1話:ほんの少しのいらだち
 カチャカチャと鳴る裁縫箱を手に、私は教室に向かっている。
 オレンジ色の陽が渡り廊下を照らす。
 家庭科のパジャマ作りが遅れていて今まで家庭科室で仕上げていた。数人しかいなかった中で私は一番最後。日が出てるうちに帰れるだけまだまし。
 3年の教室が並ぶ廊下にさしかかった時、どこかの教室から大きな声がした。
「だからッ、好きだからしたんだっつうの!」
 その言葉だけでも私が立ち止まる理由にはなるけど、なにより声の主が好きな人だから。
 好奇心には勝てず、裁縫箱を胸に抱え込み、ゆっくりと彼のいるであろう教室に歩いていく。キュッと音をたてたサンダルを脱いで手に持つ。
 かなり教室に近づいたけど、ボソボソと話している声ははっきりと聞こえない。彼が、誰と、どういう状況で話しているのかわからないので、むやみにのぞくわけにもいかない。
 仕方なく、入り口が開け放たれた隣りの教室に入る。見られても言い訳くらいはできると思う、たぶん。ここで待つしかない。
 判別できた声の主は坂内。一週間前に好きな人がいるからってフラれた。さっきの彼の言葉から察するに、一緒にいるのはその好きな人なんだろうな。ま、出てくれば嫌でも誰かわかる。
 ガラッと音が聞こえ、出てきた人物と目が合う。私の頭の混乱は言い訳を考える暇もないほど忙しい。
「あ……え、っと、バイバイ」
 ようやくそれだけを言った。相手──塩崎君、性別男──は、何も言わず走っていった。続いて隣りの教室から出てきた人物が私のいる教室へと入ってくる。
「あぁ〜、やっぱりな〜」
 必死に目をそらそうとする私は、かくれんぼで鬼に見つかった子供。
「残念だけど、俺、河原さんの歩いている渡り廊下見たんだよな。机見たらさ、かばん置いてあったし。でも、なかなか来ねぇなと……あ、んじゃ聞かれたな……で、河原さんどこにいるんだろ? って探そうと思ったら、なんかすぐ隣りの教室で盗み聞きしてるしぃ」
「……別に聞こえなかったし、話の内容もわかんない。入ったら悪いと思ってここで待ってたの」
「あっそ、じゃ教室入れば? もう俺、用済んだし」
「言われなくても、そうする」
 私は坂内を横切って、教室へかばんを取りにいく。少し遅れて坂内も教室に入ってきた。
「河原さん、サンダル忘れてるけど? 隣りの教室で待つのに、わざわざ足音消す必要あるわけ?」
 坂内はにやにやと笑いながら、私のサンダルを放り投げてくれる。
「ぐ・う・ぜ・ん。たまたま脱いでただけ」
 投げられたサンダルに足を通して、「バイバイ」と教室を出て行く。
 背後から、
「……マジな話。さっきのこと、みんなに言うなよ。塩崎は関係ねぇから」
さっきの笑い口調とはうって変わった坂内の声。もちろん、冗談じゃないのはわかる。
「言う気なんかなかったよ。私、そんなに信用ない? ……それとも何? 言えないようなことしてた?」
 私は後ろを振り向いて、ちょっと皮肉を返す。
 坂内の表情は怖いくらいに鋭さを帯びている。
「ああ、なるほど、気になるわけだ。女である河原さんをふって男を選んだってのがショック?」
「やっぱり男選んだんだ。ちょっと気持ち悪い。塩崎かわいそ」
 言ってはだめだ、と思いつつも、心の中のいらだちが私にひどい言葉を吐かせる。
「チッ」と坂内の舌打ちが聞こえてきたとたん、私の両肩をおさえつけられ、強引に彼の唇がかぶさってくる。長い間、ふるえながらも抵抗することなく、私は坂内の唇を受け入れていた。
 ようやく唇を離した坂内は荒い口調で言う。
「これが……これが河原さんの言う気持ち悪くねぇことなんだろ? 男が男にキスすんのは気持ち悪い。でもな、俺からすれば、今、あんたとしたキスのほうが気持ちわりぃ」
 彼は制服の袖で自身の唇をぬぐう。眼はじっと私をにらんでいる。
「だったら、やらなきゃいいじゃない。女とキスすんのが気持ち悪いなら、最初っからすんな」
坂内は顔をぐいっと近づけてくる。また、されるのかと思った。
そんな私の反応をあざ笑うように「はっ」と言って、彼は顔を戻した。
「ああ、気持ちわりぃよ、ホント。だけど、あんたうれしかっただろ?好きな男にキスされて。ほとんど抵抗しなかったじゃん」
 坂内の言うことは当たっている。私は抵抗しなかったし、今も唇をふいたりしていない。でも……。
「でも、坂内の好きな人は私じゃない。ちょっとは嬉しいと思った。けど、何もないキスなんかやっぱり嬉しくない。私のファーストキス。あんたと、こんなキス……こんな風に奪われるために大切にしてきたわけじゃない。……あんたなんかどうでもいい。勝手にホモしてろ」
 ありきたりの捨て台詞「バカ」と言い残して、私は涙が出る前に坂内に背を向けて走り出す。
 坂内にキスされて。気持ち悪がられて。いつの間にか「あんた」呼ばわりされてて。好きな人に「あんた」って言ってしまって。
 坂内の好きな人が男だってわかった。
 走り出す前に見た、坂内の傷ついたような顔がずっと頭に残ってる。
 「ごめん」って言えばよかった。


◇終◇
→「2話」
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