――。
友達は気を利かせて、先に帰ってくれた。
教室にはもう誰もいない。
チョコの入ったかばんを手に、私はじっと彼の机を睨んでいた。
明日に延期すれば、もう二度と手渡すことなどできない気がする。でも、今日はもう彼も帰ってしまった。
じっと、じっと考えた挙句、私はこっそりとチョコを机の中に忍ばせておくことにした。
手渡すつもりだったから、メッセージカードも何も入っていない。明日の朝、彼がこれを見つけたところで誰からかはわからないだろう。
今日一日、緊張しすぎて疲れた私は、それでもいいか、と思っている。
かばんから取り出したチョコを彼の机に入れようとしたら、何かに引っかかった。
かがみこんで覗いてみれば、置かれたままの教科書やノートがチョコの箱を阻んでいる。
「もう、きちんと持って帰れ……」
チョコが入るだけのスペースを作って、ゆっくりと差し入れた。
大きく息を吐いて立ち上がり、見つからないうちに、とかばんを手に教室を出る。
「よ、何してたんだ?」
教室を出たとたんに彼が私に向かって手を振っていた。
「ど、どうして? 帰ったんじゃ……」
「プリントするための教科書忘れたの思い出してさ。めんどくせえって距離でもなかったから戻ってきた」
私の横を通り過ぎて、彼が教室に入っていく。
教科書を取り出すとなれば、アレが必ず見つかる。
「ふ、ふーん。じゃあね」
不自然にならないように早歩きで廊下を進む。とにかく、学校から出てしまいたかった。
もう少しで下駄箱というところで、1階にある私の教室の窓が開いた。
「帰るな! ちょ、ちょっと待て!」
「いや! 帰る!」
早歩きどころではない。私は走って下駄箱から急いで靴を取り出す。
履き替えながら窓のほうを見ると、彼が窓から飛び出してきた。
急げば急ぐほどうまく履けない靴。素早く上履きを下駄箱に入れ、かかとを踏んだまま、私は走り出した。
だけど、足元不安定な私の走りが、彼より早いわけもなく、結局、追いかけてきた彼に捕まえられる。
「……こ、これ」
私の目の前に差し出されたのは、さきほど彼の机に入れたチョコの箱。
今さらとぼけるわけにもいかず、かといって素直になれるわけもなく、私はじっと黙っているしかなかった。
「……これって、義理?」
走ってきたせいか、彼の頬が赤い。
つかまれている私の手首が熱い。
手を離してほしい、名残惜しい、なんてことを考えていたから、私の口から素直な返答がポロリとこぼれた。
「ほん、めい」
「おお、これがそうなのか!」
嘘っぽいような白々しい言い方だけど、彼の顔は嬉しそうに緩んでいる。
「手、離してよ」
「無理。離したら逃げるだろ?」
言いながらも彼は、チョコの箱を裏返したり、いろんな角度から眺めている。
「返事って今したほうがいい?」
「えっ……あ、なんか恥ずかしさに耐えられないかも」
赤くなっていく私の顔を、不思議そうに彼が覗き込む。そして、唐突にうなずいた。
「だろうな。俺が返事したとたんに逃げ出しそう。じゃあ……」
考えこむ彼。
しばらくして、信じられない言葉が返ってきた。
「これのお返しと一緒に返事する」
「は、はあ? 三月まで延ばすの?」
「そ。だから、お前は逃げ出さないように心の準備しとけ」
私をつかまえていた手を離して、私の肩を軽く叩く。
彼の口から次々と繰り出される言葉に、私はただただ驚くばかり。
「明日にでも心の準備できるんだけど……」
「お返しの日ってのがあるだろ? 今、返事してしまったら意味ねえよ」
「なにそれ。せ、せっかく私なりにいろいろと……」
彼に両肩をつかまれて、私の言葉が止まる。
「それはわかってる。ちゃんと、わかってる。けど、まあ、俺にも色々と考えがあって……ないがしろにしてるわけじゃないのはわかってほしい。っつうのも都合がいい話かもしんねぇけど……」
彼の真剣な目を見ていると、私の中の不安がストンと落ちていく。
そんな不安を受け取ったかのように、今度は私を見つめる彼の目が曇っていく。
「……わかった。ここまできたらちゃんと待つ」
広がるような笑顔を見せて、彼の手が肩から離された。
指ではさんでいた私からのチョコを見せて、
「これって手作り?」
と、また答えに窮するようなことを聞いてきた。
ゆっくりとうなずくと、彼が小さなガッツポーズを見せる。
「おっし。お返しは俺も手作りにしてやる。こういう機会でもないと手作りなんてしねぇもんな。なんか楽しみになってきた」
そんな楽しみを求めるなら早く返事してくれればいいのに。
そう言ってやりたかったけど、彼が嬉しそうで、楽しそうなので、
「楽しみにしてる」
と、私も一緒に笑ってみる。
例え、彼の答えがだめだったとしても、手作りが食べられるのなら、それはそれでいいのかもしれない。
返事を先延ばしにされたのに、そう考えて、少しだけ幸せな気分になった。
◇続◇
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