触るだけ
 放課後、好きな彼に告白しよう、と私は科学実験室へと向かっていた。科学部は今年、三年生が引退したので彼一人らしい。
 科学部顧問は、今日は兼任している部活のほうに出ている。今なら、彼が一人で部活に励んでいるはずだ。
 実験室の前、大きく深呼吸をし、額にうっすらと浮かぶ汗を拭い、
「失礼します」
 建前だけの挨拶と共にドアを開けた。
 実験道具は机の上にそろっているのに、なぜか、彼の姿はそこにはない。
「あの……?」
 問いかけてみても返事はない。いないのだ、と判断するにはどうにも違和感がある。どこが、というのはわからないけど彼がどこかにいるような気がした。
 静かにドアを閉め、ゆっくりと実験室へと入る。
 まず、手が見えた。
 近づくと、次に、ぐったりしたような彼の顔に出会う。白い粘液のようなものがついている。
 虚ろな目が、私を睨んできた。
「来るな」
 ただごとではない様子だったから、彼の制止も聞かず、さらに近づく。
「それ……実験で?」
 ふっ、と彼の口が歪む。
「実験、ね。……そう、最悪の実験」
 彼の上半身が見えた。カッターシャツのボタンが全て外されている。その横に、投げ捨てられたようなズボンが見えた。
 ようやく、私は足を止める。
「どう……して?」
 なぜ、彼はこんな格好で寝転がっているのだろう。しかも、その目は私を見ているようで何も映していない。
「襲われたんだ。先生、呼ぶなよ、絶対に」
「う、うん。呼ばない、けど」
 襲われた、という言葉と、彼のこの状態。何が起こったのかだいたいの想像はついてしまった。
「何か、拭くもの、ある? ティッシュとか」
 鞄の中からポケットティッシュを取り出し、彼へ渡そうとしたけど――やめた。
 二枚取って,床へと座り、彼の顔を拭う。
「だい、じょうぶ?」
「あんたこそ、わかってる? これ、精液なんだけど」
 拭きながら頷く。
 涙が出てきた。
 彼の口から単語として聞いてしまった瞬間、現実感がどっと私の中に押し寄せてきたのだ。
 校内でこんなことが起こったのもショックだったけど、なにより、彼がこんな目に遭っていることが悲しかった。
「もう、いいよ。ケツ拭くから何枚かくれない? ついでに後ろ向いて。見たいなら見ればいいけど」
 ティッシュを袋ごと彼へと差し出して、言われた通りに背中を向けた。ポケットからハンカチを出して目を拭く。
「あんたさ、何しに来たの?」
「な、何って……」
 背後からの突然の質問に、出てこようとした涙が引っ込む。告白しようと来たことを忘れていたから。
「途中入部、希望?」
 どう返そうかと言葉を探していた私にとって、この問いかけはありがたい逃げ道になった。
「入部じゃないけど……け、見学希望」
「ふーん、あっ、そう」
 そこで彼の質問は終了した。次いで、水の流れる音。彼が顔を洗っているのだろう。
 その音もやがて止まった。
 もういいだろう、と振り向こうとした私の体は、後ろから回された彼の腕に止められる。
 後ろから、彼に抱きしめられていた。
「なあ、告白、しに来たんだろ?」
「どうして、わかるの?」
「そうだったらいいな、と思っただけ」
 腕に包まれ、耳元で囁かれている。
「そうだったらいい、って?」
「俺のこと、好き?」
 腕が回っているので首を動かしにくいけど、そっと私は頷いた。
「じゃあ、ちょっとだけ黙ってて」
 彼の手が私のカッターシャツのボタンへとかかる。上から三つほど外された。
 開く胸元に、慌てて手でシャツを押さえる。
 私の手がさらに大きな手に包まれた。
「触るだけ、だから。安心したい。もう、男はうんざりなんだ」
 シャツを押さえていた手を下ろした。
「触るだけ、なら」
 下着の上から胸に彼の手が添えられる。少し心配していたけど、本当に触るだけのようだ。
 黒く厚いカーテンが閉じられているせいか、風の入らない室内は暑い。でも、彼の手は冷たかった。
 彼の手が離れたので、もう終わりなのかと思ったけど、今度は下着の中へ入り込んできた。
「触るだけって……」
「だから、触ってるだけ」
「そう、だけど、これ……」
「じゃあ、これで、どう?」
 指が私の胸の先をつまんできた。瞬時に何かが体の中を走っていく。
 それは、震えとなって彼に伝えることとなってしまった。
「すごい敏感らしいね、あんた」
「気持ち、悪い」
 両方の胸の先端をつままれた。
「やっ……め、て」
 力ずくで振り払おうと思った。そう、思ったはずなのに、
「反応、かわいい」
 耳元で言われてしまい、私の心と体はあっけなく抵抗力を失った。
 下着が上にずらされた。
 感触を楽しむように彼は、私の胸を揉んだり持ち上げたりしている。
 校内で彼にこんなことをされているのに、好きな人に触れられていることが嬉しい。彼の手の大きさや逞しさを直に味わっているのだ。
「柔らかい……。忘れられそう」
「おっきく、ないけど」
「あんたらしい大きさ、だと思う」
 彼が、また、胸の先をつまんできた。
「それ、やめて。なんか、変になる」
 彼の指の腹が、先端を撫でたりつついたりする。そのたびに、私の体から変なものがどんどんと這い上がってくる。
「ほんっ……とうっ、に、やめ、て」
「大変そうだね」
 彼の五指が胸の上を這いずり回る。あらゆる感覚を私へ与えてくる。立っていられそうにない。
 彼の手がスカートの中から太ももへ移った時、私は逃げるように手を振り払った。
「忘れるために、私に同じこと、するの?」
 さっきまで私の胸を翻弄していた手を下ろし、彼は冷めた目で大きな机の上へ座る。
「俺のこと、好きなんだろ? 同意のもとで行われたら和姦って言うんだ。これは強姦じゃない」
 ずらされたままの下着を戻し、シャツのボタンを留める。
「私はイヤ。忘れられるなら、触るだけなら、って思ったけど」
「触るだけで止められる? パンツ、濡れてるんだろ?」
 冷たい彼の一笑と共に私の言葉は遮られた。
「私のこと、好き? そうじゃないよね?」
 彼の顔から笑いが引いていく。私から目をそらした。
 この態度が、彼の答えなのだろう。
 床に置かれた鞄を取る。
「今日のこと、全部、先生に言わないから。……もう、絶対に来ない」
「ごめん……」
「胸、褒めてくれてありがとう。じゃあ、ね」
 ドアへと向かう。足元で、飛んできた試験管が割れた。思ったより派手な音はしなかった。
 試験管が勝手に飛ぶわけがない。彼が投げたのだ。
「なに?」
 振り向くと、彼がゆっくりとこちらに歩いてくる。
「告白の返事、まだ言ってない」
「好きじゃない。もう、わかってる」
「あんなことして、あんな姿を見られて、実は嬉しかった、なんて返事したら最低だろ?」
 首だけ彼へ向けていたけど、体を反転させて彼と向き合う。
「どういう、こと?」
 しゃがんで床に散った試験管を拾いながら、
「あんたは逃げなかった。泣いてくれた。汚いものも拭いてくれた。嬉しかった。だから……触りたくなったんだ」
 彼はぽつりぽつりと思いを話してくれた。
 うん、とだけ返し、彼の隣にしゃがみ、一緒に破片を拾う。
「私の彼氏になったら、今日だけじゃなくて、ずっと付き合うことになるけど……いいの?」
 立ち上がった彼は、燃えないゴミと書かれたバケツに破片を捨て、後方にある掃除用具入れから箒とちりとりを持ってきた。
「……いいよ」
 差し出された箒を受け取り、彼の構えるちりとりへと破片を掃き入れる。
「私も入部する」
「俺一人しかいないような部に?」
「襲われないように守る」
 ちりとりの中身をゴミ箱へと捨てた彼は、私の手から箒を取り上げる。
「入部するなら、自分を守ったほうがいいよ。ここ、危ないから」
「ここ、そんなに危ない人が来るの?」
「二人きりになると……俺が襲うから」
 箒とちりとりを掃除用具入れに戻した彼は、そう言っておもしろそうに笑った。


 ◇終◇
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