いつものこと〜バレンタイン編〜
 今日もまた、昼休み、友達と一緒にお弁当を食べた後、私は社会科準備室へと来ている。
 空いてる席に勝手に座っている私を見向きもせず、先生は黙々と次の授業のプリントを整理している。
 他の先生たちは、職員室でお昼を食べているらしい。
「誰もいないから寂しくない?」
「静かでいい。誰もいなければ、な」
「好きだったら、やっぱり会いたいじゃん、ね?」
「先生として好きになってもらえたのなら本望だ。成績も上がる」
 あいかわらず私を見ることもなく、先生は、指を軽く舐め、プリントをクラスごとに分けていく。
 先生の邪魔になるのを承知で、私はプリントの前に人差し指を差し出す。
「邪魔」
 先生の手が止まった。でも、やっぱりこっちは向いてくれない。
「プリント分け手伝ってあげるから、舐めて」
「俺が舐めて……どうする?」
「同じとこ舐める」
 ぴしりと手が払われ、無言で、またプリント分けが再開される。
 少し黄ばんだ白衣を着ていても、先生には全く野暮ったさがなく、髪型もスーツも隙が無い。どこかの研究所の所員のようにさえ見える。
 同じく、恋愛方面にも全く隙が無い。何度もアピールしているうちに、先生に、好き、と言うのが日常となってしまった。一年近くもこうして付き合っていれば、さきほどの人差し指も含め、少々のことなら、恥ずかしいとも思わない。
 赤や黒のボールペンで書き込みされたカレンダーを何気なく見て、
「先生さ、明日って夜とか何か用事入ってんの?」
 と聞いた。明日は二月十四日――バレンタインデーだったから。好きな人の動向は把握しておきたい。
「明日? 何日の何曜日だ?」
「十四日の火曜日」
「十四日……は特に何もない」
「じゃあ、次の日は?」
「明後日も何も無い」
 彼女の気配は無い、と見た。
 実は、先生を好きになって初めて迎えるバレンタインデーなので、彼女のことも、チョコをどれだけもらうのかも知らない。
 先生はプリントに集中しているのか、順調に質問に答えてくれている。事前リサーチには絶好の機会だ。
「チョコは食べられる人?」
「食えないことはない」
「どういうチョコが好き? 苦いのがいい、とか、ナッツ入りがいい、とか。あ、ちなみに私は、冬季限定って売ってるチョコなら今のところ何でも好き」
 質問しつつ、自分の好きなものをアピールすることも忘れない。先生から聞いてくることは全くないので、こうでもしないと永遠に覚えてもらえない。
「苦かろうが、ナッツ入りだろうが、チョコの塊は、口で溶ける感じが気に入らん」
「そうなると、チョコケーキが無難?」
 先生はプリントを分け終わったのか、最後の束を机の面を使って揃え、
「無難?」
 と、ようやく私を見てくれた。
 私自身も知らなかったことだけど、意外と私は見られることに慣れていないらしい。気づいたら軽く目をそらしていた。
「先生に受け取ってもらうためには、ってこと、です」
 視界の端っこに先生を映しながら、なぜか敬語で返答する。
 先生の顔が壁にかけてあるカレンダーに向く。
「ああ、そういうこと、か。毎年、毎年、ご苦労なことだ」
「全然、苦労だなんて思ったことないし」
 ガッツポーズしながら先生を見る。今は先生の目がカレンダーに向いているから平気だ。
「お前、今日は部活終えたら何時に帰宅だ?」
 先生の目が、今度は時計を見ている。放課後に会おう、とでも言ってくれるのだろうか。そんなわけないと思いつつも、唐突な質問内容に期待を抱かずにはいられない。
「家に着くのは、六時半くらい、かな」
「飯食って、風呂入って、とっとと寝ろ」
 なんとなく、先生の言おうとしていることがわかってしまった。
「チョコケーキ作ってから寝ます」
「作らなくていい」
「心配してくれてありがとうございます」
 にこにこ顔を崩さない私へ、先生が呆れたようなため息を吐きかけてくれる。
「手作りだろうが、買ったものだろうが、チョコはただの菓子だ。そういうのは、彼氏が出来た時にでもしておけ」
「だから、未来の彼氏に向けて」
 先生の説得するような視線と向き合う。
 表情を崩してはいないけど、先生と見つめ合ってる、という状況に内心ですごくドキドキしている。自分で言った、未来の彼氏、という単語が頭の中を巡っている。
 大きく吐かれた息と共に、先に視線を和らげたのは先生。
「思い出作りのための生贄、だな」
「先生、大げさ。女子高生にチョコもらえるのに」
「一人で消化する俺の身になったら申し訳ない、とは思わんのか?」
「私の気持ちが先生の体の中に入るのね、と嬉しくなりますけど?」
「……そう、か」
 先生がうなだれたとたん、チャイムが鳴った。昼休み終了五分前の予鈴だ。
「今日はこれで帰ります。では、先生、また明日」
 ドアを開け、失礼しました、と言ってから閉める。質問にきた生徒を装うためのカモフラージュ。
 チョコケーキに必要な材料を頭の中に並べながら、私は教室へと向かった。


 ついにきた、バレンタインデー。
 私の鞄の中には、昨晩作ったチョコのパウンドケーキ二切れが潜んでいる。先生の手に渡るのを待っている。
 いかにも、バレンタインチョコです、といった風にラッピングした袋を持ち歩くのは恥ずかしいので、昼休み、私は鞄を持って、先生のいる準備室へ向かった。
「失礼します」
 形だけの挨拶と同時にドアを開ける。先生は本を二冊広げて、別の紙に何かを書き込んでいる。いつものように、授業関連の作業であることは間違いない。
 ただ、机上には見慣れないものもあった。乱雑ながらも置かれている数個の袋は、無骨なスチール机に不似合いなかわいいものばかりだ。
 鞄のファスナーを半分開けていたけど、即座に閉めた。
 あの中に私のチョコも置かれるのだ。覚悟はしていたけど、目の前で置かれるさまを見たくはない。
「先生、しっかりもらってるんだ。意外と好かれてるってこと?」
「ただのチョコが飾り立てられてるおかげで、ゴミも増える」
 顔を上げた先生は、うっとうしそうな目で机上の袋を眺め、私へと視線を移す。
「早退か? 早退届に印鑑……次は俺の担当だったか?」
 鞄を背中に隠す。いや、鞄ほどの大きさのものが背中なんかで隠れるはずはないとわかっていたけど、とっさにそうしてしまったのだ。
「あ、別に早退なんかじゃない」
 隠した鞄を見て、先生の顔が、ふっ、と柔らかくなる。
「ケーキ、失敗したか?」
「し、失敗はしてない。ちゃんと持ってきた」
「潔く出せ」
 好きな人に笑顔で手を差し出されて、なおも断れるほど、先生への気持ちは薄れてはいない。
 ケーキの入った袋を受け取った先生は、あの乱雑に置かれた袋たちの一番上へ乗せた。
 私の気持ちがその他大勢の上に乗せられる。やっぱり耐えられない。
 のせられたばかりの袋を奪うように取り戻し、私は鞄へとしまいこむ。
「何、してるんだ?」
 作業を再開し始めた先生が、私を凝視している。
 先生が驚くのは道理だ。先生に渡したケーキを自分で取り戻すなんて、奇行以外のなにものでもない。
「あそこに置かれたくない」
 子供のようなわがままとわかっていたから言わないつもりだったのに、気づいたら口にしていた。
 さらに、他の袋を全部ゴミ箱へと捨てた。
「何してるか、わかってる、のか?」
 言いながら、ゴミ箱から袋を拾い上げる先生の手を払いのけた。拾い上げられたばかりの袋が床に落ちる。
「受け取らないで……」
 私の中の一人が叫んでいる。何様のつもりだ、と。彼女でもないのに、と。
 そんな私を無視して、先生は袋を拾い上げ、また机上に置き、作業を始めた。無表情からは何の感情も読み取れない。
 やがて、ペンを走らせながら、先生が呟くように宣告した。
「もう、ここに来るな」
「どうして、ですか?」
 どうして、なんてバカな質問をしている。あれほど勝手なことをしておいて、どうしても何もあったもんじゃない。
「思い出作りの枠を超えている」
「思い出作り?」
「俺の仕事にも邪魔にならないから、今まで付き合ってきた、が、押し付けるのなら、はっきり言って邪魔だ。教師として言う。もう、ここには来るな」
「男性として、は?」
 ペンを置いて、先生は椅子を回転させてこっちを向いた。首だけじゃなく、体をこっちに向けた。
「教師の俺に、男性としての返事を求めるな」
 涙が出ない。
 でも、泣いているかのように体が震える。
「女性として、好きなんです、先生のこと」
 先生が座ったまま、深く頭を下げた。
「生徒。……それだけだ」
 ケーキの袋がその他大勢と一緒に置かれた時にわかっていた。それが嫌だ、と最後の抵抗を試みたけど、ただ、先生にわがままを見せつける結果となってしまった。
 先生以外の先生を、この先生以上に思ったことはない。先生の中で私はそういう存在だということだ。
 先生の言いたいことは、よくわかる。
 気持ちを振り切るように、思い切り笑顔にして、私はぺこりと頭を下げた。
「今まで、お付き合いありがとうございました。……って言えばいいかな?」
「教師としてなら、今までと変わらず接する。これがあったからといって不正な行為もしない」
 教師としてなら、と、先生はそつなく釘を刺していく。このことがあっても、生徒として今までと変わらず過ごすように、と言われたようなものだ。
「お菓子あげるから、成績下げたりしないでくださいね。なんて言ったりして……」
 鞄から出したケーキの袋を先生の机に置く。
 笑ってないと泣いてしまいそうだから、笑顔はさっきから貼りついたままだ。
 先生がケーキの袋を返そうとしたので、慌てて手を振って制する。
「それは、先生への賄賂ってやつです。成績上げてくださいね。そうそう、ホワイトデーのお返しも豪華にお願いします」
 どうしてだろう。無意識に敬語で話してしまっている。さらに、先ほどから少しずつ後退している。私の体は早くこの場から立ち去りたいらしい。
 背中に回した鞄がドアにあたる。
「へへ、じゃあ、失礼しました、と」
 先生はケーキの袋を持ったまま戸惑った表情を浮かべていたけど、私は素早く反転して準備室を出た。
 ドアが閉まるのを確認して、一目散にトイレへと向かう。
 もう、涙腺が限界を超えていた。
 一時間ほどをトイレの個室で過ごし、その日は、届も提出せず、学校を早退した。


 ◇続く◇
→「いつものこと〜ホワイトデー編〜」
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