彼の下校時に渡そう、と今日の授業の全てを投げて考えに考え抜いて決心したというのに、放課後、その肝心の男子が鞄を机の横に残し教室から消えていた。
じっと待つこと三十分少々。何の用事もない教室に長居する人はそんなにいない。教室で一人で待っていると、決心や勇気や好きな気持ちなどいろいろなものが萎えていく。
やがて戻ってきた彼の手には、明らかにバレンタインチョコだろうという物が握られていた。
「何してんの?」
教室に戻ってきた彼は、私を見て開口一番そう言った。
何もせず、ただボーッと待っていただけの私に言い訳などできるはずもなく、
「まあ……いろいろとありまして」
苦しい言葉しか出てこない。
「あ、そう」
さしたる興味もなさそうに呟いて、彼はチョコらしきものを鞄へ入れる。
本当は彼に用事があったけど、あんなもの見てしまったら渡せるわけがない。そう思っているのに、隙があったら渡せるかも、と私の頭はこっそり思案を続けている。
バイバイすら言わず、彼が無言で教室を出て行こうとした。あわてて呼び止める。
「あっ、あのさ!」
「……なに?」
彼が振り向いてくれたものの、考えるより先に声が出ていたので、はっきり言って理由は何も考えていない。
机上の鞄を手にとった。
「えっと……一緒に帰る?」
「なんで?」
予想通りの返答。
教室でそれほど多くの言葉を交わしたことはない。そんなクラスメイトからいきなり誘われても、私だって同じ言葉を返していただろう。
「なんとなく。私も帰るし」
「俺、バス」
「学校前のバス停?」
「そう。三分ほどしかかからない」
私は徒歩で高校まで五分。話が盛り上がる前に分かれるはめになりそうだ。
「ちょっと遠いバス停……市役所前までどう?」
「市役所前……ね」
眼鏡ごしに無言で見つめられると、言葉の裏にあるものを見透かされそうで怖い。
私の顔を見て、窓の外を見て、腕時計を見てから、彼は指で眼鏡をあげた。
「俺に何か話でもあるの?」
「さっき手に持ってたものについて聞きたいことが、ってとこかな」
好奇心丸出しを自ら暴露してしまったけど、彼の返答次第では、私の鞄の中のチョコの行き場が決まる。あのチョコが何なのか、ということは重要だ。
「ああ、義理チョコだってさ」
「えっ、呼び出されて行ったんでしょ? それで義理? 義理と見せかけて本命とか」
「はっきりフラれたから間違いないよ」
「さらっと言ったけど……ふられたってことは、よ?」
「告白した」
私が彼を好きだった間、彼も他の誰かを好きだった、ということ。
「そっか、したんだ……」
今、私が告白したら彼の迷惑になるだろうな。漠然とそんな思いが頭をよぎった。
私が一日かけて決心したように、彼も告白に至るまでの苦悩があっただろう。
「……チョコいる?」
「いきなりどうしてチョコ?」
「持って帰ることにためらいが出た」
ふられた人からの『義理チョコ』は、さぞかし鞄に重いことだろう。
彼をふった女子のチョコ持って帰って叩き割ってやろうか、と意地悪い考えまで浮かぶ。あのチョコのせいで、私のチョコは行き場をなくしたのだから。
「じゃあ、私がもらって……あっ!」
降ってわいたとしか思えないくらい名案が浮かんだ。鞄の中からチョコを取り出す。
「私のチョコと交換しない?」
「誰かにもらった?」
「いやいや、今日は男子がもらう日でしょ。いろいろありまして、私も持って帰りたくないというか……」
語尾を濁す。彼を相手に嘘を重ねると、いずれボロが出てバレてしまいそうだから多くを話したくはない。
「いいよ」
「いいの?」
「引き取ってくれるなら何でもいい」
急ぐように鞄から取り出したチョコを、彼が私に差し出してくる。それを受け取ったとたん、引ったくるように彼にチョコを奪われた。
「あっ、ちょっと待って」
慌てて、彼の手にあるチョコの包装紙に挟んでいたカードを引き抜いた。
カードには彼と私の名前が書かれている。告白しないと決めたのに、そのカードが彼の手に渡っては元も子もない。
「危ない、危ない」
「名前でも書いてあるの?」
「まあ、そんなとこ」
ごまかし笑いを浮かべながらポケットに入れるはずのカードは、指の動きをどう間違ったのか、彼の足元にひらりと落ちていった。
「……ん?」
「あっ……!」
カードを拾ってポケットに入れたけど、彼の視線は先ほどまでカードの落ちていた場所から動かない。
「見た……よね?」
「眼鏡かけてるからハッキリと」
「全部バレた?」
「ある程度は」
「あのさ……そういうつもりじゃないの。普通に受け取ってもらっていいし」
彼に気を遣わせまいと笑ったけど、先ほど渡したチョコがゆっくりと目の前に出される。
「あんたには悪いけど……今はそういうの考える余裕がない」
「中身は本当においしいチョコだから。それに……持って帰れないってのは本当だしさ」
これは告白なんかじゃない。想いを込めたチョコを返されているわけじゃない。
自分で自分を奮い立たせる。そうでもしないと、精神的ダメージに折れてしまいそうだ。この状況で『女の武器』を目から流すわけにはいかない。
「俺が持って帰っていいの?」
「いいよ、いいよ。最初からそのつもりだったし、ブランドチョコだよ、ブランドもの。味はきっとやばい」
「……ありがたくいただきます」
私のチョコは無事に彼の鞄に収まった。
バレンタインチョコを、相手の負担にならずに受け取ってもらう。それだけのことがこれほど苦労するとは思わなかった。
全ての元凶はこのチョコだ、と思いながら私も鞄へ見知らぬ女子のチョコを突っ込む。
「そうそう、お返しとか気にしなくていいから」
「そういうわけにはいかない」
「私が気にしなくていいって言ってるのに?」
「そういう問題でもない」
「貸し借り嫌いな人?」
「そういうわけじゃなく……とにかく何か返しはする」
「いいって言ってんのに」
「性分なんだ」
照れくさそうに顔をそむけて、彼は眼鏡に指を添える。
気を遣われるのはイヤだけど、彼から何か貰えるのならそれは嬉しい。
「やっぱり、一緒に帰らない?」
想像していた形とは大幅にずれているけど、チョコを受け取ってもらったことで、気持ちが少しだけ欲張りになっている。悪あがきもいいところだ。
「三分でも?」
「バスに乗ってどっかデートにでも行く?」
「そんな気分じゃない」
「言うと思った。三分でもいいよ」
「……わかった」
彼が早足で教室を出て行く。
あわてて追いかけると、階段の手前で彼は私を待っていた。私の歩みに合わせて彼も階段を下りていく。
もしかして、意外と最高のバレンタインじゃないだろうか。そんなことを思いながら、彼と並んで歩く。
結局、彼は少し遠いバス停まで行ってくれ、翌日は律儀にチョコの感想を言いに来た。
私は、バレンタインにあんなことがあったにも関わらず、そんな彼にしっかりと惚れ直してしまった。
◆続く◆
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