4.…木の幹じゃないんですけど
 進路指導室の隣にある小会議室の大きな机に向かい、一人、悶々と一枚の紙を睨んでいる。
 高卒で就職することにしたのはいいけど、最初に受けた会社から内定通知をもらうことはできなかった。どうやら、志望動機の甘さが原因らしい。先生にも今度はしっかり書けとくぎをさされてしまったので、二枚目の履歴書の志望動機欄を前に、こうして悩むはめになっているのだ。
 正直な志望動機を書くとすれば、事務職さえできればどこでもいい、となる。通勤のことを考え、先生に駅からなるべく近い会社を選んでもらった。
 んー、と唸りながら机をシャーペンの頭でこつこつと叩く。そんなことをしていても、頭には何にも浮かんでこない。
 会議室のドアが開いた。急かすために先生が入ってきたのかと構えたけど、同じクラスの男子が一人入ってきただけ。
 私と同じように履歴書と、書き方が書かれたプリントを持っている。私から少し離れた席に座り、黙々と書き始めた。
 背が高く、体育系の部活をやっているというだけあって体格もそれなりにいい。そんな彼が持つシャーペンは小さく見えた。黒く流れる文字は見かけと同じくどこか無骨。
 履歴書を埋める言葉が見つからないうちは手もはかどらない。要するに私は暇なのだ。
「どこ、受けんの?」
 教室で特によく話すわけではない。ここに来た、というだけで彼に対して、私の中で妙な仲間意識が芽生えたらしい。
 答えてくれるわけがない、と思っていたけど、彼は短く言った。
「……工場」
「なんとなく、大学受験かと思った」
 彼の成績はあまり詳しく知らないけど、悪くはなかったと記憶している。
「進学は金かかるから」
 少し意外な答えが返ってきた。私のような勉強嫌いが『勉強しなくていい道』と消去法で就職を選ぶのだ、と思っていたから。
「貧乏?」
 しまった。直接的な言葉で家庭の事情に踏み込んでしまった。
 でも、彼は苦笑を浮かべ、
「最近、そうなった」
 とだけ返した。
「じゃ、しばらく働いてお金貯めてから大学受けるの?」
「その予定」
「なんだか、結婚まで一時的にOLできればどこでもいい、って女子みたい。まあ、私なんだけど」
 これもまた、しまった。軽い空気を作り出そうと笑ってみたけど、彼は淡々と履歴書を書いている。
 どうやってごまかそうかと思いながら、私も履歴書にシャーペンをあてた瞬間、聞き逃しそうなほどかすかな笑い声。顔を上げると彼が口元だけで微笑んでいた。
「確かに」
 小さな低い声は静かな会議室にふわりと響き、彼の空気が広がる。私もそれに包まれる。居ることを許されたようで、なぜだか少し嬉しくなった。
「結婚する予定の人もいないから、何年働くことになるかもわかんないんだけどさ」
 そこで彼の手が止まる。目がゆっくりと私へ向けられた。
「彼氏いるだろ?」
「ん? 彼氏? 私に?」
 舞い上がった気持ちが何かに引っ張られるように現実に着地する。
 私の返事に驚いたらしい彼は、とりつくろうように履歴書へと目を戻したけど、手は動いていない。
「噂で聞いた」
「いない、けど?」
「隣のクラスの……」
「ああ、あれ、友達の彼氏。噂なんてされてんだ。私って意外と人気?」
「……別に」
 彼の声音が急に素っ気なくなった。シャーペンの先が少し震えている。何か動揺させるようなことを言ったのだろうか。
 話題を転換するにこしたことはない、と思った私は彼の履歴書へ目を移す。
「志望動機って何にした?」
「体を動かすことが好きで貴社の製品に興味があります」
 つかの間、手を止めた彼は志望動機欄を読む。
「あー、工場だもんね」
「そっちは?」
 聞かれるとは思っていなかった。私に興味を示してくれたと喜んでいいものか。自分が言ったんだからお前も言え、かもしれない。
 彼と同じように自分の履歴書を見たけど、私の志望動機欄には何も書かれていない。情けないとわかりつつも首を振った。
「ずっと悩んでるの」
「会社を選んだ理由は?」
「事務がやりたかっただけ。駅から近かったから」
 私の答えは彼の言葉をなくさせてしまったらしい。
 しばらく後に返ってきたのは、呆れるようなため息だけ。自分でもわかっているから、特にショックはない。
 彼が立ち上がった。履歴書の欄は全て埋まっている。書き終えたようだ。
「えっ、ま、待って」
 別に彼が私を待つ必要はない。それなのに、私は置いていかれることが怖くて、慌てて履歴書に向かっている。まだ言葉は浮かんでこないというのに。
 でも、彼はそこで止まった。
 私の履歴書の横に、彼が受けるらしい会社の求人票のコピーが置かれる。条件欄に書かれているのは『男性のみ』であって、女性の私に関係するものではない。
「この会社、事務も募集してた」
「どういう、こと?」
「どこでもいいのなら……」
「どこでもいいけど」
 私がいまさら彼の会社へ変更する必要はない。なにより、なぜ、彼が自分の会社を勧めるのだろう。
 そんなことを考えていたら、
「無理に、とは言わない」
 求人票を引っ込められてしまった。そして、今度こそ彼は会議室のドアに向かって歩き出す。
 追いかけて何が言いたかったのか、何がしたいのかわからない。ただ、気づいたら立ち上がって彼の背を追っていた。
 ――と、会議室の机に足をひっかけた私は、頬をぶつけるような感じで彼に背から抱きついてしまった。
 彼の背中は大きく、実際に触れると予想以上にがっしりとしている。
 彼が何も言わないことに甘え、私はじっとその場を動かなかった。
 私がぶつかっても微動だにしない体に、ふと、遠い記憶の向こうにある大木を思い出した。
「小学校にあった木みたい……」
 小学校低学年の頃、自然を味わいましょう、というような趣旨でタオルごしに木に抱きついたことがあった。離れたくない、と今のように思ったのだ。
 ぴくりと彼が動いた。その瞬間、我に返った私はあわてて離れる。
「ご、ごめん」
「軽々しくしないほうがいい」
 彼の背中から聞こえる声は、低く、何の感情もこもっていないようだ。怒っている、とバカな私でも簡単に察することができた。
「本当にごめん」
 見えないとわかっていても、頭を下げずにはいられない。女子に抱きつかれて嬉しいくせに、なんて冗談も言えない。
「別に、いい」
「でも、ほら、気持ち悪くない?」
「あんたのこと好きだから、別にいい」
 早口な彼の告白は、いきなりのことにびっくりした私の脳内に留まることなく通り過ぎた。
「何か、言った? いや、聞こえたんだけど、聞こえなかったというか」
「もう一度は……無理」
 きつく握られた彼の履歴書の端がぐしゃりと完全に折れていた。折ってはいけない履歴書だから、この後、彼は書き直すはめになるだろう。
 今、肝心なのはそこではない、と逃げる思考を現在に留める。
「確認したいんだけど、私、告白された?」
 強く頷いた彼の耳が日に焼けたように真っ赤になっている。
 彼氏のことも、求人票のことも、彼との会話に感じていた矛盾の全てに納得ができた。ずっと彼は私を見ていてくれたのだ。
 じわりと何かに満たされていく。先ほど抱きついてしまった背中が愛しい。
「今まで特に気にしてなかったけど、なんだか、私も好きになってしまったかも……って答えはアリ?」
「俺は、嬉しい」
 短い返事の中に凝縮された彼の気持ちがすぅっと心に入り込む。心地がいい。
 この人が彼氏になるのか――。
 そう思うと、私の頬もにやけてきてしまった。飛び上がりたいほど嬉しい。
「会社を変更したいって先生に言う」
 えっ、と振り向いた彼は顔まで真っ赤になっていた。
「今度こそ絶対に内定通知もらうから」
「俺も落ちないようにしないと」
「がんばろ」
 みなぎるやる気に押されて手を差し出したけど、彼はその手を重ねようとはしない。ただ、うつむいた。
「……無理」
「あ、ごめん」
 私も恥ずかしくなって、手を引っ込めてうつむいた。
「頑張ろう」
 彼が拳を私の視界へと突き出してきた。私も拳を軽くぶつける。
「うん」
 ゆっくり顔を上げた私たちは目を見合わせてそっと微笑んだ。


 ◇終◇
読んでくださってありがとうございました
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