3.後ろから包み込んで
 外はすっかり暗く、フロアには課長と私だけが残っている。
 課長は、あまり私たちに残業をさせない。この部署に女性が多いから、ということもあるだろうけど、少しの仕事なら課長が一人で残って終わらせるのだ。私たちに残業をさせるとうるさいから、という噂もちらほらあるけど真意のほどは定かではない。
 そんなわけで、今も課長はパソコンと向き合い、私はそんな課長を自席でただ見つめているだけ。
「……残業代は出ないぞ」
 ボールペン片手に課長がぽそりと言う。
「いいですよ」
「帰ったら、どうだ?」
「課長が帰ったら帰ります」
 書き終えた書類をパソコン横に置かれたスタンドにはさみ、課長はせわしなくキーを打ち始める。
 手伝おうかと思ったけど、それを拒むような課長の動き。コーヒーでも入れることにした。
 給湯室で二つのカップを並べ、温めたコーヒーを注ぐ。同じ場所から飲んでほしい、と思いながら課長のカップに口付けた。
「コーヒー、どうぞ」
「ありがとう」
 パソコンから離れた場所へ置く。課長の手はカップへ移動する暇もないらしい。
 立ったままコーヒーを飲み、課長の手や指、肩をじっと見る。こんなに至近距離で仕事している姿を見ることはあまりない。
 課長のカップの横にわざと自分のを置き、パソコンの画面を指した。
「課長、誤字です」
「どこだ?」
「ここ、です。上から三行目のところ」
 私の指した箇所までカーソルを戻し、課長は文字を修正する。
 私は引こうとした腕を、課長の肩に回した。つまり、後ろから課長に抱きついたのだ。
 解雇や上下関係など頭から抜けて――いや、どうでもよくなっていた。ただ、本能に従って体は動いた。
 私の腕を首に巻きつけたまま、課長はひたすらキーを打っている。
「何か……反応してください」
「ん?……ああ、離しなさい」
「そうじゃなくて」
「誘惑しても残業代は出ないぞ」
「お金なんていらない」
「俺に手を出させて……セクハラで訴えでもするのか?」
「しません」
 せっかく甘いことをしているのに、課長の言葉はことごとくムードというものを砕いていく。さすがに冷めてしまった。
 手を離し、カップを持って自分の席へ戻る。ぬるくなったコーヒーを一気に飲み干した。
「好きだから、ですよ」
「何が、だ?」
「課長が好きだから抱きついたんです」
「君がもてる理由は、それか……」
「はい?」
 もてない、とは言わない。確かに食事に誘われることも多いし、告白されたことだってある。でも、それが今の何と関係があるのだろうか。
 まさか――。
「私のこと、誰にでもすぐ抱きつく、とか思ってるんですか?」
「酔った君に抱きつかれたことがある」
「あ、あれは……」
 騒ぐ皆の輪から外れて飲んでいる課長の背中がすごく気になっていて、トイレに立ち上がった時、アルコールに負けて起こしてしまったことだ。
 酔って抱きついてしまう癖なんて私にはない。なにより、自分を制御できる範囲内でしか酔わない。
 こんな会話をしていても、課長は相変わらずパソコンから目を離さず、手はしきりに何かを打ち込んでいる。
「課長の……背中が私を誘ったんです」
「誘った覚えはない」
 それはそうだ。課長は普通にお酒を飲んでいただけで、私たちをうるさいと思ったとしても、誘ってなどいないだろう。でも、あの時、私は惹かれるように抱きついたのだ。
「私に抱きつく癖はありません」
「……そうか。すまなかった」
 本心かわからないけど、とにかく課長は謝った。
 軽い女だという誤解は解けたようだ、と思ったとたん、何か重大なことを忘れていることに気づいた。
「課長?」
「なんだ?」
「告白したんですけど、私」
「返事か?」
「……はい」
「今、それどころじゃない。終わったら言う」
 こうして、告白の返事は置いてきぼりをくらってしまった。
 早く返事は聞きたいけど、仕事中に慌しく返されても困る。あっさりと仕事を優先するところが課長らしい、と思いながら素直に待つことにした。


 パソコンの電源が落とされる。課長の手も止まった。
「一つ、仕事を頼んでいいか?」
「あ、残業代はいりません」
「これを十八部ずつ、コピー」
 課長から書類を受け取ってコピー機などが置かれた小部屋へと向かう。
 書類をセットし、十八枚に設定した後、スタートボタンを押す。コピー機から課長の苦労の結晶が出てくる。
「お疲れ様です、課長」
 小さく呟いた。
 手伝わない部下ですみません。
 次の紙をセットし、また、出てくる紙をじっと見つめる。
 課長が部屋へと入ってきた。
「私が持っていきますから、休んでいてください」
 出来上がった分だけでも受け取りたいのだろうか。課長はこちらへ近づいてくる。
「君の言った意味が……わかった」
 まず、課長の腕が見えた。背中が何かに覆われた。肩に、頬に髪が触れた。
 気づけば――課長の腕が私の体を包んでいた。
 胸元で交差している手は確かに課長のものだけど、あまりに突然すぎて現実感がない。
「あの……課長?」
「君の背中に誘われた」
「誘ってません、けど」
「立派なセクハラだ。訴えるといい」
「好きな人を訴える趣味もありません」
「そうか」
 課長がくすりと笑う。その息は私の耳に触れて甘くくすぐったい。耳元で課長の声を聞くことにも慣れていない。
「コピー、できないんです、よ」
「言葉が欲しいか?」
「言葉?」
「……返事」
 思わぬ事態のおかげで、そんなことはすっかり忘れていた。抱きついておいて私を振るのだとしたら、課長は立派に悪い男だ。
 課長の腕に触れた。頬を寄せる。
「聞きたいです」
「あの時、君が抱きついてくれたおかげで……ずっと目で追うはめになった」
「はい」
「君に……」
「はい」
「俺は……」
「はい」
「いや……コピーを、続けてくれ」
「はい。……ええ?」
 課長の手が離れた。
 どうして、課長はこうもムードというものをことごとく壊してくれるのか。あの後に続く言葉は一つしかないだろう、となかば陶酔しながら待っていたというのに。
 課長のほうへと体を向け、胸倉をつかむかわりに腕をつかんだ。
「本当に、本当に、コピーするんですか? もっと、何か言うこと、ないんですか?」
「出来上がったら、持ってきてくれ」
 私の腕を振り払って課長は部屋を出て行った。
 わざと大きな音を立てて紙をセットし、コピーを続けていく。
 出来上がった書類を束ね、早足で課長の座るデスクへと置いた。
「お先に失礼します」
 素早く体を反転させて、デスクに置いたバッグを取った。
「すまなかった。君のことは……」
 振り向くと、課長が立ち上がっていた。
「好きだって言ってる女を軽々しく抱きしめたりしないでください」
「違う」大股で歩いてきた課長は私の腕を強くつかむ。「いい歳して照れくさいと避けていた。だが、君のことは好きだから、俺でよければ……」
「よければ?」
 私の小さな悪戯に課長は、降参だ、というようにうなだれる。
「付き合って……くれないか?」
「はい」
 課長の口から言葉として聞けるのは、やはり嬉しい。頬も自然と緩まる。
「あ、課長、手始めに晩ご飯を食べに行きませんか?」
 わかった、とデスクへと戻り、鞄を手に課長は戻ってきた。
「おごるつもりはないぞ」
 どうやら、課長はお金のことに関しては容赦ないようだ。
 『課長』という肩書きに甘えようとしていた私は図星をさされて少し焦る。
「べ、別に期待してません」
 二人でフロアを出る。ドアの鍵をかける課長に、ふと聞いてみた。
「コピー中、途中で言いかけてやめたのはどうしてですか?」
「そ、それは……」
 課長が言葉を詰まらせる。照れくさい以外にも理由がありそうだ。
「教えてくれないと帰りますよ」
 主導権は意外と私にあるようだ。
 簡単に鍵のかかるドアなのに、妙に課長は苦戦している。
「アダルトビデオにこういうシーンがあったな……と思い出したから、だ」
「そんな失礼なこと考えてたんですか、あんな時に」
「だから、離れただろう」
 閉まったドアから鍵を抜き、課長は歩き始める。
 追いかけて背中をポンと叩いた。
「付き合ったら、いつでもできますよ、会社で。だから、我慢してください」
 わずかに歩をゆるめた課長は、深く息を吐き出し、
「俺のクビは、社長じゃなく君が握っているのだな……」
 ぽそりと呟いた。


 ◇終◇
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