今日はちょっと嫌なことがあった。だから、うまく笑えない。
でも、なぜだかむしょうに彼に会いたかったから、私はいつもの場所で待っている。
私の前を足早に歩くサラリーマンと同じく、疲れた表情で近づいてきた彼は、私に気づいて軽く手を上げる。
私も手を上げて、座ったまま声をかける。
「こんばんは」
「こんばんは。あなたは会いたいから待っていた、と受け取っていいんですね?」
「もちろん、そうですけど?」
「そうは見えない、のですが……」
じっと顔を見つめる彼に、私は思わず苦笑いを返した。
「嫌なことがありました。でも、会いたいと思ったのは本当です」
私が言ったとたんに、上から疲れたようなため息が降ってくる。
「あなたの愚痴を聞ける余裕はないんですが、ね。聞き役なら他をあたってください」
はっ、とした。
会いたい時に会える関係ではあるけど、それは無償ではない。彼は私と過ごす時間を買っている。私はその分、楽しませなきゃいけない。彼には私の愚痴を聞いてあげる権利などないのだ。
現実に気づいたら、恥ずかしくなった。甘えないでくれ、と言われているような気がした。
まぶたを強く閉じ、再び開くと同時に笑顔へと変える。
「こんなのと一緒にいて楽しめるわけないっての……」
呟き、即座に立ち上がって頭を下げる。
「今日はこれで終わり。お疲れのところ引き止めてすみませんでした。ではっ」
友達が見たら、いつもと違うって笑いそうなくらいの明るさ。彼に気をつかわせたくない私の精一杯のカラ元気。
さっきの暗いモードは嘘か、というほど笑顔で手を振る。
驚いている彼を置いて、私は駅へと向かった。
勝手に親近感をおぼえて、立場もわきまえず彼に甘えて、見せつけるように暗い顔をした。
今日の嫌なことよりも、さっきの自分の態度に嫌悪をおぼえる。冷静になればなるほど、ただただ、バカなことをした、という後悔が襲ってくる。
突然、後ろから腕をつかまれた。
変な人かもしれない、と思う前に、隣にさっき別れた彼が現れた。
「え、な、なんで? 追いかけてくる気配なかったし、追いつくの早いし……」
パニックが敬語を忘れさせる。
かすかに息切れしながらも、彼が得意げな顔を見せる。
「足の長さが明らかに違います」
腕を強くつかまれているから、私は止まらざるをえない。
「……わかってますよ、そんなこと」
「今日、あなたが……」
そこまで言って、彼が呼吸を整えるために息を吐く。
「はい?」
「嫌なことで落ち込んでる中、私に会いたいと言った意味を考えるべきでした」
「もしかして、謝りに来た、ですか?」
「そういうつもりで来たわけではありません」
彼が私の手を引いて、人気の少ないほうへ歩いていく。
あまりに人の通らない道に出た瞬間、彼が私の頭と体を引き寄せた。
人気のない通りで、いきなりこんなことされれば、襲われると誤解してもおそらく無理はない。
「ちょっと、どういうつもりですか?」
彼の胸に押し付けられているので、くぐもった声にしかならなかった。
「優しくしてあげましょう」
この態勢でそう言われれば、エッチな方向で受け取ってしまうのも――無理はない。
「優しくとかそういう問題じゃなくて。それに、不自由はしてないって前に言ってたじゃないですか。なのに、いきなり、こんなこと……」
「そうではありません」
無防備な耳元で囁かれれば、もがく体も自然と止まる。
「胸を貸しますから、泣くなり、愚痴を言うなり、好きにしなさい」
「優しくするって……」
「あいにく彼氏ではありませんから、今だけですが」
期待と想像のふくらみやすい私に、現実を見せつけるのが彼の役目らしい。
落ち込んだ時、男の人の胸に包まれるのは初めてだけど、確かに意外と心地がいい。
煙草の香りや頬にあたるスーツやネクタイの肌触りが、周りの景色や音を遮断する。彼の腕の中、という世界に立っているかのような感覚に陥る。
ただ、やっかいなことに、この場所は心地いいだけではない。
「緊張してしまって、泣くどころではないんですけど」
予想通り、くすくすと彼の笑い声。
「……では、愚痴をお聞きしましょう」
「その前に、解放、してください」
私を放した彼は、まだ笑っていた。
「男の胸よりケーキ、ですね。静かでゆっくりできるカフェがあるのですが、どうしますか?」
言いながらも、彼の笑いは止まらない。
男の胸で緊張するお子様ぶりがおかしいのだろうか。バカにされたようで腹は立つけど、本当に緊張してしまったのだからしかたがない。無理して大人のふりしたほうが、後で絶対にバカを見る。
しかたないけど、言い返さずにはいられない。
「居心地はよかったんですよ。ただ、それ以上に緊張しただけで」
彼がゆっくりと笑いを収める。
「馬鹿にしたわけではありません。男の胸よりケーキの良さを知っているあなたのほうがいいのです」
「そのうち、慣れます」
「待ちましょう」
なんとなく恋人みたいだ、と思いつつ、歩き出した彼の隣につく。
目はずっと下を向いている。
彼のスーツとネクタイを見たら、あの感触がよみがえり、緊張して歩けなくなりそうだったから。
◇終◇