今日から三日間、高校でテストがある。
テストの日は必ず昼までに終わるので、寝不足で一夜漬けに励んでも、翌日に昼寝の時間がとれる。昼寝の時間に勉強すればいいわけだけど、私は夜のほうが集中できるのだ。
昨日、彼に声をかけた場所へ辿り着く。学校から帰るいつもの道から少しはずれるだけ。
彼が会えると言った時間は六時。今はお昼の十二時を少し過ぎた頃。
彼の会社の場所はわからない。名刺を見せてもらったけど、肝心の会社の名前も、株式会社という単語しか覚えていないのでは話にならない。
会えるはずないとわかっているくせに、私は昨日と同じ場所に座り、今日テストが終わった教科の教科書を広げ、解答が合っているかどうか確認していく。
十分ほど経ったところで、その作業にも飽きてきた。顔を上げて、ため息をつく。
無駄なことはやめて、もう帰ろう。そう思った私の横に、お弁当箱くらいの大きさの紙箱が置かれた。ご丁寧にお茶のボトルまである。
「会えるのは六時だと言いませんでしたか? ……言い忘れた覚えもないのですが」
あからさまに笑顔を見せれば待ち望んでいたみたいだ、と思っていても、隣から聞こえる彼の声に、頬がゆるむのを止めることはできない。
「あ、べ、勉強してたんです」
科目が見えるように、教科書をおおげさに閉じる。
「その教科は……今日のテストで終わったはずでは?」
彼にはテストのことも、時間割のことも何も言ってない。
驚く私のひざに置かれたのは、昨日、オートロック対策に挟んでいたテストの時間割メモ。
「三日間は会うこともないだろう、と思っていたのですが、ね」
「え、会えないんですか?」
思わず言ってしまってから、三日間会えないという言葉の意味に気づく。
予想通り、彼のため息と続けられる言葉。
「あなたがどれだけ勉強される学生さんかはわかりませんが、テストの日くらいは勉強しませんか?」
彼に言われると、反発する気持ちがなぜか湧いてこない。すんなりと受け入れ、うなずいていた。
「ん……じゃあ、帰ります」
本当は帰りたくないけど、わがままを言ったら子供みたいだと思ったから、理解あるふりを気取り、教科書をかばんに入れる。
「わが社の女子社員に人気の店のサンドイッチ、食べてみたくはないですか?」
「はい?」
立ち上がろうとしていた私は、話のつながりを無視した彼の言葉に、真意が読み取れずまぬけな声を返してしまった。
横に置かれた紙箱を指して、彼は持っていた袋を見せる。そこには、英語で書かれたお店のロゴが印字されている。
「あなたが勉強されている姿に感動して……というのは嘘ですが、まあ、ご褒美だとでも思っておいてください」
紙箱とお茶のボトルを見つめ、彼の顔に目を向ける。
スーツに不似合いなかわいいロゴの入った袋と、笑顔の彼。せっかくの誘いもあることだし、これを逃すのは惜しい。
「食べてみたい、です」
「どうぞ」
ひざの上で箱を開けると、ボリュームたっぷりでありながら食べやすいサイズに切られた野菜サンドが入っていた。
隣の彼も同じように開けている。
「これは……女性に人気なのが頷ける」
「ヘルシーですね」
「まずくはないと思いますよ」
「いただきます」
あっさりな見かけによらず、しっかりと味がつけられていておいしい。人気なのもうなずける一品。
私が三分の一を食べた頃、彼は半分以上食べ終えていた。
彼はコーヒー専門店のロゴの入ったコーヒーを飲みながら、すかさず片手でネクタイを緩める。
彼が顎を上げたせいで、コーヒーを流すために動いていた喉が、私の視線の先にさらけ出される。
昨日、彼の手に触れたせいだろうか。一連の動作に、男の色気というものを感じていた。
彼がサンドイッチを食べている間も、その喉と緩められた首元から目が離せない。
ずっとそうしていれば奇妙に思われるとわかっていても、もったいないと思う心もあって、結局、彼が食べ終えるまで視線を動かせずにいた。
「私の何が、あなたの興味を引いたんでしょうか?」
コーヒーを飲み干した彼が、私のほうを向かずに問う。
気づいていたのか、と驚いてはいない。予想通りではあったけど、直接聞かれるとは思っていなかった。
「あっ……いや、えっと……」
曖昧な言葉で時間を稼ぎながら、フル回転でうまい言い訳をはじきだす。
「あ、ネクタイ。ネクタイを緩めるところ、初めて見たから……珍しいな、って」
彼が自分のネクタイを見ている。
なかなかいい言い訳だと私は思っているけど、果たして彼は納得してくれるだろうか。馬鹿を露呈する結果となっただけだろうか。
私の不安を察したのかはわからないけど、彼は緩めていたネクタイを締め、こちらを向く。
口元をにやりと上げているところを見ると、私の言い訳に気づいたのだろう、と予想できる。
「若い女性の手で緩めてもらえるなら、私はいつでもこの首を差し出しましょう」
「ネクタイを緩めて、何を……?」
何か話さなければ彼のペースにはまる。奇妙な危機感に押され、とっさに出した言葉に自身で唖然となる。どこからそんな言葉を思いついたのか……。
彼の口元が、さらに引き上げられる。あと一押しで、声を上げて笑い出しそうなほどに。
「そうですね。……手でも縛りますか? 私にそういう趣味はありませんが、お望みなら」
「私にも、ありません」
「緩められるよりは、あなたのそれを緩めるほうを選びます」
「それ?」
「制服の赤いリボンを」
「セクハラですか?」
彼はからかいモードに入っている。うまくかわせるほど大人ではないから、こんなセリフしか返せない。
彼が皮肉めいた笑いを見せる。
「援助交際を持ちかけたあなたが言いますか、それを」
「だって、食事したりカラオケ行ったりするだけで……」
「本気で言ってるなら、私でやめておきなさい。あなたに大勢の男は騙せません」
容赦のない大人の目。
もう、私に返す言葉はない。この目に見つめられたら強気でいられない。
「言われなくても、もうやってません」
かろうじてそう言い返したとたん、彼の張り詰めていた空気が一気に弛緩する。
「……確認したくなっただけです。そして、思い出しました」
ジャケットの内ポケットから取り出された小さな何かが、私の前に差し出される。
「お年玉? ……なわけないですよね」
「現金をそのまま、というのにためらいがあったので」
淡いピンクの和紙に、雪うさぎが二匹書かれたお年玉袋。
それを見て私も、援助交際として会っているのだ、ということを思い出す。受け取ろうとした手が途中で止まった。
「怖い、ですか? 受け取れば金の代価として私があなたに体を求めたりする、と? ……大丈夫ですよ。私も納得のうえで差し出している」
援助交際という関係になりたくない。それが手を止めた一番の理由。でも、お金を差し出した彼は援助交際としているのだ。ここで断れば、彼と会う理由を失うことになる。
とにかく、会いたい。今はどんな方法だとしても、会う理由が欲しい。
袋を受け取った。私に合わせて買ったのだ、と妄想を抱きながら。
「少ない、とは言わないでください。給料日やボーナスの時にはきちんと増えますから」
たとえ、この袋に入っているのが小銭であろうと、私は少ないとは思わない。
「無理はしないで……ください」
彼からお金を奪っている女子高生が言うのもおかしなものだ、と思いながらもつい口から出たものは止められない。
「私に都合のいい意味として受け取っておきましょう」
少し嬉しそうに彼が笑ったので、私もつられて微笑む。
「それでは、テストが終わったら」
「はい。……お仕事がんばって」
私はこれから帰宅するけど、彼は会社へと戻るのだ。そう思ったら、自然と声をかけていた。
彼も意外な私の言葉に驚いた様子を見せたけど、かすかに頷き、
「では、あなたは勉強をがんばってください」
軽く手を振り、すかさず取り上げたゴミを手に歩いていった。
彼はもう背を向けているけど、私も笑顔で小さく手を振る。
お金の入った袋が現実へ引き戻そうとするけど、ピンクの和紙にたたずむ雪うさぎは、彼の優しい気遣いをじっと私に伝えていた。
◇終◇