6.指先から痺れる
 今日の私は珍しくケーキを頼んでいない。
 いつものミルクティーが左側に置かれている。
 目の前には広げたプリント。
 彼に会いたいと待っていたものの、予想以上に宿題が多かったから、こうして恥を忍びつつ、プリントを埋めている。
 彼は大学を卒業しているらしい。何か助言してもらえないか、と都合いい期待をしているけど、今のところ彼が口を出す気配は全くといっていいほど無い。
「先ほどからずっと止まってるようですが、そこがわからないのですか?」
 シャーペン片手に唸っていれば、さすがの彼も、口を出さないわけにはいかないのかもしれない。
 私はシャーペンを置いて、ミルクティーを一口飲む。
「教科書見ればわかると思うんですけど、学校に置いてあるので……」
 まぬけすぎることを白状するのは、意外と恥ずかしい。彼の目が見られない。
「私も経験があるからわかります。……少し、借りていいですか?」
 私の返事も聞かず、彼はシャーペンを手にプリント上部に数字を書き込んでいく。
 私が悩んでいた問題を解いているらしい。ただ、答えらしきものは見当たらない。
「ここまで書けば……わかるでしょう」
 シャーペンを置き、彼が数字と記号の羅列を指す。
「あてはめるべき公式そのものがわからないんです」
「高校で習っているものかわかりませんが、私が使ったのはこの公式です」
 公式を書いた彼は、どこにどの数字をあてはめたのか矢印まで加えてくれた。
「あ、見たことあります、これ」
「見たことある、ではなくて覚えるものだと思うのですが」
 コーヒーで喉を潤した彼の冷静で的をついた指摘。
「……数学は苦手なんです」
 言いながら、ごまかすようにシャーペンを取ったとたん、思わず私は手を離してしまった。
 転がったシャーペンが彼の腕にあたる。
「どうかしましたか?」
「いえ、別に」
 けげんな顔と共に差し出されたシャーペンの、頭の部分だけを持ってペンケースに入れ、別のシャーペンを取り出した。
 シャーペンに残った彼の熱に、あれほど過敏に反応してしまうとは思わなかった。自分のシャーペンを使って人に勉強を教えてもらう、なんて友達同士でもやっていることで、さっきも当たり前のようにシャーペンを取っただけだ。
 別のシャーペンを手に、彼の反応を確かめる。不審に思われなかっただろうか。
 彼の目線はもうシャーペンにはなく、飲んでいるコーヒーを見つめていた。
 少しの混乱を残しつつ、プリントの続きにとりかかる。
 何個か数字を書き、ふと思い直した私は、持っていたシャーペンと先ほどのシャーペンを入れ替えた。
 私のシャーペンなのに、彼のぬくもりが残っているだけで、手の中で全くの別ものになる。触るだけで、持つだけで、手に緊張がはしる。
 彼と同じように持ってみた。今にも書こうとペン先はプリントの上に添えられている。でも、そこから全く動かせないのだ。
 私の目はじっとシャーペンを握る指を見つめている。いや、自分の指の向こうに、彼の手を思い出している。
 彼が私のシャーペンを持った。たったそれだけのことで、指が動かなくなっている。
「まだ、わからないのですか?」
 息を吐いた彼が、固まった私の指からシャーペンを抜き取る。
 呪縛から解き放たれたかのように、我に返った私は、素早く抜き取られたシャーペンをつかんだ。
 上は彼が持ち、下は私の手ががっちりとつかんでいる。
 先に指を離したのは、もちろん彼。
「わかっているのであれば、どうして解かないのですか?」
「指が、動かなくて……」
「動かない? 突然、ですね」
「お願いですから、シャーペンには……触らないでください」
 彼と全く目を合わせず、手元にシャーペンを引き寄せる。
 納得も理解もできないだろう。自分でもおかしいことを言っていると思っている。とにかく、彼にシャーペンを触られると、後で私が使えないということだけはわかった。
 深いため息が前から聞こえる。
「いいでしょう。ボールペンは持っているのですが、提出するプリントに使うわけにもいきません。だから、あなたのシャーペンを使ったのですが……」
 教えてもらったくせにシャーペンに触るな、と言うのは都合がよすぎる。呆れられるのも当然だろう。
「ごめん……なさい」
 理由が言えなくて、勝手なこと言ってごめんなさい。私が勝手に好きで、勝手にドキドキしただけなんです。
「そのように謝られると、いじめているような気分になる。ただ、私もそう鈍感ではありません。そうですね……ボールペンは持っていますか?」
 怒っているのだとばかり思っていた私は、その突拍子もない質問に顔を上げた。
「ボールペン? ペン、なら持ってますけど」
 彼の表情に怒りの片鱗は見受けられない。それどころか、優しく微笑んでいる。
「かまいません。持っているなら出してください」
 彼の意図も何もわからぬまま、ボールペンを取り出して、テーブルの上に置く。周りの友達もよく持っている角の丸いキャップのついたペン。
 硬質なシルバーのボールペンを取り出した彼は、私のペンと交換した。
「何、してるんですか?」
「交換しただけです。どうぞ、これからはこっちを使ってください。まだ新しいのでインクは十分に入っていますよ」
「それ、使うんです、か?」
「もちろん」
 彼のビジネスバッグの小さなポケットに差し込まれた私のペン。キャップ部分が少し不似合いではあるけど、パッとみた感じでの違和感はない。
 私もボールペンを取る。思ったより重い。よく見ると、小さな傷があちこちについている。
「やっぱり、ずっと使ってたんですよね? って当たり前だと思うんですけど」
「多くの書類にサインしてきました」
 持ったボールペンをペンケースに入れるべきか迷う。
 彼の物がペンケースに入っていたのでは、おちおち指も入れられない。いつ触れるかわからないのだから。
 ボールペンを彼に差し出す。
「お返しします。やっぱり、私には……使えませんから」
 彼はあっさりとボールペンを受け取り、私のペンを差し出した。
「やはり、そういうことでしたか。これで確信が持てました」
「確信、ですか?」
 ペンをケースに入れる。やはり、気分的にもこっちのほうが軽い。
 バッグにボールペンを差し込み、顔を上げた彼は、私の質問に大きく頷いた。
「あなたがシャーペンを使えなかった理由、触ってほしくないと言った理由、です」
 あまりに突然の宣告だったので、ペンケースを持っていた手に力が入る。ケースから目が離せない、顔を上げられない。
「わかった、んですか……」
 手が少し震えだす。
「だからといって、どうこうするつもりはありません」
「気持ちもわかった……んじゃないですか? 断るのなら断ってください」
 聞いた瞬間は、ばれてしまったことにショックを受けたけど、今は試されたという事実に怒りを感じている。
 震えながらもプリントやペンケースを片付ける。ふられたら即座に帰れるように。でも、顔は上げられない。
「それは今度。今度会った時に必ず答えます。三回目に答え合わせ、と以前に言いました。あなたにも、私にも、考える時間が必要です」
 立ち上がった。そして、彼の顔を見る。
 彼は真剣な表情で私を見ていた。
「わかりました。今日は……何もいりません。それじゃあ」
 背を向けた私に向かって発せられた彼の声は、小さくて聞き取りにくかったけど、
「私はまだ断ってもいません。覚えておいてください」
 その言葉は無意識に頭に残る。
 大人の遠回しに振り回されたくない、と思いつつも、期待は自然と胸に広がっていった。


 ◇終◇
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