8.初めて本音を言ったのに
 彼が多忙だということを承知で付き合い始めて一週間。
 実は今晩、付き合って初めて会う。彼がいつもより少しだけ早く帰れそうだ、とメールしてきたのだ。

『今から出ます』

 彼が会社を出てから、家に来るまで二十分ほどかかるけど、私は待ちきれず、家の前でじっと座っている。夜の十時だから、来訪者も居ない。
 車の走行音が近づいてきた。車種を確認する。街灯の明かりで運転手の顔が一瞬だけ見えた。彼に間違いない。
 でも、車は私の家の前を通過する。
 思わず玄関から出て、車の後を目で追った。
 車が数軒先の家の前で止まる。
 あそこのお姉さんと小さい頃によく遊んだな、と思い出していたら、彼の車の助手席からスーツを着たそのお姉さんが出てきた。
 彼の車は走り出し、見送るようにお姉さんが手を振っている。
 やがて、お姉さんは家の中へ入っていった。
 私も、漠然としたショックを受けながら、家の中へと入る。
 お姉さんに嫉妬したわけではない。夜も遅いから、車の彼に送ってもらうのは当たり前なのだろう。仕事仲間だということも、さっきの様子を見ていればわかる。
 ただ、そういうことも彼の日常では当たり前なんだな、と思うと、自分が置いてきぼりにされた気分になった。
 車に乗った彼とお姉さん、それを見つめる私の間には、社会人と女子高生の境界線が確かにあった。援助交際として彼と会っていた時から、それはいつも感じていたのに、なぜ付き合い始めたとたん、いつもより過敏になってしまうのだろう。
 バイブ設定にしてある携帯電話が震え、彼からの着信を知らせる。
「もしもし?」
『今、家の前です』
 会えると舞い上がっていた私に、あの現実をつきつけた彼の声は少し憎らしく感じた。
「会えません」
『どういうこと、ですか?』
「……なんて、家の前で見られてるんですよね。居るのだってわかってますよね」
『さきほどは、同僚の女性を送っていっただけで、特にそれ以外のことは……』
「わかってます。そこまで物わかり悪くないですから。……ちょっと待ってください。今、出ます」
 彼の言葉を途中で遮り、私は電話を切った。
 あそこで説明を受けなければいけないほど私も子供ではない。彼は私をそんな女だと思っているのだろうか。少し、悲しくなる。
 ドアを開けると、車を出て彼が立っていた。久しぶりに見る彼の姿に、思わず抱きつきたくなる。
 私の不機嫌を知ってか知らずか、彼が優しく微笑んだ。
「久しぶり……といっても一週間程度のことなのですが、お待たせしてすみませんでした」
「……さっきも待ってました」
「時間が時間です。車の中で……」
 彼が運転席へ座ったので、私も助手席に乗り込む。車のエンジンは切られているので、車内は静かだ。
「さきほどの同僚を送ったのは初めてなのですが、家の場所を聞いて驚きました。まさか、あなたの近所だとは……」
「小さい頃、よく遊んでました。あいかわらず綺麗だし、優しいお姉さんです」
 私は、不機嫌を隠せるほど、大人でもなかったらしい。声にかすかな怒りをのせずにはいられなかった。
 しばらく黙っていた彼は、私の顔を覗き込む。
「不機嫌の理由は、彼女、ですか?」
「そういうわけじゃ、ありません。なんとなく、気分が悪いだけです」
「笑ってほしいのですが」
「車がうちの前を通るまでは、会えるのが楽しみで笑ってました」
「でも、今は笑えない、と。よければ理由を話してくれませんか?」
 わけのわからないことで不機嫌になってる子供の私に、それでも優しく微笑みかけてくれる大人の彼。
 こんな顔させるはずではなかったのに。もっと笑って会えることを喜べたはずなのに。未熟な自分に腹が立ち、同時に彼と付き合い続けることに自信がなくなっていく。
「私は……女子高生で、子供、なんです」
「子供だと思ったことはありません」
 彼が、即座に強く否定してくれる。
「お姉さんが同僚で、夜も遅いし、会社から家まで送るのは当たり前だと思います。それを一人で帰すような人だとは思ってません。でも……なんとなく、それが嫌なんです。さっきまでお姉さんが座ってたここに座るのも、車の中にかすかに香水の匂いがするのも。ただの同僚ってわかってるんです。わかってるんですけど、わからないんです」
 話しているうちに泣きそうになったので、膝の上でぎゅっと手を握り締めた。
 そんな私の手を、彼の手優しく包む。
「……わかりました。でも、私はあなたの友人関係を問い詰めたり、あれこれと言う気はありません。友人に男がいても、それは普通のことだと思っています。同じく、会社に女性がいてもそれはおかしいことではありません。あなたがクラスの男子を友人だと言うように、彼女は私にとって仕事仲間なのです。そこは理解してほしい」
「してる、つもり、です」
 理解しているならこんなわがままを言わないだろう、と自分の言葉に内心で責める。
 言葉が途切れてしまったのは、わがままを言っておきながら、大人のふりをしようとする私の意地のせい。
 でも、彼には見抜かれている。それもわかっている。
「私は、あなたのそういうところがかわいいと思いますし、好きですが、年齢の差を認めていかないと、おそらく私たちは……付き合っていけないでしょう」
「だから……ああいうこともある、ということも認めないといけない?」
「そういうことに、なります。出来る限りあなたの意に添うつもりですが」
「認められなかったら、別れるんですか?」
 私の手を包んでいる彼の手が、言った瞬間、びくりと震えた。
「あなたを苦しめてしまうのなら、その方法も……しかたありません。本当に、好き、ですから」
「私も、好きなんです。でも、嫌なんです。……わがまま言ってごめんなさい」
 私のほうが苦しいつもりだったのに、今では彼のほうが何かをかみ締めるような顔をしている。
 そんな彼を見ていられず、私はうつむいた。
 彼はじっと黙っている。私もいろんな思いが頭の中に渦巻いて、何を言葉にすればいいのか見当たらない。
 強く、私の手が握られる。
 彼が何かを決意したのだろう。
「……距離を、時間を、おきませんか? このままではどちらかが衝動で別れを切り出しかねません。それだけは避けたいのですが、私も少し時間が欲しい」
 うつむきながら、私もうなずいた。
「私も、です」
 彼の手が、離れる。
 自分の手を開いてみると、じっとりと汗ばんでいた。
「二週間後、連絡します。それまでお互いに考えておきましょう。……いいですか?」
 彼の口調からは、もう苦しさは見られない。
 私はまだ彼の顔を直視できなかった。
「わかり、ました」
 私はそのまま彼の顔を見ずに、ドアへと手をかける。
「ちょっと待ってください。少し、頭をお借りしていいですか?」
「頭?」
 問い返すと共に彼の顔を見ると、照れくさそうに笑っていた。
「ずっと、我慢していたのです。頭と時間を少々お借りしたい」
「……どうぞ?」
 髪に何かついていたのだろうか。
 彼の意図はわからないけど、とにかく私は頭を差し出した。この姿は少し間抜けだと思いながら。
 頭がぐいっと引っ張られた。
 彼の腕が私の頭を引き寄せているらしいことがわかる。私の頭は彼の肩にのせられ、片手で抱きしめられている態勢になっている。
 やがて、引き寄せられた時と同じく、突然に頭は解放された。
「気が済みました」
 これを、彼はずっと我慢していたのだ。私が彼に抱きつきたいのを我慢していたように。
 いきなりふってきた幸せな行為に、私は距離を置こうという案を拒否しようと思った。でも、彼が時間を欲しがっていたことを思い出す。
 子供だけど、わがままは少し控えなければならない。そう思った私は、彼への未練を振り切るようにドアを開けて外へ出る。
「おやすみなさい」
 笑ってドアを閉め、彼へと手を振った。
 さっきのお姉さんの行動を真似て、大人のふりをアピールする。
 何も言わず、彼は車のエンジンをかけ、軽い会釈をして、車を発進させた。
 しばらく見送って、
「二週間、か……」
 思わず呟く。
 彼に考える時間をあげたいし、私も二週間考えるつもりはある。でも、長い一週間を経験しただけに、二週間を耐えられる自信がない。
「大人にならないと、ね」
 携帯を開き、今まで彼から送られてきたメールを見る。全部、保護にしているのだ。
 閉じて家に入ろうとしたとたん、携帯が震えた。

『笑顔、よかったです』

 あいかわらず、彼からの短文メール。
 ドアを閉める際に笑ったことを思い出す。

『大人に向けて精進いたします』

 それだけ送信して、私は携帯を閉じた。


 ◇終◇
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