同じ部署の女の子がミスを犯した。
今日が締め切りの仕事だから、残業してミスを訂正していくしかないけど、彼女は遠距離の彼と会える日だから、と半泣き状態ながら、とりあえず定時まで一生懸命直していた。
でも、間に合わない。
彼氏も用事もない私は、彼女の訂正の続きを引き受けた。
残業代が出るわけもないけど、嬉しそうな彼女の顔を見れば、なんとなくこんな残業もたまにはいいか、と思えたのだ。
残りの作業を聞いてみると、それほど時間のかかるものでもない。だから、私は快く引き受けた。
残業のことを主任に言うと、彼女のミス発覚時以上に怒られた。尻拭いは本人にさせろ、と。
残業代はいらないので、ということで承諾をもらった。
そんなわけで、今、私は自分のデスクで一人寂しくパソコンのキーを叩いている。
この部署には誰もいない。
「訂正したのに間違ってる。……ばっかだ、私」
寂しすぎるから独り言を言ってみると、なんとなく気がまぎれるように思える。
「これが……ここ、で。そっか。これがここ、だ」
独り言を続けるうちに、なんとなく寂しさもなくなってきた。作業効率も上がっている気がする。
「ブツブツは控えてもらえると助かる。怪しい部署だと思われたくないからな」
みんな帰ったと思ったけど、主任がまだ残っていたようだ。ドアを開けて入ってきた。
「す、すみません。主任も残ってらしたんですね」
主任は、私より大きめのデスクに座り、煙草に火をつける。何も言わず、何度か煙を吐き出し、指に挟んで灰を捨てた。
「残業届出してきた。君の残業代払われるから、帰る際は忘れずにタイムカード押すように」
「え、でも、自分のミスで残る場合の残業代は出ないはずじゃ……」
煙草を挟んだ主任の指が、私のパソコンを指す。
「その作業は君のミスから生じたものか?」
「いえ、私のミスじゃないです。でも……」
「残業代が支払われるのは不満か?」
「というわけでもないです」
「じゃあ、気にするな」
「はい、ありがとうございます」
座ったままではあったけど、主任に向かって頭を下げ、私は作業の続きに戻ることにした。
キーを打つ音と、主任が煙を吐き出す息遣いだけが日中よりは暗い室内に響く。
十数分ほど経っただろうか。主任はまだ帰らない。紫煙をゆっくりとくゆらせている。
独り言を言えないせいもあるけど、主任が来てから作業が遅くなっている。
少なからず想っている主任の視線が気になって、スムーズに指が動かせない。視界になるべく入れないように作業するので、効率も悪くなっていた。
「静かだな」
かちり、とライターの音が聞こえる。主任が、新しい煙草に火をつけたのだろう。
「みんな帰りましたから」
「君のことだ。さっきはぶつぶつと何やら言ってただろう?」
「あれはたまたま出てしまっただけです」
主任に悟られないように冷静を装ってたけど、指はしっかりと数字を打ち間違えていた。
「そうか……。そういうことにしといてやろう」
「そうしてもらえると助かります」
声には出てないけど、主任がくすりと笑っている。静かな室内では、息遣いだけでおよその反応がわかる。
「主任、私だったら大丈夫なので、お帰りになられたら……」
「安心しなさい。君を待ってるわけでも、手伝ってあげようとも思っていない」
「あ、そうですか」
だったら早く帰って、という言葉は心の中だけにとどめておく。
私を気にかけてくれてるのか、と少しだけ期待してたのに、その可能性はすっぱりと断たれてしまった。
しばらく、がっかりとしていたけど、ふと当たり前の疑問が湧く。
どうして、主任は残業も何もないのに残っているのか。
先ほどから、ゆったりと座って煙草を吸っているだけ。
定時になれば、会社から早く離れたいと言わんばかりにとみんな素早く帰っていく。安らぐとは無縁な気がする。
「俺がここにいるのに疑問を持ってるんだろうな。待ってる女もいない。帰ったところで一人だからな」
「もてるからきっと付き合ってる女性がいる、って部署内では噂ですけど」
「もてる? ……初めて聞いた」
「他部署の人からも、飲みによく誘われませんか?」
「誘われるが、あれはそうなのか?」
「女性なら……そうですね」
「そうなのか……。断っておいてよかった」
主任は、本当に心底安堵するようなため息をもらしている。
「嫌なんですか?」
「仕事で疲れてるんだ。恋愛の駆け引きなんぞに付き合えるわけがない。なお、疲れるだろう」
主任の言葉は、他部署の女性たちを軽く吹き飛ばすかのように聞こえた。全く相手にしていないようでもある。
これからは、他部署の人が主任に声をかけても、あれこれやきもきしなくていい。
飛んで入った残業で思わぬ収穫。
主任がいなかったら鼻歌でも歌っていただろう。それくらい、私の指はリズミカルにキーを叩いていた。
「そろそろ、終わりそうか?」
「あと……三分の一くらいです」
「手伝わないが、早く終わらせてくれないか?」
「主任、私のことはかまわずに先にお帰りに……」
そこまで言って、口と手が止まる。
主任の言葉はまるで私を待っているように聞こえる。さっき、きっぱりと、待っていない、と言ったはずなのに。
真意がわからず、私は主任を見た。どういうこと、と問いかけるような顔で。
「明日は幸い休みだ。飲みに誘いたい」
「私を、ですか?」
主任が煙草を灰皿に押し付ける。火が消えても、主任はずっと煙草をぐりぐりと押し付けている。
「誘うタイミングを狙っていたら、こんなに遅くなってしまった。……誘うくらい簡単だと思ったんだがな」
「主任、飲みに誘うってことは……」
さっきまでの会話を思い出して、私はそこで笑ってしまう。
その顔を見て、主任も押し付けていた煙草を、灰皿に軽く投げ入れ、悔しそうに前髪をかきあげる。
「言いたいことはわかった。無意識に俺は同じ手口を使ってしまっていたわけだな。罠にはまってしまったような気分だ」
「じゃあ、主任も?」
「ああ、そういうことだ。君がうなずけば俺は待つ。断れば帰る」
仕事をする時に主任と向き合うことはあったけど、こんなに緊張して、胸が高鳴るのは初めてだ。
しかも、いつもなら、書類を提出して主任の返事を待っているのに、今は私の返事を主任が待っている。
書類を確認するような真剣な主任の目。
私が首を横に振ることはない。うつむくように、ゆっくりとうなずいた。
「早く終わらせますから、待っていてください」
「ただし、俺は手伝わないから、そのつもりで」
頑固な主任らしい返事に、私はもう一度強くうなずいて、作業へと戻る。
キーを打つ音と、かすかな主任の鼻歌が、室内に響いていた。
◇終◇
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