笑顔と弁当
 大きくもないけど小さくもない会社の裏口で、私はじっと一人の男性を待っていた。
「あの人の彼女さん?」
 警備員の制服に身を包んだお兄さんが私と一緒に待ちながら軽く話してくる。誤解ではあるけど、何度も会社に訪ねてきているのだからそう思われてもしかたがない。
「父の用事で……」
「えっ? 子持ちなの、あの人? 一体いくつの時の子……」
 高校の制服を着ている私を驚きながら凝視する。
「じゃなくて、その上司が父なんです」
「あ、そういうこと。ごめん。俺の勘違いか」
 笑ったお兄さんと共に私が笑い返していると、階段からシャツの袖をまくってネクタイの先を胸ポケットに入れた男性が下りてきた。何かの作業中だったようだ。
「ありがとうございました」
 一緒に待ってくれた礼を言い、私は男性のもとへと駆け寄る。
「また、あんたですか」
 朝には整っていたであろう短髪も、残業のせいかすでに乱れている。その髪をがしがしと掻きながら、彼は面倒くさそうに私を見下ろした。
 ざっくりと太い眉に、デスクワークに不似合いな少し逞しい体。短髪だからまさに体育会系。掻く姿もなんとなく似合う。
「……上司の娘なんですけど」
「だから、こうして来てるんスけど」
 彼にうんざりされた程度ではへこたれない。この応酬も、もはや挨拶代わりといってもいい。だから嫌味たっぷりに言い返す。
「わざわざ、ありがとうございます。……これ、渡しておいてください」
 黒い紙袋にはお弁当が入っている。学校から帰宅後、夜勤担当の父のお弁当を作り、家から近い会社に持ってくるのが私の日常だった。ついでに言うと母はいない。
「毎日、ご苦労さんです」
 彼の言葉が嫌味や皮肉でないことは顔を見ればわかる。
 彼との出会いはそれほど昔ではない。裏口に警備員がいない頃、帰ろうとしていた彼を引き止め父のもとまで案内してもらった。それが縁でいつも呼び出している。彼も疑問に思っているとは思うけど、呼び出せば毎回来てくれる。
 いつしか私はそれを楽しみにするようになった。父のお弁当という用事はあるけど、彼と話すために呼び出しているようなもの。
「残業、お疲れ様です」
「残業っつうか……コピー機の調子がおかしいから見てるだけなんで」
「雑用に使われてるんだ」
「それを言われりゃ何も言えませんよ。あ、女子高生、菓子食います?」
 彼のポケットからナッツとチョコに包まれたポッキーの小袋が出てきた。中のポッキーはボキボキに折れている。
「ポッキー、好きなの?」
「これをあげるからコピー機見てくれって女子社員に頼まれて。まあ、腹は減ってたんで適当な時に食おうと思ってたんですけどね。ここまでひどくなってるとは……」
「食べる、私、それ」
 ポッキーが好きなわけじゃない。しかも折れまくっているポッキーなんて普通だったら絶対に食べない。でも、彼がくれるって言うから。
 ポケットの中で揉まれたであろう袋はクタクタと柔らかくなっている。手中にある袋を見て、彼は私を見た。
「これ、を?」
「うん。それ、を」
「まあ、いいですけど」
 受け取った袋はたっぷりと彼の体温を吸収していて、その温かさにドキリとした。これをあげた人は彼のことが好きなのだろうか。同性としてあらぬ詮索までしてしまう。
 でも私には女子高生という武器がある。だからわざわざ制服を着て来るのだ。彼に効果があるかは自信がない。
「じゃ、俺は行きますから」
 ポケットに入れた手に紙袋を提げて、彼は軽く頭を下げる。
「お願いします」
 私も頭を下げて、図体に似合わず軽快に階段を上っていく彼を見送った。
 食べられるわけのないポッキーを見つめ、周りに誰もいないのを確かめ、ゆっくりと頬のこわばりを解く。平然としていられるほど大人じゃない。気を抜けば声まで洩れてしまいそうになる。
 自分の中で歓喜や好きという気持ちが急激に湧き上がる。彼が帰るのを待ってみようか、という気になってしまった。
 ちょっと話しただけでは物足りない。今までは、仕方ない、で留めていた気持ち。彼のくれたボロボロに崩れたポッキーが、我慢していた私の欲張りのフタを開けたのだ。
 小袋をバッグにしまいこみ、裏口から会社を出る。植え込みを囲むレンガの段に座った。少し寒い。
 誰かが肩を叩く。びっくりした。
 警備員のお兄さんが私の前にしゃがみこんで目線を合わせる。
「俺、わかった。お嬢さん、あの人のこと好きなんだ」
「えっ、な、なんで……?」
「待つ人を見るのは初めてじゃないから。ただなあ、今日は寒いでしょ? 守衛室で待つ? 即席のコーンスープならご馳走するし。あ、別にナンパじゃなくて……俺、彼女いるから」
 彼女がいる、と言われると素直にナンパじゃないと信用できてしまうのは、私がまだ子供だからだろうか。経験の差、だろうか。
「あったかいですか?」
「俺が風邪ひかない程度には」
「お邪魔していいんですか?」
「いいから誘ってるけど」
 お尻から寒さが体に入り込んでいるのが自分でもわかったので、お兄さんの言葉に甘えることにした。
 守衛室の中は予想通りの狭さで、折りたたみのパイプ椅子三つが小さなヒーターを囲んでいた。
 適当な椅子へ座った私へ、湯気をたてたマグカップを渡し、警備員のお兄さんは小窓へ向けられた椅子へと座った。
「ま、来たら教えるから。こっそり出て後ろから追いかければ偶然の出来上がり」
「どうも、ありがとうございます」
 熱そうなスープをすするように口に入れる。お湯の入れすぎか少し薄い。でも、温かい。


 守衛室で待たせてもらってから三十分ほど経っただろうか。手で包んだマグカップに熱はほとんどなく、体を温めてくれていたスープももうない。
 お兄さんは小さなモニターを見ながら、時々通る社員の人に挨拶の声をかけていた。やはり警備員なのだ、と変なところで感心する。彼女がいるのも少し頷ける。
 彼はまだ出てこない。
「遅いな……」
「そう、ですね……」
「と言ってたら来たりして」
 笑いながらお兄さんは小窓から顔を覗かせる。そして一気に真顔になった。
「本当に来た」直後、戸惑ったように「……けど、あっ、やっぱり来てない」
 なんだかお兄さんの様子がおかしい。
 マグカップを置いて、私はそろりとお兄さんの横から確かめた。
 彼がこちらに向かっているけど、なぜか隣にはスーツを着こなした女性が一緒にいる。
 彼に見つかったわけじゃないけど、私はとっさに頭を下げてしゃがみこんだ。声が徐々に近付いてくる。
「本当にいいの? お酒入ったら愚痴るわよ?」
「いいッスよ。いつも聞いてもらってますから」
「絶対に割り勘。後輩に払ってもらう趣味ないんだから、私」
「俺としてはありがたいです」
 楽しそうな会話が頭の上を通り過ぎていった。これから二人がお酒を飲みに行くんだ、ということは私でもわかる。
 二人分の足音が遠ざかっても、私は立ち上がれなかった。彼女と決まったわけではないし、ただお酒を飲みに行くだけの可能性もある。ただ、私の知らない場所に立っている彼がいた。私は高校生で、向こうは社会人なのだということを痛感させられた。
「普通に飲みに行くだけだと思うよ、俺は」
 大人のお兄さんの見解には私も同意したい。でも、いろいろと引っかかる。
「楽しそうだった」
「そりゃ、明日は休みだしテンションは上がるさ」
「似合ってた」
「似合ってるから付き合ってるわけでもないでしょ」
「お酒、飲めない」
「あー、拗ねてる?」
「違う。ショック受けただけ」
「……仕方ないね、それは」
 拗ねても悔やんでも年齢差が埋まることはない。わかっている。
 どう整理したらいいかわからない感情を抱えながら私は立ち上がる。
「帰ります。ありがとうございました」
「はい、これ」
 会社のロゴの入ったポケットティッシュが差し出された。
「あ、足りないか。俺は付き合ってあげられないから」
 さらにもう一つ追加された。
「どうも」
「いえいえ」
 二つのポケットティッシュを握り締め、私は守衛室を出る。気をつけて、というお兄さんの声を背に会社を出た。


 土日の二日間、落ち込んだ。自分の部屋でたくさん泣いた。
 でも、何も変わらないことに気付いた。いや、ショックが何かを目覚めさせたのかもしれない。
 私が出した結論。彼に気持ちを告白する。
 あれだけ悲しんだくせに私の心は期待も希望も捨てていない。とにかくぶつけてみよう、とそう思った。


 月曜日、いつもの時間――。
 警備員のお兄さんに彼の呼び出しを頼んでいた。
「本当に呼ぶ?」
 内線電話の受話器を片手に、お兄さんはボタンを押さずに私の目を見る。
「はい、呼んでください。いろいろ決意を固めてきたんで」
「……襲いでもするの?」
「いっそ襲ってしまいたいですけど」
「返り討ちにあうだろうね」
「怖くないです」
「でかい男を襲う女子高生は好きだけど、俺」
「……呼んでもらっていいですか?」
 わずかな沈黙ののち、内線の短縮ボタンを押して彼が呼び出される。
 お兄さんが受話器を置くのと見て、私は両手をぎゅっと握り合わせた。緊張と現実が体を包んで抑えきれなくなる。そして――怖い。
 酸素が足りないんじゃないかと思うほど何度も呼吸を繰り返した頃、いつものように彼が降りてきた。
「今日もこんばんわ」
 普通の挨拶なのに、なぜかびくりとなってしまい、
「え? あ、あ、こんばんわ」
 ぎこちない挨拶を返す。
 嬉しいはずなのに、この場を立ち去りたくなる足と真っ白になっていく頭。呼吸は妙に苦しいし日常会話が浮かばない。
「あの……」
「は、はい!」
「何か落ち込むようなことでもあったんスか?」
「ない。うん……全然、大丈夫!」
「あ、そうですか」
 否定の意味をこめて手を振りながら、緊張の中にほんのりと嬉しさが広がるのを感じていた。話さないことに異変を感じる程度には気にしてくれているのだから。
 告白しなくても、やっぱり今のままでいいかもしれない。
 ふと思った瞬間、肩の荷が下りて驚いた。そう、無理することはない。彼と会える今で十分だ。
「なんだか本当に大丈夫になった」
 吹っ切れた勢いで、紙袋を差し出す。
 受け取った彼が、あれ、と首をかしげた。
「いつもより重くない……ですかね?」
「え、そう?」
 答えてから、間抜けにも思い出した。告白するつもりだったから、だめでもせめて食べてもらえれば、と彼の分のお弁当まで作ってきたことを。
 紙袋はもう彼の手に渡ってしまっている。取り返すこともできない。しかも、今、紙袋を開いて彼が中を見ている。
「お礼っていうか、おいしくないかもしれないけど……お弁当、どうぞ」
 正直に言うしかなかった。いきなり彼の分のお弁当まで作ってくるなんて、引かれても仕方がない。
 でも、彼は満面の笑みで本当に嬉しそうに袋の中を見ていた。
「マジですか? 俺も、いいんですか?」
 びっくりした。大人の男の人がお弁当一つでこんなに喜ぶとは思わなかった。お腹が空いていたから食べ物に喜んだのかもしれないけど、私の中の好きという気持ちを引き上げるには彼の笑顔は十分だった。
『告白は勢いでできるもんなのよ』
 友達がいつだったか言っていた言葉がふいに浮かぶ。
 今なら言える。いや、言いたい。ただ、ここでは少し場が悪い。
「大切な話をしたいから……少し人目につかないとこ、ある?」
「人目につかないところ? ここからじゃ倉庫が近いですね。でもさすがに俺と二人じゃやばいでしょう」
「そこ、行こう。すぐ、行って」
 勢いが萎えてしまわないうちに、と彼を引っ張るように場所もわからぬ倉庫へと向かう。
 高校生と二人になったからといって襲うような人だなんて思ってない。なにより今の私には警戒心どころではなかった。


 男性と二人で行くには危険なほど薄暗い倉庫。私の後に入った彼は、倉庫のドアが完全に閉まらないよう埃っぽくなっているイスを挟んだ。
「俺は襲いませんけど一応、ってことで」
 さりげない思いやりに、やっぱり好き、と心の中で叫んだ。もちろん顔は無表情で平然としている。
「……で、話というのは?」
 さっさと告白すればいいのに、私の心にはやっぱり恐怖心が残っている。正確に言葉でいうなら、不安、かもしれない。
「リサーチじゃないんだけど、彼女……みたいな人って、いる?」
「はあ? 彼女? 俺に、ですか?」
 おもいきり驚かれてしまった。
 それもそうだ。人目につかないよう倉庫に移動した挙句、最初の質問が『彼女いますか?』ときて頓狂な声を出さないわけがない。
「頼まれた、っていうか、先に知っておきたい、っていうか……」
「俺に彼女、いるように見えます?」
 いるわけないだろ、と言うかのような彼の表情。
「いない?」
「そう。でも、彼女いなくても不便はないですよ」
 よほど周りに何か言われているのか、うんざりした様子で彼は答えた。
 彼女がいなくても不便はない、と言われてしまうとこれから告白する私の立場がない。さらに突っ込んで聞いてみる。
「欲しいとは思わないの?」
「う、ん……」彼が唸って眉根を寄せる。「欲しいとか欲しくないとかの問題じゃないでしょ、と俺は思うんですけどね。俺が好きで相手も好きなら自然とそういう関係になるし、それでいいんじゃないかと」
 真剣にそう言ってから、恥ずかしそうに彼は笑った。
 私は心底、思っていた。こんな人の彼女になれたら幸せだろうな、と。溢れ出してくる気持ちに押されて――言っていた。
「女子高生を、彼女に、してみませんか?」
 さすがにすぐに答えは返ってこなかった。言葉の裏側を理解したのか、彼はただじっと私を見下ろしている。
「女子高生って……誰、を?」
 今までの女子高生向けの優しげな声音ではなく、一人の男性のものになっていた。
 彼が初めて同じ位置に立った、となんとなく私にも感じられた。
「私を。好き、なんです、よ」
「からかってるわけじゃなく? 俺、あんたより結構年上だし、おっさんくさいって同僚にも言われるし、高校卒業してもうかなり経つし……」
「それ言ったら私だって、結構な年下だし、自分でもまだまだ子供だと思うし、高校生だし……たぶん、きっと、断られると思うし?」
 自分で言ったのに、あまりの自虐的な言葉に泣きそうになってきた。
 そう、きっと断られる。彼が私を好きじゃない限り、彼女になることはできないのだから。
 ネクタイを緩め、シャツの首元をくつろがせて彼が唸り始める。うまく断るための言葉を選んでいるのだろう。
「高校生は……まずい、よな。でも、かといって……いや、俺が無理だ」
 独り言だと思うけど、私の『高校生』が引っかかっているのだろうことはおおいにわかる。無理という言葉の指す意味は、俺には背負えないとかそういうことなのだろう。
「無理しないで。はっきり言ってくれていいから、ほんと。覚悟はたぶん……できてるし」
 涙を抑えていると声が震えてしまう。彼の前では泣きたくなかった。面倒な女にはなりたくない。
 私の限界が近いことが彼にもわかったのか、上体を少し曲げ顔を近づけて私の目を覗き込む。
「女子高生としては、俺みたいなのが彼氏、じゃまずい、よな?」
 口から言葉を出す時間すらもどかしい。全力で首を振る。
「全然、まずくない。だって、本当に好きなんだもん」
 だもん、なんて使う女は気持ち悪い、と普段から思ってたくせに簡単に出てきてしまった。子供みたいに泣くのを我慢しているせいだ。
「じゃあ、まずくない……か」
 上体を戻した彼が私の頭を軽く叩く。
 私が彼の顔を見上げると、言うの苦手だけど、と照れ臭そうに笑った。
「まあ、俺も……好きですよ、あんたのこと。そんなに喋ってないですけど、こういう感情持つ時間はありましたからね」
「敬語に戻るんだ」
「だから苦手なんですよ、こういうの」
 勘弁してくれ。彼の表情が雄弁に語っていた。
「敬語でいいよ。でも、得意じゃなくてよかった」
 年が離れている分、彼は私よりもいろんなことを経験している。女性経験もたくさんあるのだろう、と覚悟していた。だから、苦手という言葉は素直に嬉しい。
「たまに、そうやってかわいいことを言ったりするから……やばい」
 緩んでいた頬が引き締まる。苦手だと言っていたのに、こういうことはさらりと言えるらしい。だから、私はよけいに照れる。
「や、やばいって何が」
「いや、それは言えないッス」
「言えないって……なに考えてるかわかんなくて気持ち悪いし」
 わざとらしく語尾を伸ばして笑ったら、彼の腕に抱きしめられた。
「簡単に言えば、こういうこと」
 冗談で笑い合うムードに油断していた。体が自然と硬直する。
「キモい……し」
 反撃する声は小さくて弱い。
 肩を抱いている腕は太くてたくましくて、慣れない私はたったそれだけでどうすればいいかわからなくなる。
 やり場のない手で彼のシャツをつまむ。私の精一杯。ドラマみたいに手を回すことがどれだけ難しいことなのかを知った。
「今度から、俺の分も弁当……ください」
「おいしくないかも、よ?」
「あんたが作ったのなら何でもいい」
 本人の自覚がないままに発せられた言葉の甘さに浸りながら、うん、と小さく呟いた。


 ◇終◇
読んでくださってありがとうございました
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今後の創作の励みにさせていただきます。
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