後部席に大きなバッグが二つ乗っている。運転しているのは彼で、助手席に乗っているのは私だ。
平日ということもあり、高速道路は渋滞もなく快調に走っている。車内にも音楽が流れ、雰囲気は悪くない。
でも、私の視線はひたすら外へ釘付けになっていた。
旅行だと彼と長く一緒にいることになる。色々と考えると緊張してしまい、何も話すことが思い浮かばない。これで大丈夫だろうか、と沈黙が不安に余計な拍車をかける。
「眠いのなら無理をしなくていいですよ」
音楽のボリュームを下げた彼が視線を前に向けたまま私へと言ってくれる。
瞼ではなく、今は沈黙が重い。
「大丈夫、です」
「早朝の出発ですから、眠いと思うのですが?」
「本当に大丈夫です。昨日も遅くまで仕事だったんだから……眠くなったら休憩してください」
「ありがとう」
「いえ……」
会話が、終わってしまった。彼のほうへ向けた視線のやり場に困る。
目的地の地名まであと五十分、と高速道路上の電光掲示板に表示されている。
まだ五十分もあるのか、と知らずため息が出てしまった。
「そろそろ、城が見えてきませんか?」
突然の声に驚いて、窓の外にある城を探す。山の上方に見えた。
「あ、ありました」
「学生の頃、城に詳しい友人に連れて行かれたことがあるのです。あの城の石垣は特別な積み方をされているらしい」
「へえ、石垣に特別だとかあるんですね」
遠方の小さな城を見ながら、学生時代の彼と見知らぬ友人を想像した。
「同じです」
「何が、ですか?」
「友人に返した私の言葉と。その後に何がどう特別なのかを説かれて辟易しました」
「聞いてみたいです」
「あまり、お薦めはしませんが」
当時を思い出したのか、彼が苦笑いを浮かべる。学生時代もこんな顔を友達に見せていたのだろうか。
「同じ気分、味わってみたいし……」
走行音にまぎれるほどの小声で呟いてみた。
そう――同じ気分を味わってみたい。
「いずれ、私の友人にも紹介します」
「女の人にも、きちんと言ってください」
これは、彼に女の人が寄り付くのを防ぐための策。
彼も見抜いてくれたらしい。くすりと笑った。
「なるほど。大事なことですね」
「すごく、大事なことです」
あんなに目のやり場に困っていたのに、自然と彼のほうを向いて話している。無理に話すことを探さなくていいのだ、と今さらながらに気づいた。
満たされたお腹を抱えて部屋へ戻ると、わずかな異変が起きていた。
布団がふすまを挟んで別の部屋へとそれぞれ敷かれていたのだ。
「あれ? おかしくない、ですか?」
恋人が泊まる部屋だからといって布団を並べて敷かなければいけない、ということはない。これでは、家族だとしてもおかしくはないだろうか。
「私が頼んだ通りです」
「たのんだ?」
私の横を通り過ぎ、彼は窓際のいすへと座る。カーテンを少し開けて、窓の外へ目を向けた。
「あなたに手を出してしまわないように」
彼の向かい側へと座る。
「……出しても、いいじゃないですか」
付き合ってるんだから、と内心で続ける。
「ご両親に約束しましたから、破るわけにはいきません」
そうなのだ。受験前に二人で旅行に行く許可をもらえたのは、ひとえに両親の彼への信用と説得力にある。
高校を卒業するまで体を重ねない、というのが約束事。今のところ、破られたことはない。
手を出してほしい、と思っているわけではないけど、旅行とくれば何かを期待してもいいと思う。
「言わなければ……」
「言わない、だけで済むとは思えません」
小学生のような私の提案はすっぱりと否定されてしまった。
「言わなければわかりません」
外を見ていた彼の視線が私へと向く。
「本当に態度に出ませんか?」
目を合わせて肯定するほどの自信がない。経験したこともないのに、態度に出るかどうかなんてわかるわけがない。
目をそらした。降参。
「態度に出る、と思います」
かすかに笑む声が聞こえてくる。
「あなたを育ててきたご両親の目がごまかせるとは思えない。特にお母さんの目は私でさえも見透かされるようでした」
年上の男性ということで、女子高生を弄んでいるんじゃないか、と疑っていた母を思い出した。彼の本性を見破る、と意気込んでいた。
「せっかく信じてもらったし」
「ここまできて、裏切りたくはありません」
「賛成、です」
さて、と言って彼が立ち上がる。
「ロビーで新聞を読んできます」
晩ご飯の後に通ったロビーには、新聞を広げているおじさんがたくさんいた。
「おじさんがいっぱいいるのに?」
なぜか、そう言ってしまっていた。
彼は苦笑いを浮かべて、歩きかけた足を止める。
「私も、おじさん、ですが……」
「おじさんだったら好きになりません」
「……あなたはどうしますか?」
私に新聞を読む習慣は全くない。一緒に行きたいけど、つまらない顔をした女が隣にいては彼の邪魔になるだろう。
「私は、ゆっくりしてます」
「すぐ、戻ってきます」
重厚なドアが閉まる。
ふわふわの白い布団の上に大の字で寝転がった。浴衣の裾が広がるけど彼はいないから気にしない。
首を下に向けて、ふと胸の谷間を覗いた。
「手を出してもいいのに……」
ごろりと転がってうつぶせになり、彼の大きな黒いバッグを見つめる。
四つん這いで近寄り、バッグへと顔を埋めた。彼の匂いが鼻いっぱいに広がる。
「かわいい下着、選んできたし、さ」
気が抜けて、ドッと眠気が襲ってきた。ここで眠っては間抜けすぎる。でも、彼の匂いから逃れられない。
「これじゃあ、変態だって……」
ふふっ、と乾いた笑いが部屋に響く。
起き上がろうと手をついたところで、私の意識は遠くへと離れていった。
瞼を開いたはずなのに、目を動かした先には黒いものしかない。
起き上がると、彼が部屋の隅に寄せられたテーブルで文庫本を広げ、湯呑み片手にこちらを見た。
「何時、ですか?」
寝てしまったことはわかった。そして、どれくらいの時間寝ていたのか知りたかった。
「十時半です」
彼は素っ気なく言って、文庫本へと目を戻した。
見下ろすと、胸元に浴衣とは違う色が見えている。
「う、わっ」
浴衣が少しはだけていたのだ。慌てて襟と裾を直す。
「ご、ごめんなさい」
文庫本を閉じ、彼は微笑んだ。
「それだけ疲れている、ということです。もう、寝ましょう。洗面所はあなたが先にどうぞ」
寝てしまった身では何も言えない。彼に言われるままに洗面所で歯磨きを済ませ、化粧水をなじませる。
彼の歯磨きなどが終わるまでの間、じっと私は正座で座っていた。あることを彼に言うために――。
「私はあっちで寝ますから、あなたはこちらで」
洗面所から戻ってきた彼が、最低限の明かりだけを残し、襖で隔てられた向こうへ行こうとしている。
「布団を並べて寝ませんか?」
「それは……できません」
私は立ち上がって、襖を開けて彼の分の布団を抱きかかえた。無理やり運ぼうと思ったのだ。
前も足元もろくに見えなかったせいか、敷居につまずいて布団ごと倒れてしまった。
布団に顔を伏せると、一人で待っていたあの時のようで寂しくなる。畳にこすってしまった腕が痛い。
「旅行なんだから、手を出してしまってもいいじゃないですか。私だって……かわいい下着とか持ってきたのに」
後ろから、布団と共に彼に起こされる。
腕から布団を奪われたけど、枕だけは譲らなかった。泣いてしまいそうなのを我慢するために、しがみつくものが必要だった。
「旅行だから手を出しても仕方がない。それがあなたの年齢の流儀かもしれません。ですが、あの約束をご両親に持ちかけたのは私です。私が破っては意味が無い」
「一緒に寝るのも?」
「いいでしょう。私が我慢します」
私から奪った布団を並べて敷き、彼は一方の布団へ入る。
「枕を返してください」
彼の頭の下へ枕を戻し、私は隣の布団へと入る。
隣を見れば、彼の顔が近くにある。
「手を……つないで」
布団から出した手を彼へと近づける。
隣の布団から出てきた何かが力強く私の手を握った。
「なんだか、満足、しました。眠れそう」
手をつないでいるだけなのに、体中を包まれているような充足感で満たされる。自然と笑みが漏れた。
「私の忍耐を試しているのですか?」
天井を見て、彼は困り果てたような息を吐いた。
「我慢するのって難しいですか?」
「伝わってくる感触を振り払うことに専念しないといけない」
なんだか、大変そうだ。
「離したほうがいい?」
握られた手は解放されそうにない。
「眠れば自然と離れます」
「そうですね。……じゃ、おやすみなさい」
手の温もりと逞しさが、私の中に安堵と睡魔を呼び起こした。瞼を閉じる。
彼の手がわずかに動いた。何かが顔の上を覆っている。
唇に――触れた。
温かいものが離れ、しばらくの後、目を開けた私は隣を見た。
「おやすみなさい」
何もなかったような顔で瞼を閉じ、彼は静かに言った。
「我慢、できなかったんですか?」
聞いてみたけど、彼からの返事は無い。
寝たふりをしているのは明らかなので、今度は私から顔を近づけた。
彼の瞼が開く。
「これ以上は……やめなさい」
しばらく見合ったけど、睨むような彼の目は冗談ではないようだ。
「……はい」
枕へと頭を戻そうとした私の頬をそっと撫で、
「いい子ですね」
彼はつぶやいた。
「それは、反則、です」
私は枕へと頭を押し付けた。もう二度とここから離れないように。
長い夜――私も我慢をすることになってしまった。
◇終◇
読んでくださってありがとうございました
感想などありましたら
[感想送信フォーム(別窓)]から聞かせてください。
今後の創作の励みにさせていただきます。