四日間
 今年、高卒で就職した私は、この会社で事務を始めて半年になる。
 時々、はしゃいだりすると、周りの人から、学生気分が抜けていない、と言われることもあるけど、それも若さというものだ、と乗り切っている。いや、無視している。
 私の学生気分が抜けない要因の一つに、同じフロアで働く棚橋さんが挙げられる。性別、男性。年齢差はわからないけど、私より年上。
 学生時代も、私は目の保養となる男子を見つけ、彼と会うことを学校へ行く楽しみにしてきた。
 今は、棚橋さん目当てに会社に通う日々。彼がいるからこそ、学生気分が抜けないと言われてもはしゃいでいられるのだ。彼がいない日の私はもちろんおとなしい。
 今日も今日とて、棚橋さんに頼まれた書類を小さな鼻歌まじりでコピーしている。
「棚橋さん、言われていた書類のコピー終わりました。十部ずつでしたよね?」
 棚橋さんの周りのデスクには、ほとんど人がいない。昼休みだから、みんな食事に行ったのだ。
 彼のためなら昼休み返上も平気な私は、自分から手伝いを志願し、頼まれたコピーのために残っている。
「ああ、悪いな。昼飯行っていいぞ」
 そこで素直にお昼に行くほど、棚橋さんと二人のチャンスをさっさと逃すほど、私はバカではない。
「いいです。今行っても、食堂いっぱいなので。それにダイエットになるから、お昼抜くくらいがちょうどいいんですよ、私」
 受け取った書類をデスクに置き、棚橋さんは、笑った私の顔を無表情で見ている。
 困った顔をされれば、適当な理由をつけて食堂に行こうと思ったけど、眉間のしわは見当たらないので、しばらく彼の様子を見ることにした。
 やがて、棚橋さんは思いもよらない言葉を口にした。
「……みやげ、何がいい?」
「はい?」
 まぬけながらも、こんな返答がとっさに出てしまう。
 お昼休みに関する単語が何一つ出てこないうえに、いきなりお土産のことを言われても困る。
「明日から二日間休みをもらってある。友達と旅行に行くんだが、その土産は何がいいかと聞いてるんだ」
 おもわず、口から出そうになった。
 二日間も休むんですか、と――。
 お土産よりも、棚橋さんが二日も休むほうが私にとっては重大だ。
「お土産ですか。えっと、じゃあ、何かおいしいものを……」
 返ってきたのは棚橋さんのため息。
「ダイエット、してるんじゃなかったのか?」
 痛烈な一言が私を迎えてくれた。そういえば、確かにさっきそんなことを言ったような……。
「あ、の……お土産については別なんです」
「……なるほど」
 もう一度、同じ言葉を呟いて、棚橋さんが小さく吹き出す。
 笑った意味を聞こうと思った私の視界に、デスクに置かれた卓上カレンダーが入る。
「明日から二日間なんです、よね?」
「ん? ……ああ」
「土日と合わせて四日間の休みになりますよね?」
「だから、旅行に行くんだ。二泊三日で」
「ですよね」
 二日間だと思ってたものが、倍増してしまった。つまりは、私のショックも倍増するということになる。
 私があからさまに落ち込んだ顔をしていたのか、棚橋さんが覗き込んでくる。
「どうした? 羨ましいのなら君も有休をとればいい。今の状態なら、昼休みを返上すれば二日くらい何とかなる」
 棚橋さんと同じ日に有休をとりたいくらいだ。旅行のためではなく、彼のために有休をとりたい。
 けげんな表情を浮かべる棚橋さんを見て、四日間も会えないのか、と私は深く息を吐いてしまった。
 お土産を買ってきてもらえる幸運な女が、目の前でため息をついている。棚橋さんが怪しむのも当然だ。
「俺、何か変なことでも、言ったか?」
 心配そうな顔で覗き込まれ、見たことない棚橋さんの表情に、思わず漏らしてしまった。
「いえ……四日間は長いなあ、と」
 言ってから、はっと我に返った時にはもう遅い。出てしまった言葉は、しっかりと彼の耳にも入ってしまっている。
 棚橋さんも、なるほどな、と笑顔で頷いている。
 バレてしまった、と覚悟した私の耳に、これまた信じられない言葉が入ってくる。
「やっぱり、羨ましかったのか。土日をうまく取り入れれば四日間は簡単だ。さっきも言ったが、二日くらいなら何とかなるからな」
 聞いた私は呆然となる。頭の中で、そう受け取ることもできたのか、と感心する自分がいた。
 そして、気づく。意外と棚橋さんは鈍感なのかもしれない、と。
 ここで訂正すると彼のメンツを潰してしまうかもしれない。なにより、告白の準備なんてできていない。
 そこでまずは笑顔を作る。
「私も、今度がんばって二日の有休をとってみます」
「入社して一年は無理だろう。なにより、迷惑のかからない日を選ばないといけない」
 次に、これ以上変なことを言ってしまわないように、この場から逃げる。
「そこは心得てます。……じゃあ、私はそろそろお昼に」
 私の思惑通り、腕時計を見た棚橋さんが頷く。
「上には俺から言っておくから。……ありがとう。助かった」
 お礼と共に優しく笑顔を見せられたから、足がこの場に留まりたがっている。でも、この口は何を言うかわからないので、泣く泣く退散することにした。
「また、何かあったら言ってください」
 言いながら私は、自分のデスクから財布を取って、そそくさと出て行った。


 棚橋さんのいない二日間は激しく長かった。
 今頃、旅行を楽しんでいるのだ、と思うと、寂しさがよけいに大きくなったりもした。
 前日、お昼休み返上で仕事を済ませておいた棚橋さんのおかげで、彼がいなくてもフロアはいつも通りに動いていた。
 私もテンションは思い切り下がっているけど、仕事はきちんとこなしていた。棚橋さんも、迷惑はかからないように、と言っていたから。
 一人の社員におもいきり振り回されてるな、と思いながらも、なんとか棚橋さんのいない四日間は過ぎていった。


 月曜日の朝。
 棚橋さんに会える興奮のおかげか、とても早く目が覚めた。
 ふだん、見ることのない時刻を示す時計を見て、おもわず苦笑いしつつも、棚橋さんに振り回される幸せも感じてしまう。勝手に振り回されているだけだ、としても。
 早起きついでと、始業時刻より一時間も早く出勤した。
 自分の席に座り、ふだんだと飲む暇さえない缶コーヒーに口をつける。優雅な朝、というものを噛み締めていた。
 棚橋さんが出勤してきたら、嬉しさのあまり、飛びついてしまいそうだ。
 興奮が加速していく自分を飲み込むように、缶コーヒーを一気に飲み干し、大きく息をついた。
「いつも通り、いつも通り……」
 誰もいないのを幸いに、何度も呟いて、自分に言い聞かせる。
「早いな。……おはよう」
 空になった缶をにらんでいる私の耳に、誰かの挨拶が入ってくる。
 入り口を見て、挨拶を返そうとした私の目が、口がぴたりと止まった。
 デスクに向かうその人は、棚橋さん。私が待ち望んでいた彼。
「あ、棚橋、さん。おはようござい、ます」
 デスクに鞄を置き、ジャケットを椅子の背にかけた彼は、座らずに休憩スペースへと向かう。
「コーヒー買うんだが、君もいる……」
 棚橋さんの目が、私のデスク上の缶をとらえる。
「あ、すみません。来る時に買いました」
「謝らなくていい、が、カフェオレとは……甘いものを飲むんだな」
 私の飲んだメーカーのカフェオレは缶の色が白い。反対に、無糖のブラックは黒いのでわかりやすい。
「普通に飲んでたんですけど、これって甘いんですか?」
「ああ、俺にとってはこの上なく甘い」
 まるで飲んだかのように、棚橋さんは顔をしかめる。
「まあ、人それぞれの嗜好の違いだな」
 すりガラスで区切られたスペースへ棚橋さんが歩いていく。次いで、ガチャンと缶の落ちる音がした。
 無糖ブラックの黒々とした缶と共に戻ってきた棚橋さんは、鞄から小さな箱を取り出し、私のデスクの隣へと座った。
「約束していた土産」
「ありがとうございます。開けていいですか?」
「どうぞ」
 丁寧に包装紙を剥がし、出てきた箱の蓋を開け、小さい瓶に書かれた文字をゆっくりとたどる。
「ラ、ベ、ン、ダー?」
「化粧水だそうだ。肌に合うかわからないが、合わなければ誰かにあげるなり、好きにするといい。俺はかまわないから」
 瓶の蓋を開けると、きつくない程度にラベンダーの香りが漂う。
 薄い紫の瓶は、棚橋さんらしい大人っぽさで、まだ未成年の私へ、大人になったらね、と忠告しているように見えた。
 包装紙も箱へと戻し、デスク脇に置いていたバッグへと入れた。
「ありがとうございます」
「食べ物の土産は種類が多い。悪いが、早々に放棄した。詳しく聞いておくのを忘れていたな」
「何でもよかったんですけど……」
「それが一番難しい」
「化粧水、嬉しいです。ラベンダーの香りだから、寝る前に使ってみます」
「ああ」
 棚橋さんがコーヒーを飲む手を止め、じっと私を見るので、耐えられなくなった私は先に目をそらす。
 視界の隅の棚橋さんは、コーヒーをゆっくり三口ほど飲み、気づいたことがある、と話を切り出した。
「土産を買う時、友達に君のことを言ったんだ。彼に選ぶのを手伝ってもらうために」
「私のこと、言ったんですか? えっと、お土産ねだられた、とか?」
「ねだられた覚えはない」
「ねだった覚えもないですけど……」
 顔をあげた私と、話を止めた棚橋さんの目が合う。
 また目をそらさなければならないのかと思った時、棚橋さんが続きを話し出す。
「前日に言っただろう? 四日間は長いな、と。友達がだな、俺のいない四日間が長いと言ったのではないか、と言うんだが……そういう受け取り方はありなのか?」
 まさか、四日前に終わったはずの話を、私の失言を持ち出されるとは思っていなかった。
 鈍感な棚橋さんに、敏感な友達という副将がついていたとは予想外だ。
 棚橋さんの話術のおかげで、私は、有るか無いかを答えればいいだけなんだけど、この二文字がなかなか手ごわい。あり、と答えればそのまま告白に繋がってしまう。無し、と答えれば、無かったこととなって流れていってしまう。
「あり、です」
 長い沈黙の末、ようやく途切れながらも四文字を吐き出すことができた。
 そうか、と棚橋さんは安堵したように息を吐く。
「だが、たかが四日間がどうして長いんだ?」
 棚橋さんが言った瞬間、私は見たことのない彼の友達に、心の中で助けを呼んだ。
 そして、棚橋さんはからかっているのだろうか、という疑惑も出てきた。
「あの……からかってるんですか? 理由、本当にわからないんですか?」
「悪い。本当にわからない。差し支えなければ教えてほしい」
 そう言って棚橋さんが頭を下げるから、私も信じざるをえなくなった。彼の鈍感さを認めるしかない。
 棚橋さんの鈍感さにショックを受けたおかげで、私の中に生まれた、どうにでもなれ、があっさりと理由を口にさせた。
「四日間、会えないからです。棚橋さんに」
 こうなったらとことん言おう、と思ったのだ。彼がわかってくれるまで告白でも何でもするしかない。
 棚橋さんが驚きで絶句する。
 ようやく伝わったのか、と私は安心した。
「会うのを楽しみにしていた……ということ、なんだな?」
 念を押すように、ゆっくりと棚橋さんが聞いてきた。
 先輩である棚橋さんには失礼ながら、まだ私に言わせるのか、と呆れてしまう。
「はい。でも、仕事もちゃんとしてましたよ」
 すかさず、自分をフォローすることも忘れない。
 驚きが少し冷めたのか、ネクタイを少し緩めた棚橋さんは、ため息と共に呟いた。
「君も、だったのか……」
 今度は私が絶句する番だ。
 『も』ということは、棚橋さん『も』同じことを思っている、と容易に思い至る。
 棚橋さんは自分の呟きが示す意味に気づいていないのか、そうだったのか、としきりに呟いている。
 両思いになれるかもしれない展開に、私はおおいに興奮する。
「も、も、ってことはですよ。棚橋さんも私に会うのを……」
 答える代わりに、棚橋さんは大きく頷く。
「……四日間が長い、と君が言った気持ちが、今、ようやくわかった。確かに長かった」
 ネクタイにかけられた棚橋さんの手を、私は両手でしっかりと包み込んだ。いや、握り締めた。
「これって、これって……両思いじゃないですか。棚橋さんもそうだったなんて、もっと早く言ってくれればよかったのに」
 握り締めた彼の手を引き寄せて、何度も振る。興奮を抑えきれない。
 棚橋さんは私ほど興奮していないのか、私に振られている自分の手を驚いた目で見ている。
「四日間も待たせてしまった、ということになる、な」
「はい。待ちました。すごく待ちました」
「わかったから、離してほしい……」
「す、すみません」
 意外と冷めている棚橋さんの言葉に、私の興奮もさっと消えていく。
 自由になった手で緩めていたネクタイを戻した棚橋さんは、もう片方の手で私の手を握る。
「俺も冷めているわけではない。君のはしゃぎっぷりに、ちょっと、驚いただけだ」
 パソコンのキーボードを叩く棚橋さんの指を、日々こっそり盗み見ていた私は、それが自分の手を握っている、という現実にまた興奮しそうになる。
 そんな私を察したのか、棚橋さんは、握る手に力を込めた。
「一緒に通勤は難しいが、とりあえず、今日から一緒に昼飯食うか」
「はい、了解です」
 頷いた私は、棚橋さんの手を握り返した。
 みんなが通勤してくるであろう時間まで、あと十分――。


 ◇終◇
読んでくださってありがとうございました
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