10.愛に殉じる
 彼と付き合う前、いろんな想いを抱えて待った、このカフェ。
 あの頃望んでいた彼とのお付き合いは叶ったというのに、今は付き合うだけでは物足りなくなっている。
 そして、あの日、無意識に大きくなっていた望みに気づかず、だた、嫌悪感だけで彼に言葉を吐きつけた。
 私でさえも気づかなかった想いを、彼に察してもらおうということに無理があったのだ。彼は大人だからこそわかることもあれば、それゆえにわからないことだってある。
 あんな風にぶつける前に、きちんと冷静になって、気持ちを話せばよかった。
 とにかく、彼が来たら謝ろう、とじっと膝に手を置いて彼の到着を待った。
 もうすぐ、お姉さんの言った『二十分後』になる。
 小さな音と共に、入り口のドアが開く。
 ゆっくりと入ってきたのはスーツ姿の彼。
 ドアを閉めた彼は、近づいてくる店員さんを手で制し、私を見つけて足を止めた。
 つかの間、互いに無表情で見つめ合う。
 彼が再び足を動かそうとした瞬間、引き返してしまうのではないか、と全身を不安が包んだ。でも、彼はそのまま、私の座ってる席へと近づいてくる。
 彼が目の前に座ると同時に、私は手を添えていたスカートを強く握る。会えた嬉しさを緊張が越えてしまったのだ。
「久しぶりですね。……と言っても一週間ほどしか経っていないのですが」
 彼の声が発せられた瞬間、自身の予想以上に心臓に響き、思わず悲鳴をあげてしまいそうになる私がいた。
 さらに、強くスカートを握る。
「お久しぶり、です」
 付き合う前よりも、他人行儀で呟くような声しか出せない。それでも、私には精一杯の挨拶だ。
 直後、彼が手を伸ばすので、私の全身に緊張が走る。ぴくり、となってしまったので、彼にも気づかれただろう。
 彼はテーブルの横にたててあるメニューに手を伸ばしただけだった。
「何も、しませんから」
 開いたメニューから視線をはずさず、彼はぽつりと言う。表情に変化はない。
 叩くわけでもないのに、私は何を恐れてしまったのだろう。
「ごめん、なさい」
「フェミニストではありませんが、女性に手を上げるようなことはしません。……何か食べませんか? そんなに緊張されると私も話しづらい」
 メニューを私に向けて差し出した彼は、期間限定と書かれたケーキを指して微笑む。
 強く握り締めていたせいで、痺れ始めていた手をゆっくりと開く。じっとりと汗ばんでいる手をテーブルの上には出せない。
「期間限定、二つあるんですね」
「半分ずつ、食べましょう。こういうものは、食べられる時に食べておいたほうがいい」
「ケーキ、苦手じゃないんですか?」
「あなたがおいしそうに食べていたので、実は気になっていたのです」
 ケーキ好きな私にはわからないけど、彼は恥ずかしかったのか、私の返事も聞かず、店員さんを呼び注文を終える。私が一言も口にしてないミルクティーも、そつなく一緒に頼んでくれた。
 注文を終えた彼は、メニューを戻す。たったそれだけでも、やはり私の体はぴくりと震えた。彼が素早く手を引っ込める。
「私が怒るようなことを、あなたは何もしていません。むしろ、私が怒られるべきです」
「え、どうして?」
 思わず、顔を上げると、怖がらせないためか、彼が優しく微笑んでいた。
「時間をおく、と言ったのに、耐えられずに電話をかけたのは私です。しかも、他人に頼むという方法で」
「それは……仕事が忙しかったから?」
 彼が笑みをおさめて、首を横に振る。
「いずれ、あなたがかけてくると思ったのです。不審な電話がある、と。怖がるであろうことも、半分わかっていました」
「それって……」
「ええ、騙していたのです。卑怯な方法で」
 違う。私が言葉を切ってしまったのは、怒りからではなく、同じだ、と思ったからだった。私もその『不審な電話』を口実にしようと思っていたのだから。
 静かになったテーブルへ、店員さんが注文の品を並べていく。
 沈黙を打破すべく、フォークを取り、ケーキへと手を伸ばした。なんという偶然か、彼も同じタイミングでケーキへと手を伸ばす。
 先に引っ込めたのは私。そんな私を見て、困惑した表情を浮かべながら、彼も手を引いた。
 彼は、今、罪悪に包まれているのだろう。いつも余裕の雰囲気を醸し出している彼が、私の行動で困るのを見ているのは辛かった。
「私も、使おうと思ってました、卑怯な方法」
 彼の眉がわずかに上がる。
「不審な電話がある、って電話しようかと思ってたんです。正確には、かける寸前でした。私も利用しようと思ってたんです」
「そう、でしたか……」
 そう呟き、彼がケーキを一口食べる。
 私も、じっとしていることに耐えられず、同じようにケーキを食べる。
 二人で黙々とケーキを食べていた。
「降参です。後はどうぞ」
 二個のケーキを三分の二ほど食べた時、彼がため息と共にフォークを置いた。甘い口を清めるようにコーヒーを飲む。
「じゃあ、いただきます」
 二皿を自分の前へ引き寄せ、やっぱり私は黙々と食べ始める。早くなくなってしまわないように少しずつ。
 ケーキに集中させていた視線を上げると、こっちをじっと見ている彼と目が合う。驚きをまぎらわすため、ひたすら食べていたら、ついにケーキがなくなってしまった。
 ミルクティーでは時間稼ぎにはならない。ゆっくりと口に含み、緊張を一緒に飲み込む。
 カップをテーブルに置き、膝に両手をついて、
「ごめんなさい」
 と、謝った。
 時間を置く発端となったのは私のわがままだから、やはり私から謝らなければならない。怖くて、ケーキやミルクティーで時間稼ぎはしたけれど。
 うつむいている私の耳に、彼がコーヒーカップを置いた音が聞こえてきた。
「私も、あなたが同級生の男と二人で歩いていたら、同じようなことを言ったかもしれない。年齢の差を認めろ、と偉そうなことを言いました。私のほうこそ、申し訳なかったと思っています」
 顔を上げた。
「でも、私がわがままを言ったから」
 彼がテーブルの上に両腕を置き、少し身をのりだしてくる。
 何かの説明が始まりそうな雰囲気に、私も背筋を伸ばした。
「私たちの間には年齢や経験の差があります。それが縮まることはありません。ですが、それを認めたうえで善処はできると思うのです」
「例えば?」
「社の女性と仕事上の付き合いをなくすことはできませんし、遅くまで仕事をしていれば、送ることもあるでしょう。ただ、助手席に乗せない、ということならできます」
 思わず両手で否定した。
 前に私が言ったことを示している。
「あ、あれは、本当に勝手なわがままでした。ごめんなさい」
 振っていた片手を強く握られ、全ての動作が止まる。思わぬふいうちに頭が混乱する。
「あなたが不安で嫌な思いをするのなら、少しでもそれを取り除きたい。私を想ってのわがままなら、いくらでも受け入れましょう」
 目を見つめて言われたとたん、もうだめだ、と思った。
 彼の手を払って今すぐ逃げてしまいたい衝動にかられる。私みたいな女子高生にはもったいないくらいの、極上の口説き文句なんじゃないだろうか。
 いつもの私なら、ドラマのような甘いセリフに背筋が寒くなる、と笑うところだけど、それすらできないほど心に入り込むとは全く予想外だった。
「ありがとう、ござい……ます」
 そう呟くのがせいいっぱい。
 すっと、彼が手を離し、
「いえ、慣れないことを言いました」
 と、ほほ笑んだ。
「さて、では、私のわがままも聞いてもらえますか?」
「わがまま、ですか?」
 あなたのような大人で余裕そうな男性が?
 心にしまった問いかけだったけど、視線にのせてしまっていたらしい。
「私にも嫉妬という感情は存在します。あなたに決して悟らせはしませんが」
「それって……嫉妬した私への皮肉ですか?」
 ちょっと拗ねて見せた。こんな顔しても、彼には通用しないとわかってはいたけど。
 ほほえんだまま、彼は軽やかに頷いた。
「やはり、頭がいい」
「で、わがままって何ですか?」
 しぶしぶといった感じが出るように、語尾を伸ばして言った。
 彼の笑顔が消える。
「簡単なことです。男と二人で出かけたり、下校したりしてほしくない」
 私は強く二回うなずいた。
「それなら簡単です。だって、男子と二人で出かけたり帰ったりしたこと、今まで一度もなかったし」
「今まで通りでお願いします」
「もし、私が男子と二人で歩いている現場を目撃したら……どうします?」
 ほんの悪戯心のつもりだったのに、彼は、そうですね、と肘をつき、手の甲にあごをのせ、口角を上げて笑みを浮かべた。
「私はあなたより大人ですし、人脈もありますから、方法はいろいろとありますが、希望があればお聞きしましょう」
「い、いいです。そうならないよう、気をつけます」
「そう、願います」
 言って、さらに微笑んだ彼は、送っていきます、と伝票を取って立ち上がった。
 追いかける私の気持ちも、二人の関係も、普通へと戻っていた。


 走る車の中、助手席に座る私も、運転する彼も前を向いている。
 でも、私は言葉を発せずにいる。ある場所が気になって、話すどころではない。
 時々、ギアチェンジをするとき以外、彼の手はずっと私の手を握っている。
 走り出す前に、手を、と言われて差し出してから、私の手が膝の上に戻ってくることはなかった。
「離してほしいですか?」
 そう聞いているくせに、彼の手は私を離そうとするそぶりを見せない。
「大丈夫、です」
 赤信号で車を停めた時、横断歩道を渡る人を見ながら彼がかすれた笑いをもらす。
「外で手をつなぐなど馬鹿らしい、と思っていたのですが、今なら少し気持ちがわかります」
 横断歩道に、手をつないだカップルが何組か歩いている。
「私もバカップルって思ってたのに……。ちょっとでも離れがたいですね」
「今の発言はいけない」
 信号が変わって、彼が運転へと戻る。その時、手も離されてしまった。
 バカップルという言葉がだめだったのだろうか。それとも、どこかに彼を不快にした言葉が入っていたのか。
 離された手をゆっくり戻しながら、私は正直、泣きそうになっていた。
「あのように、かわいいことを言われては、手だけでは物足りなくなる。そして、今泣かれては、家に帰せなくなります」
「え……と、えっ?」
 彼の言葉は遠回しで、いつも理解するのに少しだけ時間がかかる。それまで私の思考の相手をするのは混乱だ。
 驚く私を、一瞬だけ見て、彼が笑った。
「嫉妬もすれば、欲情もする、ということです」
「あ、あ、それって……」
 次々と投げかけられる言葉に、理解は追いついても、気持ちが追いつかない。
「はっきり言わないといけませんか? 私の部屋に連れていって、あなたのから……」
 ため息混じりに言い始めた彼の言葉を、あわてて遮った。
「わー、わかりました。あ、わかったって言ってもそういう意味じゃなくて、ご要望に応えるのは無理なので、今日は……いや、今日だけじゃなくてしばらくは無理ということでもあり、だから」
 精一杯まくしたてる私の言葉を止めるかのように、車が少し勢いよく停められた。揺れる体で我に返る。
「着きました」
 言われて隣を見れば、彼は腕を組み、楽しそうな笑みを浮かべている。
「私には今のところ、焦って事を進める気持ちはありませんから、ご安心ください」
 そこまで言って、我慢できなくなったのか、彼は、閉じた口の間から笑いの息をもらした。
 何かを期待して焦りまくった女子高生の言葉は、余裕のある彼にはさぞかしおもしろかったことだろう。
「それに、からかって言ったわけではありません」
 からかったんですね、とまさに拗ねようとしていた私は、彼に先手をとられてしまい、恥ずかしさで居心地が悪くなったので、シートベルトを外して降りようとした。
 腕をつかまえられる。
「何ですか?」
 振り向けば、彼の顔が目の前にある。
 片手は私の腕をとり、もう片手は私の肩を抱くかのように助手席のシートへ回されている。
 この態勢は、まさか――。
 彼の目をじっと見つめたまま、頭を固定させた。
 近づきながら、彼がゆっくりと瞼を落としていく。
 やっぱり――。
 私もぎゅっと目を閉じる。
 やがて、私以外の熱を唇に感じた瞬間、体は震え、頭は真っ白になった。手をつなぐのとは、甘さも緊張も何もかもが桁違いだ。
 唇が離れ、目を開けてもなお、私はぼーっとしていた。
 彼は私の腕を離し、体も運転席に戻っている。
 唇の感触が証として残っていても、夢じゃないかと思い込みそうになる。
「これは、柑橘……レモン、ですか?」
 人差し指で自分の唇を撫でた彼は、指についた何かの匂いをかいでいる。
 彼の言葉こそが、キスをした、という事実を物語っている。
 彼がレモンと推測した香りは、私の唇についているリップが発するもの。カフェで彼が支払っている時に、すばやく塗ったものだった。
「荒れるのでリップを……」
「荒れている? 私は気にはなりませんでしたが」
 ただでさえ、どんな顔すればいいのかわからないのに、これ以上追い詰めないでほしい。キス一つに、頭も体も支配されている。会話すらままならない。
「送ってくれて、ありがとう、ございました。じゃあ、また……」
 早口で言い、逃げるようにドアを開けて外へ出る。
 直後、運転席側のドアが開き、彼も出てきた。
「後悔しているのですか?」
「逆です。なんかもう、嬉しいとか恥ずかしいとかそういうのが頭の中でわーっとなっていて……」
 悲しそうな彼の表情が一転して、
「わかりました。今はそっとしておいてくれ、ということですか」
 あのにやりとした笑みへと変わる。
「……少しずつ慣れていけばいい」
 微笑みは優しいけど、要するに、何度もキスをして慣れろ、と言っているのだ。
 会った時は冷たかったのに、今では恥ずかしくなる言葉をさらりと言ってのける。
 私みたいな女子高生ふぜいについていけるだろうか。すでに、少し降参しそうになっていたりする。
 でも、これから付き合っていくのだから、
「慣れる前に飽きなきゃいいですけどね」
 負けずに言い返した。頭はあいかわらず半分ほど混乱のさなかにいる。
 彼は、ふっと笑って車に乗り込んだ。運転席のボタンで助手席の窓を開け、
「やはり、あなたは頭がいい。あれ以上乗っていたら、部屋へ連れ帰っていたでしょう。では、おやすみなさい」
 返答できずにいる私を置いて、彼は車を走らせていった。
 彼の言ったことの意味。つまりは、あれ以上乗っていたらキスだけでは済まなかったかもしれない、というわけで。
「やだ。頭、ついてかない……」
 母に変な顔されるだろうな、と思いながら、半分ぼーっとした頭を抱え、私は玄関のドアを開ける。
 ポケットの中のリップが、少し重く感じられた。


 ◇終◇
読んでくださってありがとうございました
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