7.君が欲しい
 いつもの場所で待ち始めてから、二十分ほど経った頃、携帯がメールを受信した。
 確かめてみると、知らないアドレスからのメール。迷惑メールはめったに受信しないので、間違いメールか、友達のアドレス変更報告メールだろう。そう思いながら、開いたメールの本文をたどる。

『仕事が忙しいので今日は行けません』

 たったそれだけの文章で、最後に彼の名前が書かれている。
 そういえば、会った日にメールアドレスを教えていたのだ。メールをもらったことがなかったので教えたことすら忘れていた。
 @マークの後ろの文字を見て、会社からのメールでないことを確認し、私はアドレス登録ボタンを押した。メールは間違いなく彼の携帯から送られたものであり、そのアドレスをこのまま見逃す手はない。
 たった二行のメールをじっと眺め、私はようやく返信することにした。仕事中の可能性が高い、ということはメールを見る時間もあまりとれないだろう。そんな彼に迷惑をかけない文を考える。

『待ってます』

 ふだんの私からは考えられない、たった五文字だけの短いメール。送信した。

『いつものカフェで』

 すぐに彼から返事がきた。今度は一行。
 でも、『いつもの』という待ち合わせに慣れた恋人を思わせる言葉で、頬は自然と緩んでくる。
 彼から届いた二通のメールを開き、保護ボタンを押した。これから私の携帯に何通メールが届こうと、彼のメールが不用意に消えることはない。
 待っているという私のメールに、あの返事だから、待っていてもいい、という結論が導き出される。
 いつもの私なら、仕事で忙しい彼のことを考えて帰るところだけど、今日は答え合わせと言われた日。彼には申し訳ないけど、そうとうな覚悟でここに来たのだから、答えを聞くまでは帰れない。
 携帯を閉じて、私はカフェへと向かった。


 いざ、カフェに来ると緊張が急に増してきて、何も頼めなかった。
 ドアが開くたび、見てはため息をつき、コップの水を飲む。
 そうして三十分が経った。
 数回目、ドアが開いた時に入ってきたのは彼。そのまま早足で私の前へと座る。
「もう、何か食べられましたか?」
 お水しかのってないテーブルを見た彼の第一声に、私は首だけを振る。
「何も」
「何も? ……珍しいですね」
 店員さんが彼の分の水とメニューを持ってくる。
 座ってジャケットを脱いだ彼は、メニューを私の前に広げてくれた。
 私の前には、ケーキの写真がたくさん貼ってあるページが広げられている。
「ご注文……よろしいでしょうか?」
 申し訳なさそうに、伝票とボールペンを持った店員さんが近づいてくる。
「オリジナルブレンド、ロイヤルミルクティー、ケーキは……」
 私の分まですかさず頼んだ彼は、そこで言葉を止め、続きを私に譲った。
「えっと……オレンジムースケーキ」
 彼の配慮にじーんとしながらも、ちゃっかりとケーキを選んでいる私は、やはり食い意地がはっているのだろうか。
 注文を繰り返して店員さんが去った後、彼がくすりと笑った。
「一つで足りるのですか?」
「足ります」
「……珍しい」
 ケーキ二個の食い気に走るほど、私は色気のない女じゃない。
 彼は後ろに背をあずけ、肩を揉んだり、首を回したり、眉間を指で挟んだりしている。
 邪魔してはいけないと思った私は声をかけず、ずっとその動作を眺めていた。
 大きく息を吐いた彼が話し出したのは、テーブルに注文品が全て揃ってからだ。
「申し訳ありません。サラリーマンの疲れなど見たくはないでしょう」
「見たからといって嫌とは思いません」
「年度始めなので、少しも気の抜けない忙しさなのです」
 彼が答えについて話す気配がないので、私はケーキを食べながら、しばしその日常会話に付き合うことにした。
「バイトしてる友達も、この時期は忙しいって言ってました」
「どこも、そうでしょう」
「あ、そういうもんなんですか」
 視線を彼からケーキへと移し、フォークの先に意識を向ける。ムースの中にオレンジの果肉が混ざっているので、変にフォークを差し入れると崩れてしまうのだ。
 会話に集中できないケーキを頼んでしまったことに少しだけ後悔する。
「だから、あまり会えないのです」
 そんな私は、彼の言葉を聞き流してしまった。
 フォークをケーキに刺したまま、聞いてなかったので、と聞き返す。
「忙しいので、あまり会えないのです。いえ、会う時間をほとんどとれないのが現状です」
 手から力が抜け、フォークと一緒に倒れる。それに押されて、ケーキも崩れた。
 今日は答え合わせであることを今さらながらに思い出す。ケーキに集中してる場合ではなかったのだ。
「もう、会わない?」
「こうして会うことはできません」
 カップを持っていた手をおろし、真剣な目を向けている。彼の答えが出されたのだ。
 私が期待していた答えは不正解。
「そっか……じゃあ、しょうがない、ですよね。うん、忙しいんだから、しょうがない」
 崩れたムースをかき集めて、ただひたすら口へと運ぶ。口を動かしていないと目の筋肉が緩んでしまいそうだった。
 ケーキを食べ終え、素早くミルクティーを飲み干す。早くここから立ち去らないと。
 口のまわりを拭って、かばんを持つ。あとは立ち上がるだけだ。
「送りましょう」
 それまで黙っていた彼がふいに言った。そして、私よりも先に立ち上がる。
「レジを済ませてきますから、必ず待っていてください」
 出鼻を完全にくじかれた私は、彼の強い口調に押されるように、ふらふらとカフェを出て待っていた。
 少し遅れて出てきた彼が、安堵の吐息をもらす。
「車なので送りましょう」
 彼が鞄から取り出したものを私の前にかざす。軽い金属音をたてるそれは、車の鍵がついたキーケース。
 彼の会社の社員専用駐車場まで二人で歩く。
 会うのが最後だから特別に車で送ってくれるのだ、と勝手に理由を作った。ふられた人とこれ以上はいたくないけど、最後にこれくらいの思い出を作っておいて損はない。
 彼が乗るのを待って、私も助手席へ座る。後部席へ座ろうかと思ったけど、彼が助手席に置いていたものを後部に移したから、成り行きでそうなってしまった。
 CDのケースが綺麗に並んでいる。
 私が見ているのに気づいたのか、
「好きなものをかけてくれてかまいません。CDはここに入れれば、あとは勝手に再生します」
 彼がプレーヤーを指して説明してくれる。
「どうも」
 そう答えて、私は膝の上のかばんをじっと握っていた。
 車が走り出す。
 ギアに添えられた手に、じっと前を見つめている目。手馴れた雰囲気で運転する彼をちらりと見て、ふられたばかりだというのに惚れ直してしまった。
 赤信号で車が止まった時、彼が適当にCDを入れ、沈黙で包まれていた車内に音楽が流れる。
 聴いたことのない曲だった。
「私が高校生の時に好きだった曲です。あなたは知るはずもありませんが」
「私と同じ高校生だった時ですね」
「言われてみれば……そうなりますね」
 曲を必死に耳に入れる。少しでも覚えられれば、CDショップで探すこともできる。現在は無理でも、高校生の彼に近づくことができる。
 車内に音楽が流れ出したせいか、沈黙の重さが少しだけ解消される。
「車、乗ってたんですね」
 それまで何を話せばいいのかわからなかったのに、すんなりと言葉が出た。
「早朝は混雑しないと知ってからは、車で通勤しています」
「私と会った後も、車で帰ってたんですか?」
「なぜ送ってくれなかったのか、と聞きたそうに見えますが?」
 前を見たまま彼が笑う。
 見えないとわかっていたけど、思わず否定の意をこめて手を振ってしまった。
「そういうわけじゃないんです。……あ、でも、ちょっとだけ、そう思いました」
「理由があるのですよ。あなたは頭のいい人だ。信用していない男の車になど乗らないだろう、と思っていたのです。初めて会った男に、車で送る、と言われて乗りますか?」
「絶対に乗りません。怖いです」
「賢明な判断です。そうであってほしい、という私の願望も入っていますが……。以上が車で送らなかった事の顛末です」
 車が、私のいつも降りる駅で停まる。走っている時に伝えていたのだ。
「この駅ですね? ここからは曲がる手前で言ってください」
「えっと……そこの商店街抜けてすぐの角を右折したら、ずっとまっすぐ走ってくれたらいいです」
「わかりました」
 駅から説明しやすいところに家を建てた父にこっそりと感謝する。ふだん私の通る道は、自転車がようやく通れるような細い道ばかりだから、車で家まで、となると説明しにくい。
 普通に買い物で来る商店街を、好きな人の車から眺める。奇妙な違和感。小さい頃から通ってる場所が全く違う場所に思える。
「あ、ここでいいです」
 私の家から数軒前で、彼に声をかけた。
 家の前で停車音などさせたら、家族に聞かれてしまうだろう。誰に送ってもらったのか、と。
 この場所は、道幅が広いので車も停めやすいと思った。
「家はどこですか?」
 ドアを開けて降りようとした私の腕を彼がつかむ。
「歩いてすぐ、ですから」
「もう少し、降りるのを待ってもらえませんか? まだ言わなければならないことがあります」
 開けたドアを閉める。
 運転席と助手席の窓を半分ほど開け、彼がエンジンをとめた。流れていた音楽もとまり、車内を一気に静けさが包み込む。
「忙しくなったから会えないと言いました」
「聞きました」
「これまでのようには会えません」
「それも聞きました」
 私の腕をつかんだままの彼の手に少し力が込められる。前を見て、淡々と答えていた私は、反射的に彼を見た。
 彼も私を見つめていた。
「……離してくれませんか?」
「ですが、あなたの家の場所を覚えておけば、仕事の帰り、少しの時間でも寄ることができます」
 もう片方の手で、彼の指を腕から無理やりはがす。
「援助交際の相手を入れるほど、私も、家族も甘くないです。もう会えない。それだけで十分わかりました」
 無理やり離れさせたにも関わらず、彼はまた私の腕をつかまえてきた。
 嫌だと伝わるよう、強く腕を振る。
 だけど、強く振れば振るほど、彼の手にさらに力が入る。
「では、恋人、ならどうです? ご家族に挨拶もしましょう」
「意味がわかりません。そこまでして、家に入りたいんですか?」
 彼の手が腕から離れた。
 つかまれていた場所が熱い。暗くて見えないけど、指の跡もついているだろう。
 彼はゆっくりと首を振った。
「家に入りたいのではない。少しの時間でも、あなたに会いたい」
「なに……それ……」
 勝手なことを、と続けられなかった。
「これが、私の答えです」
 彼の答えは、はっきりと本人の口から提示された。
「答え合わせ……覚えてたんです、ね」
「仕事をしながら悩む、というのも大変でしたが」
 笑う彼につられて、私も口もとを緩ませる。
「疲れますよね」
「あなたの答えは……」
「わかりませんか?」
「その言葉で、はっきりとわかりました」
 彼がエンジンをかけたので、また車内に音楽が流れる。もう、私ががんばって曲を覚える必要もない。
「家までお送りしましょう」
 私は前方を指す。
「あの赤い車の停まってる家の隣です」
「家の前で停まったら不都合なのでは?」
「……家族に聞かれるだけです。誰に送ってもらったって」
「挨拶しますから、大丈夫でしょう」
 さらりと簡単に言ってのける彼に向かって、手だけでは足りないから、首も振って、お断りをアピールする。
「い、いいです。今日はいいです。いきなり言ったら驚かれます」
「では、またの機会に」
「そう、してください」
 いろんな汗を一気に流してしまった私は、思わぬ事態が避けられたことに安堵する。
 夜はお父さんもいる。せめて私の口から彼氏がいることは言っておきたい。
 そんな私を見て、
「答えは会う前に伝えていたのですが……」
 呆れたようなため息と共に彼が呟いた。
「え、会う前、ですか? 今日ですか?」
「メールを送りました。会社のパソコンからではなく、私の携帯電話から。援助交際だけの相手にメールアドレスを教えるようなことはしません。プライベートを明かすような真似は避けます」
 私の頭に、彼のメールを保護した記憶がよみがえる。
 確かに今日まで一度もメールなんてもらったことがない。彼の携帯電話の番号どころか、会社の電話番号もメールアドレスも知らないのだ。
 メールをもらったことに気をとられて、そこは全く気づかなかった。
「……わかりにくいですよ」
 車が止まったので、助手席のドアを開け、降りた私は運転席を振り返る。
「私がバカなわけじゃなくて、気づかなくて当たり前」
「運転席側に回ってきてくれませんか?」
 せっかく言い返したのに、彼は全く聞いていない。
 かすかに怒りつつ、助手席のドアを閉め、言われた通りに運転席のドアの前に移動する私も私。
 窓が全部開けられ、彼の腕が手招きする。
 顔を近づけると、彼の手がうなじに添えられたので、キスされるものだと予測した私は、慣れないながらも目を閉じた。
 しばらく待ったけど、唇に何かが触れない。うなじに添えられた手も離れてしまった。
「間に合いました」
 情けないながら、私は目を開ける。
「何が?」
「私の理性です。簡単に奪ってはいけないものを奪うところでした」
「いいと思ったから、私は」
 初めてながらも目を閉じたのだ。好きな人が相手なら不満もない。
「私が大切にしたいのです。あなたの初めては全て」
「初めてって勝手に決めないでください」
「九割以上の確率で初めてだと推測しますが?」
「……正解ですけど」
 しぶしぶ認めた私を見て、彼が微笑む。
 取り出した名刺に数字を書いて、私へと差し出す。
「仕事が終わったらメールします。よければ電話をください。寝ていたり、勉強している時は無視してくれてかまいません」
 名刺に書かれているのは彼の携帯の電話番号。
 気持ちが通い合ったばかりだというのに、メールを無視しろと言う彼につめよる。
「無視なんて絶対にしません。なんてこと言うんですか」
「仕事が終わるのは遅い。あなたの睡眠を邪魔するつもりも、勉強を中断させる気もありません」
「ちゃんと両立させますから、大丈夫です」
「では、さっきの言葉は撤回しましょう」
「私も会いたいんですから。それ、覚えててください」
「では、今日はこれで」
 窓がゆっくりと自動で閉められていく。
 言いたいことを思いついた私は、閉まっていく窓に指をこじ入れた。
「メール、していいですか?」
「ことわる必要はないと思いますが?」
「あ、そう、ですね」
 付き合ってるんだから、と頭の中で付け加えてしまった私は調子いいのかもしれない。
 車から離れ、私は手を振った。
 彼が片手をあげてそれに応える。
 車が走り出し、赤いランプはどんどん遠ざかっていった。
 振った手をしばらく下ろせなかった。
 じっと、今日のことを振り返る。
「うっわ……やったぁ」
 誰もいない道で呟き、じんわりと頬を緩ませ、両手で火照る頬を覆う。


 私が帰宅したのは、結局、それから十分も後のことだった。


 ◇終◇
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