8話:赤の記憶
 組織長へ任務完了報告をマニュアル通りに済ませる。
「知っているか?」
 退室しようとする私の背に、呼び止めるわけでもなく、彼が質問を投げかける。
 答える義務はないし、無視する権利もある。
 だけど、彼から話しかけてくるのも珍しかった。
 完了報告を聞くことは彼にとって仕事。その間、長である彼が親しい口調で話すことはない。敬語と敬語のやりとりだけが続く。
 話しかけられ、さらに口調が敬語ではなかったので、思わず私は足を止めてしまった。
「何を……でしょうか?」
 振り返った私に、彼は、知らなかったのか、と悲しい表情を見せる。
「今朝、組織の女が一人殺された。君より五歳年上だったか。一時期、君の訓練教官だったこともある、あの女。……覚えているか?」
 組織の暗さを振り払うかのごとく快活な笑顔を見せていた女性の顔が、瞬時に頭によみがえる。
「まさか……。なぜ? 彼女はそう簡単に殺されるほどの腕じゃないはず」
 笑顔、銃における数々のテクニック、任務とはなんら関係のない化粧のやり方……それらを厳しく、時に楽しく教えてくれたのも彼女だった。
 長であることも忘れ、私は彼のデスクに詰め寄る。
 私をしばし見上げ、彼が嘆息と共に口を開く。
「そう、簡単に殺されるはずはない。一人であれば容易に逃げられる状況だった。一人であれば……」
「二人で遂行する任務だったの?」
「二人の仕事を一人でこなす。彼女がそれだけの腕を持っていることは承知している。彼女に与える任務は一人のものばかりだ」
 殺された彼女が私と親しくしていたことは彼も知っている。だから、私に合わせて彼も話を進めているのだろう。
 でも、遠回しはもう必要ない。早く答えを知りたい。一人になりたい。
「誰に殺された、ではないわね。彼女は何に殺されたの?」
「任務に関係する男への恋慕の情だ。殺さなければいけないはずの男を逃がそうとした。その男を狙っていたのは我々だけではなかったのだろう。結果、彼女は殺され、その男も殺された。……以上が事の顛末だ」
「……そう」
 デスクに置かれた彼の手をぼんやりと見つめる。
「今日はもう誰も来ない。泣くなら、俺は出て行こう。……いや、胸でも提供しようか? 君を包むくらいはできる」
 両手を小さく広げて、どうだ、と私の顔をのぞきこむ。
 泣く、ということさえ思いつかないほど、感情が無になっていた。悲しさも何も浮かばない。
「部屋に戻るわ。一人になりたいから……」
 退室する私の後ろから彼の小さな声。
「今日はずっとここにいる」
 返事もせず、ドアを閉めた。


 何を思い出すわけでも、何かをするわけでもなく、部屋に戻った私はじっと椅子に座っている。
 涙でも流せば、思い切り泣けば、無の空間から解放されるのだろうか。何らかの感情が戻ってくるのだろうか。
 悲しいというのは、心のどこかでわかっている。ただ、認めてしまえば、何かが壊れてしまうこともわかっていた。正体のわからないそれをなぜか私は怖れている。
 普段からろくに来客などないはずのドアが、ノックも無しに開けられた。
「いたのか」
 静かにドアを閉め、勝手に入ってくる男が一人。組織長の弟。
 私の前にあるテーブルに、おもいきり飲みかけのワインが一瓶置かれる。さらに、彼が勝手に棚から取り出したワイングラスも二つ。
「少しずつ飲んでしまいたくなるほど、うまい酒だ」
 味は保証する、とでも言いたいのだろうか。
 それぞれのグラスに、少しずつワインを注ぐ。作法も何もなく、無骨に注がれたワインは透き通る赤。
「ロゼは苦手かもしれん、と考えはしたが、あいにく俺の部屋に白はない。あいつだったら持ってるだろうが、な」
 いつもなら、私から話しかけられてようやく言葉を返す彼が、今日は自分から話しかけてくる。しかも、長い。
 黙って無視しようと思っていた私も、彼につられるように声を出してしまった。
「私がいなかったら、どうするつもりだったの?」
 驚きを見せる彼の表情。
 自分から話しかけておいて、私が話すとは思わなかった、とでも言いたいのか。
 驚きの後、かすかに吐かれた彼の息は、安堵からくる吐息とも受け取れるほど優しかった。
「これを置いていく」
 ワインを顎で示して返答する彼の口調は、いつもの調子に戻っていた。
 ワインを口に含み、少し舌で味わってから喉へ通す。
「ワインはあまり飲まないから苦手も何もないけど……確かに飲みやすいわ、これ」
「そうでなければ、持ってこない」
 ぐいっと彼もグラスを傾ける。彼の口を離れたグラスの中身は、半分ほどに減っていた。
 ワインの高級感も味も、彼の飲み方では報われそうにない。
 何をしに来たのか、と問おうとして、自分がここに座っていたことを思い出した。
「あなた、知ってる? もう、聞いた?」
 なんとなく、彼ならわかってくれる気がしたから、自然と曖昧な問いかけになる。
 うなずいた彼は、残りのワインを飲み干す。
「今朝、あいつから聞かされた」
「私も、聞かされた」
「あいつは長の癖によく喋る」
「でも、言ってることは本当のこと」
「俺にとっては、話したこともない女のことだ」
「そのほうが、いいのかもしれない、わね」
「女が死んだ。その女はお前の親しいやつだ。事実は変えられない。受け入れるしかない」
 じっと見つめる彼の目は、私が事実から逃げている、と咎めているように見える。
「今さらなことを言い聞かせに来たの? 逃げている、とでも言いたい?」
 喜怒哀楽の中で、簡単に取り出せたのは、怒り。
 彼の言っていることに間違いはない。ただ、言われなくても私の頭はきちんと起こったことを理解している。
 そして、この怒りが八つ当たりであることも、どこかでわかっている。
 先ほどは確かに咎めているように見えた彼の目だったが、今は哀しげに見える。
「耐えなくていい」
 自身でさえも正体のわからない何かが、彼の言葉で飛び出そうとしている。再び動き出そうともがいている。
「どう、いう、こ、と?」
 それを見ないことで抑えられるはずだった。
 でも、その何かの正体を彼は知っている。彼なら解放してくれる、と望む私もいた。
「哀しいなら、泣け」
 何かが心から溢れ出す。それに押されて、うまく口が開かない。
「泣け、なんて言われても……」
 今まで涙なんて出なかったのだ。今さら、そんな簡単に出るはずもない。
 じっと私を見ていた彼が、笑みだと言われないとわからないほどのかすかな笑みを浮かべた。
「必要なら貸してやる」
「何、を?」
「胸を」
「冗談、でしょ?」
「ああ、冗談だ」
 彼が立ち上がる。部屋を出て行こうとしている。
 心から溢れ出した何かが、彼を渇望している。思わず、引き止めた。
「借りるわ」
「何を、だ?」
 背を向けようとしていた彼が、不思議そうに私を見下ろしている。
 私も立ち上がる。
 それでも、目線は彼のほうが上になる。
「あなたの胸を」
 信じられないと言わんばかりの目を向けてくる彼。
「冗談だろう?」
 付き合っている男の胸を断ったくせに、弟である彼の胸を借りる。
 彼に、正気か? と問われたような気がした。
「……冗談、よ」
 自身の愚かさを嘲笑う声が出るはずだったのに、とどめていたものがふいに目から出てきた。
 私の頭が、伸ばされた手によって、彼の胸に押し付けられる。
 後頭部を強くつかむ手が、冗談だ、と離されることはない。なぜか確信できた。


 彼の服を存分に濡らしていることに気づき、ようやく私は我に返った。
 とり憑かれたように、声も出さず泣いていたような気がする。
 ゆっくりと彼から離れたものの、どう顔を合わせばいいかわからず、下を向く。黙って部屋を出て行ってほしい、と願いつつ。
「もう、いいか?」
 頭上からぽつりと声が降ってくる。
「ごめんなさい」
 素直で自分らしくない、と思いながら、顔も上げずに答えた。
「あれは置いていく。眠れなければ飲め」
「ありがとう」
 いつもは皮肉で返すところだが、彼の優しさだ、と今はすんなり受け止めることができる。
「今日のことは忘れろ。……俺も、忘れる」
 肯定の返事をすればいいだけなのに、なぜか言葉が出てこない。否定も肯定もできない。
 私の沈黙をどう受け取ったのか、彼の口調からは何の感情も読み取れない。いつものことだ。
「忘れたふりをしていれば、記憶を騙すことは意外と簡単だ。……ただ、時折、よみがえる」
 彼の口調に、寂しさが宿ったように感じた。
 まるで、経験したことがあるように聞こえる。
「記憶を騙したことがある、と言ってるみたいね。今も騙してる。蘇るものを押し込めている」
 忘れたい記憶は誰にでもある。私に詮索する権利もない。わかっていても聞きたかった。
「お前には……関係ない」
 言葉にのせられた感情が何かつかめそうだったけど、彼が押し殺しているらしく、はっきりとは見えない。
 ただ、答えたくない、と暗に言っていることはわかった。
「そう、ね。私も……忘れるわ」
 彼が無言のままに部屋を出て行った。
 彼の胸で私が泣いた痕跡は残っていない。
 忘れようと思えば忘れられる。後には何も残らない。
 だが、あの出来事が確かにこの部屋であった、と二つのグラスが語っているような気がした。
 グラスにワインを注ぎ、彼がいたことをその赤に封じて目に焼きつける。
 忘れても、また、よみがえるように――。


 ◇終◇
読んでくださってありがとうございました
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