お金さえもらえればいい、と人となりをよく判断せずに声をかけたのは失敗だった。
高そうな時計にスーツ、仕事のできる男という雰囲気の早足。そのうえ、顔が好み。
お金も欲しいけど、どうせならかっこいい人と過ごしたい。
援助交際してみたかったから、軽い気持ちで声をかけたはずなのに、いつの間にかホテルの一室。
「お金はきちんとさしあげますし、もちろん体に触れることもしません。ただ、あなたは制服。ここは会社の近くですから、社の人間に見られたくないんですよ。個室に移動しませんか?」
路上で、私の誘いを受けた彼が言ったセリフ。
この言葉で、ホテルのバーなどに個室を持つ常客、と私は判断してしまったのだ。彼の見かけがそう思わせたといっても過言ではない。彼が紹介したホテルも豪華で有名なところ。
優先順位の一位がお金だった私は、並べられるキーワードにつられてしまった。
途中で断ることも可能だったけど、優しい物腰の彼が豹変してしまうことが怖くて、成り行きを見守るつもりでついて来た。
ただ、私もぼーっとついて来たわけではない。警戒心というのは時に驚くべき行動を思いつかせるらしく、彼の後から部屋に入った私は、オートロックのドアの隙間にテストの時間割を記した小さなメモ用紙を挟んだ。
推理ドラマでしか見たことなかったから、成功しているかどうかはわからない。でも、何もやらないよりはましだ。
今のところ、私のとっさの仕掛けに、彼が気づいた様子はない。
ジャケットを脱いだ彼は、かばんと共に脇に置いてソファに座った。
私は部屋のドア近くに立っている。この状態で近寄るのは得策ではない。
彼は腕を組んで、試すようにじっと私を見ている。いやらしい目つきではなく、女性を見ているとは思えない鋭い視線。面接でも受けているような気分になる。
やがて、ゆっくりと私の背後を指した彼は、満足そうに微笑んだ。
「……頭がいいんですね。怖いであろうなかで、よくぞとっさに思いついたものです。誘いを受けてよかった」
鋭い視線を受けたことでさらなる恐怖を感じていた私は、がらりと変わった彼の雰囲気に、思わず安堵のため息をもらしていた。
おかしそうにくすくすと笑う彼。
「お疲れ様でした。たいていの女の子は、あの目で逃げていきます」
「たいていの?」
「睨む私に色仕掛けをした女の子もいます。あれはあれで度胸があると思うのですが、ああいうのは好きじゃない」
「試したんですか?」
「物を買う時、お金を出すにふさわしい物かどうか判断しようとするのは普通のことだと思いますが?」
「私は人間ですけど?」
お金欲しさで彼に声をかけた自分の立場を忘れ、私は強気で言い返す。
直後、彼の口から漏れたのは、呆れたようなため息。
「お金が欲しい。私が財布にでも見えたのでしょう? だから、声をかけた。お金を持ってそうだった」
彼の目がまた鋭さを取り戻している。
図星をさされて目をそらしたいはずなのに、私は彼の顔をじっと見つめていた。
怖いけど、なぜか見つめていたい対象だと、私の目は認識している。
そして、思い出す。彼に声をかけたのは、お金が目当てだけじゃないことを――。
「確かにお金が欲しくて声をかけました。けど、それだけじゃなくて……」
彼は、驚いた様子でわずかに目を見開き、次いで考え込むような表情を見せる。
「女子高生にお金以外で声をかけられる覚えはないのですが……あなたに何かしましたか?」
「何も。ただ、顔がちょっと好みだっただけです。ちょっとだけ」
お金と同じくらい整った彼の顔に惹かれたけど、それを本人の前で言うのはしゃくだった。あれだけ言われたのだから、少しくらいの反抗は許されてもいい。
しばし唖然としていた彼が、いきなり声をあげて笑い出した。
「ははっ……なるほど。それは重要な要素です」
こみあげる笑いに押されるかのように、彼はそこで言葉を切る。
ひとしきり笑ったのか、息を整えた彼が、おもむろに手を差し出してきた。
「あなたはこれからも私の顔を堪能されるといい。私はあなたの女子高生らしさを買いましょう。その代わり、体の関係は一切無しです。今のところ、不自由はしていませんから。どうです? 互いに利のある契約だと思いますが?」
援助交際というレベルを超えた話のような気もしたけど、体に触れないうえにお金ももらえるのだから、単純に考えれば私のほうが得になる。
なにより、これからも彼に会える。
いろいろと計算して考えようとしたけど、衝動に突き動かされるように、手を差し出していた。
彼の手が私の手を握る。
じかに味わう彼の体温。予想通りの冷たさと、予想以上の大きさに、握った手を離してほしくない、という想いが頭をよぎった。
私の願いむなしく、彼はあっさりと手を離し、ジャケットから名刺を取り出して、私に見せる。
「電話でもかけられると困るので見せるだけです。しっかり名前を覚えておいてください」
名刺に書かれている名前よりも、肩書きに目が行ってしまった。
「社長じゃない、んだ……」
ため息をついて、彼が名刺をジャケットへ戻す。
「金持ちイコール社長ですか……。主任になるのも楽ではないのですが、そこまではっきり言われるとかえって清々しいですね」
言葉通り清々しい顔で、彼はジャケットを着る。
「もう、帰るんですか?」
思わず、聞いていた。
かばんを持った彼は、子供をさとすような優しい笑みを浮かべる。
「敬語、やめてもいいですよ。女子社員と話しているような気分になって落ち着かないんです。とりあえず、今日はこれで終わりましょう」
彼の笑みが一瞬で真顔へと変わる。私の耳元へ口を寄せ、
「あなたの気が向いたら、六時頃、今日と同じところに座っていてください。いつでもまた会えます」
そうささやいた彼は、驚いて何も言えない私の横を通り過ぎていく。
「カードキーはフロントに返しておいてください」
背後から、彼の声と、ドアの閉まる音がした。
かすかに残る香りと共に、彼の声と、あの鋭い目からは想像もつかない優しい笑みがよみがえる。
彼に声をかけて、つかまえたのは私。
彼にささやかれ、つかまってしまったのは――。
◇終◇