誘う勇気
『お前って頭悪かったっけ?』
 夏休み補習の初日、隣に座った私に彼が聞いてきた。
 まあね、とあいまいに答えて、私は笑ってごまかす。
 ふーん、とそれ以上聞いてくれないので、よかったと思う反面、寂しいと思う心もあったり。
 本当は補習なんて出なくていい。彼がいるから無理やり参加した。
 高校2年ともなると、勉強のことを気にする生徒が増えるのか、有志で補習に参加する人も少なくはない。
 私の動機は、勉強ではないけれど。
 彼と共に過ごす補習。たった1週間。それだけでも十分。

──だと、思っていたのに、叶えば次の欲というものが出てくるらしい。

 補習の最終日、私は彼に「補習が終わったら、私たちの教室に来てほしい」と頼んだ。
 いぶかしがっていた彼だったが、おう、と承諾してくれた。
 なぜ、彼を呼び出したか。告白ではない。
 明日の花火大会。彼を誘って一緒に行こうと思っている。うまくいけば、告白もできるかもしれない、と思っている。花火大会で上気した勢いを借りるつもり。
 補習も終わり、いつものように、私も彼も教室を出た。
 私は彼の後を追うつもりだったが、なぜか彼は左へ曲がる。
 私の教室へは、教室を出て右に曲がり、北校舎から、中校舎を過ぎて、南校舎まで行かなくてはならない。
 左に曲がると、近いのは昇降口。つまり下駄箱。つまり、帰るということ。
 不安になりながらも、私は自分の教室へ向かう。
 誰もいない昼の教室は、閉めきられた窓のせいで熱気があふれ、緊張した私のこめかみから汗が流れる。
 何かしていないと落ち着かないので、教室の窓を全部開けた。涼しい風に、我が身をあてていると、別の億劫そうな足音が聞こえてきた。
 教室に入って止まった音に、私の背は自然とこわばる。
 彼、だ。
 わかってはいるし、呼び出したのは私だ。なのに、振り向くことができない。どんな顔で彼が立っているのかが怖い。
 私は窓をつかんだまま、体を硬直させていた。
 その間も、風が私の髪をなびかせている。
「用は……何?」
 突然の彼の声にびっくりして、肩が震え、それをごまかすために私は勢いよく振り向いた。
 二つ机をはさんだ向こうに彼がいた。だるそうでもなく、ただ、普通に私を見ている。
「えっとさ……明日、花火大会あるの知ってる?」
「知ってるけど?」
 それが何?
 彼の目が、暑そうに胸元を広げて風を入れている彼の手が、なんとなくそう語っているように見える。
 うっとうしがられているんじゃないだろうか。早く帰りたいと思ってるんじゃないだろうか。
 不安から、私は彼の目を見ているのが怖くなった。
 ごまかすように、私は前髪をいじる。
「花火大会さ、もし、一緒に行く人いなかったらさ……。あ、誘う人いたり、する? いないのならさ、えっと……私と……」
「いる」
 自分の声にかぶさった彼の声。何を言ったか聞こえたけど、意味ははっきりわからない。
「え?」
 前髪を触っていた私の指が止まり、見るのが怖かったはずの彼の目を見る。
 悪いんだけど、と顔を赤くして、今度は彼が目をそらす。
「俺、一応、誘うやつくらいいるんだけど。男じゃなくて……女の子。明日はそいつと行くつもりだし……」
 最後は小さい声になっていて、よくは聞き取れないけれど、さすがにそこまで言われればわかる。
 誘うやつはいるから、一緒に行けない。
 そういうこと。全部言い終わる前に断られた、ってこと。
「もしかして……かの、じょ?」
 震えそうになる声を必死で抑えているから、切るところがおかしい。『彼女』という単語は、どうしてこうも言いにくいのか、聞きにくいのか。
 彼は憎らしいくらい、さらに顔を赤くさせる。彼の手が、ズボンのポケットを出たり入ったりしている。
「まだ、彼女じゃない、な」
 こんな彼をずっと見ているのは嫌だ。断られたなら用はない。とっとと出て行こう。さっさと涙を流してしまおう。
「私も……私も誘う人いるから、それを報告しようと思ってさ。別に言わなくてもいいことかもしれないけど、ほら、中学からの付き合いだし……。花火大会で会うかもねっ」
 たたみかけるように言って、私は、じゃね、と教室を走って出る。
 一刻も早く、彼に追いつかれないうちに、涙が出てこないうちに。
 下駄箱で後ろを振り向いてしまった私は、彼が追いかけてきてくれるのを期待してたのかもしれない。
 今なら間に合うよ、と誰も来ない廊下に話しかけてみたりして。
 そうこうしているうちに、本当に涙が出てきたので、私はあわててローファーに履き替え、とっとと学校を出た。


「今日の花火大会、誰かと行くの?」
 リビングを動く掃除機の大きな音の中で、母が叫ぶように聞く。
 キッチンのテーブルで、朝ご飯と昼ご飯である冷麺を食べながら、私は答える。
「誰とも行く予定なし。花火大会のことは言わないで。傷心抱えてるからさ」
「あんたの心はどうでもいいわよ。じゃあ、お母さんと行く?」
 足あげて、と続けて、母は私の足元に掃除機をはわす。
 私は、ダシのついた氷をボリボリと口に入れて、麦茶を一気に飲んだ。
「お母さんと? んー、まあ、行ってもいいけど?」
 ダシと麦茶は合わないな。そんなことに気をとられながら、私は適当に答えた。
 本当は行きたくないけど、たまに母と一緒もいいだろう。
 私の心中など知らない母は、掃除機を片付けて、私のグラスに麦茶を注いで、のどを鳴らして飲んだ。
「晩御飯、早めに食べないといけないわね。夜店で済ます?」
 私を見る母の目が、嬉しそうに微笑んでいる。
「ん、それでいい」
 私も笑顔を返して、2階の部屋に向かった。


 まだまだ明るい夕方の4時。ちなみに花火は8時から。
「もしもし……はい、そうですけど。あ、はい、ちょっとお待ちくださいね」
 電話に出ている母の声が聞こえる。
 保留の音楽を響かせながら、母が階段を上ってくる。そして、私の部屋のドアを開けて、興奮気味にコードレスの子機を差し出した。
「男の子! 彼氏? 男の子よ!」
 連絡網以外、男子から私宛にかかってくることなど初めてである。母の興奮もそのせいだろう。
「誰?」
 私は寝ながら読んでいた雑誌を脇に置き、ベッドから体を起こして子機を受け取る。
「出たらわかるから」
 それだけ言って、母は部屋を出て行った。
 誰かもわからない電話に出る娘の気持ちになってほしい。
 そう愚痴って、私は保留ボタンを押した。
「もしもし?」
『もしもし。あの……俺、でわかる?』
 嬉しいどころか、私はうんざりとした。
 また、あの声を聞くはめになるとは。昨日、断られた声。落ち込まされた声。
「わかる。……何?」
『今日の花火大会、誰かと行くのか?』
「行く」
『男? 友達? 誰と?』
「お母さんと」
 私は正直に答えてから、しまった、と思った。昨日、誘う人いる、なんて思わせぶりな言葉を言ったのだった。
 だが、ほっとしたかのような息遣いが、彼から聞こえてきたのだ。
『俺と行く?』
 私は電話であるにも関わらず、本人が前にいるかのように、ベッドに座っていた体を前に傾け、素っ頓狂な声を出した。
「はあぁ!?」
『……いや、驚きはわからなくもない』
「昨日、誘うやついるって……。しかも、女の子だって言ってたじゃないのよ」
 ボーボー、と聞こえるのは、おそらく彼が深呼吸か何かしたのだろう。
『俺の話を最後まで聞かなかったお前が……いや、俺が悪いのか。遠まわしに言いすぎたんだよな。誘うやつってのはぁ、女の子ってのはぁ……』
 彼が受話器を口から離したのか、後ろのテレビの音がはっきり聞こえた。
 これは、あのCMだな。などと思っていると、彼の声が唐突に続きを言う。
『お前のこと。うわ、恥ずかしい。俺、こっ恥ずかしい』
 ドンドン、と鈍い音が聞こえ、その後に、うるさい、と怒鳴る女性の声。
 私は、耳から彼のうろたえを感じ取って、思わず口から笑みがこぼれる。
「私も誘おうと思ってたの」
 それだけ言って、後が続けられなくなった。
 恥ずかしい。照れくさい。受話器の向こうの沈黙に耳をすます。
 やがて、ぽつりと聞こえた彼の声。
『い……一緒に行く?』
「……行く」
『7時半に……駅んとこでいい?』
「うん」
『じゃ、また後で』
「うん、後で」

──ツー、ツー、ツー……

──ピッ

 外線ボタンを押して、切れた子機を持った私はベッドの上を何度も跳ねた。
 一人で、言葉にならない悲鳴をあげる。
 やがて、ふぅー、と落ち着いた私は、にやける顔を抑えて1階へと降りていった。
 母に事情を説明して、一緒に行けないと断ると、なぜか母に思い切り抱きしめられる。
「がんばれっ」
 それだけ言って、母は晩御飯作りに戻った。
(がんばれっ)
 私は自分に言い聞かせて、準備のためにリビングを後にした。
 今年、初めての浴衣でも着ようかな、などと思いながら。


◇終◇
読んでくださってありがとうございました
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