いつものこと〜ホワイトデー編〜
 あの日から、私が先生のところへ行かない以外は、今までとなんら変わらない日常が続いていた。
 生徒として先生の授業を受け、先生として生徒に教える。学校に溢れる普通の関係。
 電車とバスの乗り継ぎの関係で、その他の生徒より少し早く登校する私は、今朝も、いつものように下駄箱の扉を開ける。
「……ん?」
 静かな中、私の声がゆるやかに反響する。
 履き替えるために取ろうとしたサンダルの上に、コンビニの袋が居座っているのだ。
 比較的しわの少ない綺麗な袋は、下駄箱を開けてそのまま突っ込んだだけ、といった様子を思い浮かばせる。
 とりあえず、中身を確認しないことには間違いかどうかもわからないので、恐る恐るながらも袋を手に取ってみた。
 中から出てきたのは、いたって普通のチョコ菓子だったけど、下駄箱に入れられる意味がさっぱりわからない。
 好きな子にこっそり渡すプレゼントじゃないんだから、と内心で笑った時、ふと日付を思い出す。
 三月十四日の火曜日――ホワイトデー。
 同時に、先生の顔を思い浮かべてしまった心に冷笑を浴びせる。
 でも、少ない期待が体を動かした。
 ひとまずコンビニの袋を戻し、先生が学校に来ているかどうか確かめるため、職員用下駄箱へと走る。
 でも、下駄箱には名札ではなく、数字の書かれた札がついているだけで、どこが先生の下駄箱だか全くわからなかった。先生の履物なんて、学校でのものしか見たことがない。
 背後で車の停まる音がした。先生本人でも気まずいし、他の先生が来てしまっては言い訳できないので、仕方なく職員用下駄箱を後にする。
 教室に向かいながら、バレンタインにチョコを交換した友達の誰かが入れたものだろう、と無理やり期待を押し込んだ。


 昼休み、お弁当を食べた後、友達から続々と『バレンタインのお返し』を手渡された。
 私が友達との交換用に作ったバレンタインチョコは三つ。今、机の上に乗っているお返しも三つ。
 みんなでお返しを食べながら、冗談で聞いてみる。
「今朝、下駄箱にお菓子入れた人いる?」
 三人から一斉に返ってきたのは、違う、だった。
「誰に渡したんだか知らないけどさ、本命からのお返しじゃない?」
 一人がそう言ったとたん、みんなの顔がにやけだしたので、慌てて否定する。
「違うって。……あっ、思い出した。同じ部の子にもあげたんだった、チョコ。そのお返しかもしれない」
 なんだ、という声と共に、みんなの顔から好奇心が消え、話題も別のことへと変わる。
 でも、私の頭の中では、本命からのお返し、という言葉がずっと巡っていた。


 今日は先生の授業もなかったので、顔を合わせることもなく、放課後になった。
 コンビニの袋とチョコ菓子は、今朝からずっと鞄の中に潜んでいる。
 下校の準備のために教科書などをしまいながら、先生に会うかのように、そっと鞄の中のコンビニ袋を覗き込んだ。
 その時、初めて『冬季限定』と書かれた金色の文字に気が付いた。
 以前、先生に、冬季限定のチョコが好き、と言ったことがある。
 友達からのお返しではなく、下駄箱にこっそり入れられていたうえに冬季限定のチョコときて、期待が膨らまないわけがない。
 早く、確認したい。
 私は急いで、三年生の引退にともない部長となった友達のクラスへ行き、先生に呼び出されて部活に遅れる、と言い、そのまま社会科準備室へと走る。
「失礼します」
 勢いよく開けた準備室には、別の先生が一人座っていた。
 目的の先生がいる、となぜか確信して来た私にとっては、かなり予想外の光景だった。
「どうした? 質問か? 二年生担当の先生はさっき部活に行ったよ。質問だったら私でも答えられると思うが……」
 教科の質問なんて用意してきているわけがない。激しく動き回る私の目に、コピー機の上に積まれたプリントが映る。
「その……プリントをもらいにきたんですけど……」
 いかにも社会担当といった風情で、もっさりとした雰囲気のその先生は、唸りながら眉根を寄せる。
「プリントか。担当じゃないから、私にはわからんな。……ちょっと待ってなさい。職員室で呼び出しの放送かけてきてあげるから」
「ありがとうございます」
 なんとか切り抜けられたことにホッとしながら、私は軽く頭を下げる。
 ゆっくりと立ち上がった先生は、スリッパをこするように歩きながら準備室を出て行った。
 やがて、廊下から、さっきの先生の呼び出し放送が響いてきた。
 その瞬間、目が覚める。
 先生は部活を中断して、私のためにもうすぐここへやってくる。プリントを待つ生徒などではなく、チョコが先生からのものか、という自分勝手な質問をしたいだけの生徒のために。
 呼び出し放送終了を告げるチャイムが鳴る中、私は準備室を飛び出した。
 部活をやっている教室へ向かうために走りながら、せわしなく頭を働かせる。
 渡り廊下へさしかかった時、足に急ブレーキをかけた。
 少し乱れた息を整え、なるべく冷静になりながら、私は今後の可能性を考える。
 さっきの先生は、名札で名前を確認していた。その場にいない生徒が私だとわかれば、呼び出された先生は、部活をしている教室に来るかもしれない。そうなれば、簡単な嘘はすぐにばれる。
 部活には行けない。私だとわかる可能性がある以上、教室に戻るわけにもいかない。
 残る結論は帰宅のみ。
 チョコの確認よりも、くだらない理由で呼び出したことを知られるほうが怖い。
 帰宅を決定し、下駄箱へ行くために渡り廊下を戻ろうとした時、バタバタとこちらに向かって階段をのぼる足音が聴こえてきた。
 考えるより先に、体が音から逃げるほうを選んだ。
 足音の主は、先生でないかもしれないけど、先生である可能性も捨てきれない。どちらであったとしても、とりあえず逃げておけば間違いない。
 走る私の耳に、足音が徐々に近づいてくる。追いかけてくるのが先生なのは、おそらく間違いない。
 足元が不安定なサンダルでこれ以上逃げるのは難しいと判断し、女子トイレの個室に飛び込んだ。男性が簡単に入って来られる場所ではない、と見越してのことだ。
 案の定、足音は止まった。続いて、明らかに男性のものと思われる荒い呼吸と共に、女子トイレのドアが開けられた。
「手間を……かけさせるな」
 声が、先生だ、と告げていた。
 先生なら、それこそ、個室から出るわけにはいかない。
 息遣いが聴こえないよう、鼻だけでゆっくりと呼吸する。
 荒い呼吸の中、先生が長く息を吐いた。ため息をついたと思われる。
「聞きたいこと、は見当がつく。……あれは俺が入れた」
 歩き出す音がしたので、こっちに来るのかと警戒したけど、次いでトイレのドアの閉まる音がした。残ったのは私の息遣いのみ。
 先生を追いかけなければいけないのに、私の頭の中では、一つのセリフがずっと巡っている。
『あれは俺が入れた』
 あれ、はチョコのことを指しているのだろう。入れた、は下駄箱に入れた、ということ。
 先生に理由を聞かなければいけない。あの日、見事に断られた私にも希望があるのかどうか、を。
 慌ててトイレを出て、廊下に先生の姿を探す。
 上の階から、教室のドアがスライドする音が聴こえてきた。目の前にある階段を駆け上がった直後、今度は先生の声が聴こえてくる。
 この階には、先生が顧問をしている部の使っている教室がある。先生は、トイレを出て、部活に戻ったのだ。
 先生の声を聴きながら、トイレに逃げ込んでしまったことを後悔する。部活を抜けてきた先生が追いかけてくれただけでもありがたいのに、その優しさに甘えてわがままを見せてしまった。見切りをつけられて当然だ。
 ここでじっとしていても仕方がない。私も部室へと向かった。


 部活終了を告げるチャイムが校内に響く。外はすでに真っ暗だ。
 私の所属する部は、今日の会議を終え、部室として使っている教室に一人残っている私は、黒板に書かれた内容を、生徒会に提出するプリントに清書している。
 ひたすら手を動かしたかったので、友達の仕事すらも請け負って、一人残ることを選んだ。書くことに集中していれば、先生のことを考えなくて済む。おかげで、部活終了時刻に間に合っていないけど、先生がまだ校内にいるのだと思うと、帰りたいという気持ちも不思議と湧かない。
 あと少しの作業の励みになれば、と鞄から、先生が入れたと言ったチョコを取り出し、机の上に置く。もちろん、食べない。
 部活を終えて帰るであろう生徒の話し声や足音が、かすかに廊下から響いてくる。一人残ってることが寂しくなってきて、少しだけ手を早めた。
 生徒の声も少しずつ少なくなってきた頃、廊下にサンダルの音が響き始めた。先生の見回りが始まったのだろうか。
「早く終わらないと、部活停止になるぞ」
 教室前で止まった足音に代わって、怒ったように呼びかける声。
「すみません。もうすぐ、本当にもうすぐ終わりますから」
 教室の入り口にいるであろう見回りの先生に、顔も向けずに言う。
 この学校では、遅くまで残る場合は、部活延長届を出していないと、一週間の部活停止になる。
 しんみりと先生のことにひたっている場合じゃない。私一人のせいで部活停止になるわけにもいかない。
「あと何分くらいかかる?」
 十分はかかりそうだったけど、短めに言わないと部活停止の危機を回避できない。
「五分くらい」
 足音が遠ざからない、ということは、見回りの先生は待っているのだ。
 私の手も頭も、ますます焦る。宣言した手前、五分で終わらないとまずい。
 人間、やればできるものだ。
 プリントを埋め終えて、時計を見ると、本当に五分で終わっていた。
「終わったなら、早く帰りなさい」
 そう言われて、私は初めて見回りの先生を見た。
 そして、去ろうとするその先生を、鞄も何も持たず追った。
「先生、ま、待ってください。さっきは、逃げて……」
 二時間ほど前、顔を合わせたくなくて逃げてしまった相手――先生は、うっとうしそうな顔で振り向いた。
「早く帰りなさい」
 それだけ言って、また背中を向ける。
 教室に戻り、急いで鞄に全てを詰め込み、プリント片手に、また先生を追いかける。
「先生、本当に、待ってください」
 止まる気配のない先生の前に回りこみ、反射的にプリントを差し出した。先生を引き止めるには、生徒としての用事が必要だ、ととっさに思ったから。
「職員室に行くなら、これを、うちの顧問に渡しておいてください」
 よりによって、思いついた用事が、先生をプリント運びに使う、というのはいただけない。
「……わかった」
 しばしの沈黙の後、先生は受け取って、再び歩き出す。
 先生の後姿を見ながら、好きな人をパシリに使ってしまっただけ、ということに気づく。
 追いかけて、先生の持っているプリントをひったくるように奪い取る。
「これ、は自分で持っていきます。ちょっと、待って、ください」
 本題を聞く前に、少しの深呼吸が必要だ。
 先生が、体ごとこっちを向く。
 先生の『待つ姿勢』に少し安心した。
「聞きたいことがあるんです」
「それには、もう答えたはずだ」
「じゃ、理由」
「今日は返す日。違うか?」
 先生の表情は変わらない。私のかすかな期待を、無表情で一蹴していく。
「……違いません」
 うつむくことで、頷きに代えた。
 会話が終わる。
 私の期待も消える。
 あとは、先生が、私の前から去っていくだけだろう。
「もう一つ、理由がある」
 先生の呟く声が、うつむく私の頭上から落ちてきた。
 もう、期待はしない。
「なんですか?」
「予約」
「え? 予約?」
 顔を上げると、先生の口元がわずかに上がった。微笑んでいる、に近い表情。
「わからない、か……」
「さっぱり。全然、話が見えてこないんですけど」
 だろうな、と呟き、今度は明らかに先生は微笑んだ。
「俺も聞きたいことがある」
「はい」
「なぜ、敬語に変えた」
 あの日以降、いろんな思いが絡まって、先生に対し、自然と敬語になった。その思いを本人に言うのはなかなか難しい。
「教師と生徒に戻らなきゃいけない。なんとなく気まずい。……そういうのが集まったら、自然と敬語に、なってました」
「以前のように話すことは可能か?」
 ふられる以前に戻れ、とは、先生もなかなか酷なことを言うものだ。奇妙な気まずさは、もう染み付いてしまっている。
「ちょっと、それは、難しい、です」
「予約をする」
「その、予約ってのが、さっきから謎なんですけど……」
 大人独特の遠回しな表現ってやつだろうか。話が寄り道しているようで、子供な私にはもどかしい。
「教師と生徒は変わらない」
「そう、ですね」
 あの日のセリフがよみがえる。今さら言わなくてもわかっている。先生に少し腹が立ってきた。
「わかってますから、引き止めたのは私ですけど、もう、帰って……」
 いいですか、と続ける私の言葉に、重なるように先生が言った。
「未来の彼氏の予約をする」
 まず、聞き間違えたのか、と思った。でも、もう期待はしていない。都合のいい聞き間違いをするはずもない。
「未来の彼氏の予約?」
「繰り返さなくてもいい」
「本当に?」
「できるものなら」
「一度、ふったくせに?」
「嫌なら、今度はお前が断れ」
 いつもやりこめられていたから、先生に仕返ししようと言った言葉だけど、こっちの弱みをついた絶妙な反撃が返ってきた。しかも、不敵に笑いながら。教師の話術は侮れない。
「断れるわけない」
 あっさりと降参した。先生をふるなんて、できるわけがない。
「じゃあ、今は教師と生徒のまま、か」
 そう、まだ両思いになったわけじゃない。先生の気持ちが少し私に傾いただけだろう。こうして話していても、やはり教師と生徒には変わらない。
「教師としての意見を言えばそうなる、な」
 気になる一言を残し、先生は歩き出す。
 ゆっくりな歩調は、私に、ついてこい、と言っているかのようだった。
「男性としての意見は?」
「教師の欠片もなくなっていいのか?」
「先生じゃない意見が聞きたい」
 そして、先生の口から発せられた答えを聞いた瞬間、私の足は止まった。
 顔が一気に熱くなる。
「先生、本当に、そんなこと思ってるの?」
 同じく足を止めて振り向いた先生は、平然としている。
 大人と子供の違い、だろうか。
「男性、として意見を言ったまでだ」
「今、先生の彼女になったら、ってこと? 私には無理かも……」
「だから、卒業を待つ」
 こっちは恥ずかしくて先生の隣を歩けなくなってるのに、言った本人は、そんな私に手を差し出している。
 さっきの答えを思い出すと、子供な私にとっては手をつなぐのも恐ろしい。つないだら最後どうなるかわからない、とすら思えた。
「待ってて、ください」
 何もされませんように。
 こっそり祈りながら、先生の――大人の男性の手をつかんだ。


 ◇終◇
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