9.裏切り者
 彼と会わなくなって、電話もメールもしなくなって、まだ三日しか経っていないけど、私にとって長すぎる時間に早くも限界を感じ始めていた。
 今日まで、自分があの日に言ったことを振り返っては悔やみ、泣いた。私があんなことさえ言わなければ、子供っぽさを見せなければ、彼と時間を置くこともなかっただろう。今の状況を作り出した原因は自分にあるのが、ただただ悔しかった。
 今はその波も少し穏やかになっている。だけど、その分、今度は会いたくなった。怒っていてもいいから声が聴きたくなった。
 別れたわけではないから、携帯の電話帳に彼の電話番号もメールアドレスも残っている。通話ボタンを押せばすぐにでも彼に繋がる。
 携帯を確かめるように開いては、何もないからと放り投げる日々。
 今日もまた開いてみたけど、やっぱり彼からメールがきているはずもなく、放り投げようとした時、着信音が鳴った。
 ディスプレイには『公衆電話』の文字。
「……もしもし?」
 返事はなく、直後に、ぷつんと電話を切る音が聴こえた。後にはプープーと無機質な音が続くだけ。
 じっと聴いていても仕方がないので、疑問符を頭に並べたまま、私もボタンを押して電話を切る。
 私の声を聴いて、間違いに気づいた相手がが切った。そんなところだろう。
 記憶に残すまでもない事として、私の頭からその出来事は即座に消去された。


 それから五日間、公衆電話からの無言電話は一日一回のペースでかかってきた。
 時間に規則性がないわけではない。かかってくる時間は毎日ばらばらだけど、私が学校から帰宅している時間であることは確かだ。
 一日に何度もかかってくるわけではないので特に警戒はしていなかったけど、五日も続くと軽い恐怖が湧いてくる。
 着信履歴を全て削除しようと画面を見た時、恐怖の端っこで私の中にある考えが浮かぶ。
 この無言電話を、怖いという気持ちを理由に、彼へ電話をかけることはできないだろうか。
 こんなことが私の身に起こっているとわかれば心配してくれるかもしれない。時間を置こうといったことも忘れてくれる。
 ためらってしまわないうちに、と携帯電話を開き、彼の電話番号を呼び出し、あとは通話ボタンを押すだけ、というところで人差し指を止めてしまった。彼も時間を置きたい、と言っていたことを思い出したから。
 私が悶々としているように、彼も私との付き合いについて考えているかもしれない。忙しい仕事の合間、帰宅後、空いた時間を割いているかもしれない。私の、声を聴きたい、という理由で邪魔するわけにいかない。五日間無言電話がある、というだけで――。
 などと考えていると、例の公衆電話からの着信が入った。
「もしもし?」
 思考の邪魔をされてしまった私は、いつもより少々投げやりに応答した。すぐ切れる無言電話に丁寧な応対をするだけ無駄だというもの。
 でも、今回はいつもみたいにすぐに切れない。
 私はじっと無言の後ろから聴こえる音に集中した。犯人特定の糸口になるかもしれない。
 しばらくは人の話し声などの雑音しか聴こえなかったけど、ふいに小さな音楽が流れてきた。聞き覚えのあるその音は、とある電気屋のテーマソングで、もうすぐ店名が歌われる箇所に入る。
 あと少し……。
 そこで、ブツンと電話は切られた。
 相手も後ろに流れる歌に気づいたのだろうか。店名が流れる直前でタイミングよく切られてしまった。
「……まさか、ね?」
 あのテーマソングが私の耳に馴染んでいるのも当たり前。彼を待っている時によく聴こえていた。覚えやすいフレーズになっているから、店名を聴かなくても歌えるほどだ。
 ただ、その電気屋はあちこちに何軒もあるほど有名ではなかった。彼の会社の近くにある一軒しか、今のところ私は知らない。
 無言電話の相手は、彼、だろうか。
 現実的に考えれば確定はできないけど、私の気持ちは、彼であってほしいと望んでいた。
 毎日、私の帰宅後にかかってくる電話、後ろに流れていた電気屋のテーマソング、彼の会社の近くにしかないであろう、その電気屋。
 もう、無言電話に対する恐怖は消えていた。
 しばらく思考の波を泳いでいた私は、やがて、開いたままだった携帯を勢いよく閉じる。
 明日、彼の会社近くのファーストフード店から、あの電気屋を見張り、付近に公衆電話があるか確かめれることに決めた。


 学校までの定期券を使っての途中下車。一時期は彼を待つために何度も下りた懐かしい駅。
 今のところ、あの無言電話はまだ無い。
 彼に出会ってしまうとまずいので、私は足早に電気屋の見えるファーストフード店へ入った。
 フライドポテトとジュースを買って、窓際の席へ座る。
 電気屋の前にある公衆電話が肉眼で確認できた。
 ポテトをゆっくり食べ、時々ジュースを飲みながらも、外を睨むように見ている私は、さぞかし怪しい人物に見えるだろう。
 携帯電話が普及している昨今、公衆電話を利用する人すら皆無に等しい。現に今も、まだ誰も公衆電話を使っていないし、近づく人すらいない。
 長期戦になることは必須なので、トイレに行くはめにならないよう、ジュースを飲むペースを少し落とす。
 Lサイズのポテトはほとんどなくなり、ジュースも氷が溶けて薄くなった頃、公衆電話に一人の女性が近づいてきた。受話器を耳にあてている。
 直後、私の携帯が鳴った。
「もしもし」
 公衆電話前の女性が受話器を置いたと同時に、電話は切れた。
 ――間違いない。
 私はテーブルの上のゴミもそのままに、店を飛び出した。


 スーツを着たその女性に、私はなんとか追いつくことができた。
 袖をつかんで振り向かせた瞬間、私は思わず声をあげる。
「あなた……もしかして……」
 女性の正体は、私の近所のお姉さんだった。
 彼女も私を見て驚いている。
「む、無言電話。さっき……」
 息が切れてしまって、うまく喋れない。
 でも、お姉さんは諦めたように笑って、小さく頷いた。
「かけてくれ、ってね。頼まれてたのよ。誰にってのは言わなくてもわかると思うけど……私の後輩で、あなたの彼氏の男に」
「どうして?」
「約束だから自分は電話できない。でも、気になるから。……って聞いたけど? だいたいね、もしもしの一言でどういう調子か伝えるのって、ものすっごく難しいのよ。その分、書類関係は彼に回させてもらってるけど」
「あ、ありがとうございます」
 スーツを着ているせいか、知らない女性と話しているような気分になり、思わず頭を下げてしまった。
 お姉さんは、そんな私を見ておもしろそうに笑っている。
「上司に用事を頼むなんて、あいつもたいした男よ。まあ、私は休憩時間が自由にとれるから、こうして外にも出られるってわけ。彼の休憩時間じゃ難しいでしょうね」
 普段、私に大人の余裕を見せつけている彼だけど、上司であるお姉さんに言わせれば『あいつ』になってしまうらしい。尻に敷かれているのだろうか。
 想像して笑った私に、お姉さんは、あっ、と何かを思い出したように話し始める。
「あなたにここがバレたのって、あそこの歌でしょ?」
 例のテーマソングが流れる店を、お姉さんが指す。
「はい。昨日、後ろからあれが聴こえてきて……」
 やっぱり、とお姉さんはため息混じりに呟いた。
「言っておくけど、昨日の失態は私じゃないのよ。昨日だけは彼が電話したんだけど、なかなか切らないから慌てて私が受話器を置いたの。後ろで歌も流れ始めたから絶対にバレると思ってね」
「は、はあ。それはご迷惑をおかけしてしまって……」
 また頭を下げようと思ったけど、お姉さんが顔を近づけてきたので、おもわず後ずさる。
「あなたって、頭は良さそうなのに、変なところでおもしろいわね。……別に私はご迷惑だとも何とも思ってないのよ。あいつから恋愛関係の話が聞けて、むしろ楽しかったわ。だから、気にしないで。とりあえず、とっとと仲直りすれば?」
「で、でも、時間を置くって約束したし……」
「私の見たところ、あいつはもう限界っぽいわね。私をつきとめたってことは、たぶんあなたも限界。先に約束破ったのあっちじゃない? 時間を置くって決めたのに私に電話かけさせたわけだし」
 お姉さんが彼の上司だということに、今さらながらおおいに納得できた。
 スーツ姿で、ぽんぽんと言葉を吐き出すお姉さんは、反論の余地を与えない。仕事でも発揮されているのだろう。
 これを身に付ければ私でも彼を尻に敷くことができるだろうか、とくだらない考えも頭をよぎる。
腕時計を見たお姉さんは、ふいに、よし、と私の肩を叩く。
「私ね、じれったいのすごく苦手。ぱぱっと何事も決めたい人なの、わかる? 今晩、あいつ早めに終わらせてあげるから、とにかく、会いなさい。一人で考える時間は終わり」
 ね、と何度も肩を叩くお姉さんの迫力に押されるように、私は無意識にうなずいていた。
 そこから、お姉さんの手腕が発揮される。待ち合わせ場所、時間、彼への連絡、などが手際よくお姉さんによって決められていく。
「今から社に戻って……二十分後には待ち合わせ場所に着くと思う。待たせるな、ってちゃんと言っておいてあげるから」
 私の背中をポンと叩いて、会社へ向かおうとしたお姉さんは、あっ、と振り向く。
「仲介してあげるの、今回が最後だからね。……私、本当はこういうの苦手なのよ」
 そして、軽やかに手を振りながら、スーツ姿の彼女は、颯爽と歩いていった。


 ◇続◇
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