電話だけ
 私は週に三回、先生に電話している。電話で話す内容は他愛のないことばかりだけど、先生はいつも一時間くらいある私の話に、ただただ付き合ってくれる。長電話は好きじゃない、と言ったくせに、勝手に切ったりもしない。
 でも、男女としてのお付き合いではない。先生と両思いというわけでもないし、私が許されているのは電話することのみ。それが今のところ私に与えられた特権。
 電話代は払う、ということで先生がいつも電話をかけてきてくれる。私はただ待つだけ。長時間話せるように、お風呂も晩御飯も早めに済ませて、電話が鳴るのを待つ。
 家族は、私に彼氏でもできたのだと思い込んでいて、電話の際は子機を部屋に持って行っても、誰も何も言わない。
 ただ、今晩は違った。
「あんた、まだ起きてんの? 微熱あるんなら、さっさと寝なさい。電話はまた明日にしてもらって……。彼氏だったらそれくらいできるでしょ?」
 リビングでパジャマで待機している私に、お風呂から上がったばかりの母が注意する。他の家族はもう寝ている。母は夜遅くまで趣味に没頭していて、いつもお風呂は一番最後に入る。
「もう、下がった。元気だから夜更かしできるもん」
 嘘をついた娘に母は厳しい。
 テレビ脇のペン立てに入っている体温計をケースから出し、素早く差し出してきた。
「さっき、測ったばかりだし」
「体温計に何か不都合でもあるの?」
 測れ、と無言の圧力と共に、差し出された体温計はじっと動かない。
 渋々、私は体温計を脇に挟んだ。熱があるのは体調でわかっていたので、数字に出ないように、少しずらして挟むことも忘れない。
 母がいつものように、化粧ポーチを広げ、就寝前のお肌の手入れに入る。
 その時、電話が鳴り始めた。私は立ち上がって、電話へと走る。――と、私よりも近くにいた母が手を伸ばして電話に出た。
「はい、もしもし」
 この時間にかけてくるのは先生しかいない。母の表情と言葉を待つ。
「佐野さん? ああ、娘ね……」
 家族の取り次ぎを用心して、先生は私以外には偽名を名乗っている。それが『佐野』だった。
 娘ね、と言ったきり、母は渋い顔を見せ、私に替わる様子もない。
「今日、娘はちょっと熱が出てるから、よかったら明日に……」
 慌てて受話器を奪い取った。
「も、もしもし!」
『体調が悪いそうだな。今晩は無理せずに……』
「子機に換えるから」
 先生の話を最後まで聞かず、私は保留ボタンを押した。軽快な音楽が電話から流れ始める。
 体温計を母の前に、だん、と置き、何も言わないように、と睨む。
「しんどいのはあんただから、お母さん、もう何も言わないわよ。なるべく早く切り上げて、さっさと寝なさい」
 体温計をケースへ直す母の苦笑を見ながら、
「ごめん。おやすみなさい」
 とだけ呟いて二階の自室へ上がった。
 我が家の短い階段を駆け上がっただけなのに、息切れが予想以上に激しい。何度か深呼吸をして息を整え、子機の保留ボタンを押した。
「もしもし……」
『ん? ……ああ』
「お騒がせしました」
『体調、悪いのか?』
 熱のせいで少し思考能力は低下しているけど、ここで肯定してしまったら、先生が電話を切るであろうことは予想がつく。
「母が勝手に熱が出てるって言ってるだけで、私は全然大丈夫だから」
 そこまで言ったとたん、鼻がむずむずして、くしゃみが出そうだと判断した私は、とっさに受話器を離す。
「ふ……っしょん」
 口を手で押さえたので、大きな音にはならなかったし、受話器も離して万全の態勢を整えていた。あとは笑って切り抜けるだけ。
「急に鼻がむずむずしちゃって。でも、電話だから先生にうつる心配もない、か」
 軽く笑う私の声に重なるように、先生が、すまない、と呟く。気を使わせたのか、と思ったけど、そうではなかった。
『電話してみたものの、今日はやらなければいけない仕事があったのを思い出した。すまないが、今晩はこれで切るぞ』
「えっ? あ、仕事、か。……んじゃ、しょうがない、ですね」
『ああ、おやすみ』
「おやすみなさい」
 あっけないほど、あっさりと電話は切れた。耳元で鳴る無機質な音を聞いて、私はようやく子機を置く。
「仕事って言われちゃあ、ね。切らないわけにはいかないよ、ね」
 ベッドに敷かれた電気毛布のスイッチを入れ、私はもそもそと布団にもぐりこむ。
 寝る前にも、と体温計を脇に挟んだ。意外と短時間で、測り終えたことを知らせる音が鳴る。
「うわ、上がってる」
 体温を見て、一気にだるさが襲ってきた。
 今晩はおとなしく寝たほうがいいようだ。先生が仕事であることに、少しだけ感謝して、私は眠りについた。


 昨晩の熱は下がってなかったけど、私は学校へ来た。授業は受けたくないけど、先生には会いたい。恋する乙女は気力で学校に行けたりするのだ。
 気合ではもはや耐えられなくなり、二時限目、授業の途中で保健室行きを申し出た。あのまま、あと三十分座っていると、立ち上がったとたんに倒れそうだったから。
 壁を伝うようにして保健室へ向かう。
 あと少し階段を下りれば保健室だったけど、急に視界が真っ白になり、進退きわまった私は、踊り場で壁にそってずるずると座り込む。
 額を冷たい壁に押し付け、白い光が去るのを待つ。
「立つ、ぞ、っと」
 壁に手をついて力を入れたけど、足は床にはりついたように動かない。それでも、なぜか私は手だけに力を込め続け、結局、変な態勢から、今度こそ床に倒れこんでしまった。
「だ、る、い……」
 床の冷たさが体に心地いい。このまま、ここで寝てしまってもいいかな、とさえ思っていた。
 遠くでサンダルの足音が聴こえる。
「……襲われても知らんぞ」
 寝転んだまま、目だけで声の主を探す。
 どこか現実味のない視界に、かがんで私を覗き込む先生の顔があった。
「せん、せい?」
 先生の手の甲が、私の首筋に触れる。
「んっ」
 その手の冷たさが、一瞬にして全身を通り抜ける。
「やはり、熱が出ていたか。相当、高いな」
 首筋を触っていた手が、今度は背中に回され、両膝の裏にも腕が回される。
 先生が、ふっ、と息を止めた瞬間、体が持ち上げられた。正確に言うと、抱き上げられた。
「重い、のに」
「挑発するような格好で寝ている女子生徒を放っておいていいのか?」
「それは、嫌かも」
「保健室までだ。我慢しろ」
 先生が歩くのと同時に、吐く息が私の頬に触れる。かすかにコーヒーの匂いがした。
 保健室のドアを開けた瞬間、中の暖かさが体にふわりと流れ込んできた。独特の匂いが、半分目を閉じていた私の鼻につく。
 中には誰もいない。
「……よし、と」
 ベッドに私を下ろした先生は、大きく息をついた。
「ありがとう、ござい、ます」
 お礼を言った私の顔に、乱暴に掛け布団がかけられる。顔を出したら先生の背中が見えた。
「保健室は来たことないんだが、とりあえず、来室者名簿に名前か」
 机に座った先生は、ノートを開いてボールペンで記入し始める。
 最近になって母に聞いたことだけど、初めて先生が電話をかけてきた時、私の名前を呼ぶわけではなく、苗字で指名してきたらしい。名前を知らないとしか思えない電話相手、と、母の脳裏にかなりの印象を与えたようだ。そのおかげか、数回後には、先生が名乗るだけで、母が替わってくれるようになった。
 そんなわけで私は、先生は名前を覚えていない、とにらんでいる。
「先生、私の名前は……」
「ん、ああ、知ってる」
 熱で半ば朦朧としていたけど、この返答には驚いた。まさか、覚えてもらっているとは思ってなかったから、少し衝撃だった。それなら、電話でも名前で呼んでくれればいいのに、とこっそり思う。
 書き終えたらしい先生は、スチールの棚に置いてある箱から薄い何かを取り出し、ベッドに向かって投げる。
 湿布ほどの厚さのそれは、おでこに貼り付けておくと、熱を吸収してくれる、という便利なものだ。
「あとは……体温計」
 先生は、私の寝ているベッドの横の椅子に座り、持ってきた体温計を差し出す。
「どうも、です」
 受け取った私は、体温計を脇に挟む。
 枕もとにあったゴミを先生が丸め、椅子から立ち上がることなく、ゴミ箱に向かって投げた。ほんの少し口元がにやついたところを見ると、どうやら見事に入ったようだ。
 私は、体温計が時間を告げるのを待っている。
 先生は、じっと座っていたけど、やがて、私を横目で見下ろし、
「だるそうだな」
 と、無表情で呟いた。同情してくれてるわけでもない、らしい。
「熱、出てるし」
「風邪だろう」
「くしゃみも出るから、たぶん」
 先生からの返事もなく、会話が終わる。
 それでも、先生は無言で、じっと私を見たままだ。
 せっかくだから、目を合わせたままにしておくことにした。幸い、熱で思考能力も半分低下していて、恥ずかしいという意識も半減している。
「風邪、うつしてみるか?」
「え、どうやって?」
 うつしてみるか、と聞かれても方法なんて私は知らない。
 戸惑う私に頷いてみせた先生は、枕もとに手を置き、顔を近づけてきた。
 鼻先がぶつかりそうになって、ようやく私は先生の顔が近づきすぎていることに気が付く。
「ちょっと、先生、熱出て、る?」
「健康だが?」
 先生はそう言って、さらに少しだけ近づいてきた。私が少しでも顔を上げたら、鼻はもちろん、唇までくっつきそうだ。
 そこまで把握して、熱で遅れた思考が、ある信じられない結論をはじき出す。
 ――先生は私にキスしようとしている。
「だって、そんな……付き合ってもいない、のに?」
 先生に問いかけたのではなく、自問自答に近い私の呟き。
「では、付き合えばいい」
「キス、したい、から?」
 ゆっくりと、先生は首を横に振る。そうではない、と。
「俺なりに本気で考えた結果、だが、な。……返事は?」
 こんな至近距離で返事をうながされ、断れるわけがない。しかも、ドキドキした時のように体も熱い。
 無意識に頷いていた。
「目は、閉じてくれ」
 でも、私は目を閉じない。
「いやです」
「こんなところ、だから?」
 私も、このままキスしてもいい、と思っていたけど、その後で起こることがひっかかっている。
「風邪ひいたら、先生、学校休むよね? せっかく……その、電話だけじゃなくなったんだから……」
「学校でも会いたい、か」
 続いた先生の言葉に頷き返す。私の言いたいことは伝わっている。
 腕立ての要領で体を起こした先生は、私の脇に挟んである体温計を取る。
 胸に触れるか触れないかのところを先生の手が通り過ぎた。
「せ、せんせい?」
 私は、かばうように自分の胸を抱きしめる。
 そんな私を微笑ましい目で見ていた先生は、
「参った」
 と呟き、さらに笑みを広げ、
「俺も、だ」
 と、体温計を私に見せた。
 体温計に表示された数字は、早く治せ、と先生の気持ちを代弁をしているようだった。


 ◇終◇
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