学校を出ようとした私は、うわ、と思わず声に出して呟いてしまった。
下駄箱で靴を履き替えている時に、雨が降っていることは知っていたけど、走って帰れるていどだろう、と思っていた。でも、実際に目の前で見ると、走って帰れるどころの話ではない。
今日は学校行事の都合により全クラブの活動を停止させられている。私は忘れたレポートを仕上げていたので遅くなってしまったのだ。
「マジで……どうしよう」
困った時に役立つとは思えない携帯を取り出して開いてみる。雨だから迎えに行こうか、なんて都合のいいメールが入っているわけもなく、いつもの待ち受け画面が表示されているだけ。
「携帯電話は禁止されているはずですが……。堂々と開くとは君らしい」
前を通り過ぎる黒い傘が話しかけてきた。違う。黒い傘をさした先生が話しかけてきた、だ。
少しだけ前髪を残したオールバック。顔を覆うように中指で眼鏡を上げ、にやりと笑う先生には、悪役こそがふさわしい。
私の成績は自分で言うのもなんだけど、悪くはない。ただ、苦手な国語の成績だけは、他教科に比べてがくんと落ちている。国語担当の先生にはそれが気に入らないらしい。
やればできるのにやろうとしないからだ、と一度だけ言われたことがある。でも、私情を採点にはさむようなことは絶対にしないし、しつこく勉強しろ、とも言わない。
清々しいほどはっきりとした先生の物言いは、一種のカリスマ性を漂わせているのか、生徒の中には男女問わずファンがいるほどだ。
私も、特に嫌いというではない。
ただ、顔を合わせれば、こうしてチクリと皮肉を言ってくるのが、苦手といえば苦手。でも、きっぱり言い返しても怒ったりしないので、適度なストレス発散になっているともいえる。
「没収、ですか?」
「君の携帯電話を没収すれば、職員室に逆戻り……も、面倒ですね。でも、見逃したことが露見すれば私の立場も危うい。お互い、見なかったということにしましょう」
理解があると言えるのかわからないけど、先生の提案にはおおいに賛成だ。
「助かりました」
他の先生が通りかかってはまずいので、先生に返事しつつ、携帯を鞄に戻す。
先生は立ち去ろうとしない。あっ、と思い至った。
「先生、さようなら」
挨拶に厳しいわけではないけど、この先生は、生徒が挨拶するまで待つ、というおかしな癖らしきものがある。
きちんと挨拶をしたのに、先生はやっぱり雨の中こちらを見ている。徐々に気まずくなってきた。立ち止まる意図はわからないけど、早く立ち去ってほしい。
「傘を貸しましょうか?」
「いいです」
「一緒に入っていきますか?」
この質問は、傘を借りる以上にやっかいで、、生徒を誘っているようにも聞こえる、ということに先生は気づいているのだろうか。
おもいきり首を振った。
「いいです」
先生は嬉しそうに微笑んだ。断られているのに、笑う気持ちがわからない。
「同じ言葉を二度言うところに、君の気持ちが含まれている気がします。私がその違いに気づくことを前提で言ったのだとしたら……やはり、君は素晴らしい」
なぜか、断る言葉を分析されてしまった。
同じ言葉になったのは偶然で、他意はない。言ったら先生はがっかりするかもしれないけど、おもしろそうなので言ってみることにした。
「たまたま同じ言葉になっただけです」
言いながら、先ほどの真面目な先生の顔を思い出して笑いがこみあげてきた。
真実を明かしたけど、先生が愕然とくる気配はない。
「自覚がないだけです。つまり、私に傘を借りるよりも、一緒に入るほうが、より嫌だというわけですね」
ここは、頷いてもいいところだろうか。
とりあえず、頷いてみた。
「普通はそうだと思うんですけど」
「まあ、そうでしょうね」
先生は、また眼鏡を上げ、さらりとした表情で頷いた。
あっさりとした肯定に、私のほうこそ拍子抜けしてしまった。
「断ると知ってて、言ったんですか?」
「ちょっとした実験です。先ほど職員室で、私に誘われて断る女生徒はいない、などと言われたので」
「それは、たぶん、当たってるんじゃないですか?」
先生の見かけは、明らかにかっこいい、というわけではないけど、よく見れば悪くはない。先生の中身に惚れている生徒もいるかもしれないけど、見かけに惹かれている生徒も少なからずいるとは思う。
当然です、とでも言うかと思っていたけど、意外なことに、先生は少し驚いていた。
「断った君が、それを言うのですね……」
驚いた、といっても、先生の目がいつもより少し開かれた程度の変化でしかない。
「私なんて誘わずに、他の人を誘えば成功したんじゃないですか、その実験」
「今度、試してみることにしましょう」
不敵に微笑む先生を見て、私の胸に小さな苛立ちが湧き上がる。
さっきから先生と話しているのに、なぜ、今なのか。先生の言葉の中に、何もむかつくところなんてないのに。
「さようなら、先生」
苛立ちのやり場に困った私は、先生に挨拶して、雨が降っているなか走り出した。濡れてもいいや、と、やけくそになる気持ちがあった。
先生の横を通り過ぎようとした時、目の前を黒いものが遮る。
おもわず足を止めた私の前に、広げた傘を置き、先生は雨など降っていないかのように歩き出した。
傘を拾い上げ、あわてて先生の後を追いかける。
「先生、これ、傘!」
先生は振り返ることなく、すたすたと歩いていく。その速度は私の倍くらいある。
先生の横について、なんとか並んで走っているけど限界はある。足が疲れてきた。
「待って、せん、せい、待って……」
言いながら、私が、先に足を止めてしまった。先生はなおも歩いていく。
先生を追いかけることを諦めた私は、傘をさしたまま、何度も荒い呼吸を繰り返す。
傘を返す相手は帰ってしまった。
学校に戻って、傘を返し、わざわざ濡れて帰ることもないだろう。
しかたなく、先生の傘を借りて、ゆっくり歩いて帰ることにした。
昼休みの職員室前。
私は、乾かされ綺麗にたたまれた先生の傘と、親に持たされた菓子折りの入った紙袋を手に立っていた。
用事のある生徒は、私を追い抜いてどんどん職員室へと入っていく。
私は国語が苦手だ。もちろん、先生に質問したこともない。つまりは、どういうきっかけで渡せばいいのか、がわからない。
しかも、人気のある先生のことだ。昼休みは、用事のある生徒も多いことだろう。このようなつまらない用事で邪魔するのも、少し気が引ける。
職員室に入らないことには進まない、と、とりあえず、出入りする生徒に混じって中へ入ってみた。
先生はいない。
なんとなく安心しながら、職員室を出ようとした瞬間、入ってきた先生と出会った。
「場所を移しませんか?」
そう言って先生は、持っていた『会議室』の札がついた鍵を見せる。
頷いて、私は先生と職員室を出た。先生の後を無言でついていく。
はた目には、先生に呼び出されたかのように見えるかもしれないけど、そうなると傘と紙袋が不恰好だ。
会議室の大きな机を挟んで先生と向かい合った時、なんだか呼び出されたかのような緊張に包まれた。
「傘を返したいだけなんです。あと、これは母からお礼にって」
傘と紙袋を机に置いて、先生のほうへと押しやる。
「ご丁寧にありがとうございます。お母様にもそうお伝えしておいてください」
紙袋へと手を伸ばしたはずの先生が、突然、体を乗り出して私の手首をつかんできた。
とっさのことで動けない私と、手をつかんだままの先生はじっと見つめ合う。
私の額に汗がにじみ始めた頃、先生がようやく口を開いた。
「テレビで見たことはないですか? このような場へ生徒を呼び出し猥褻な行為をした、という教師の不祥事を報じるニュース番組を」
先生と二人きりで、手をつかまれて、こんなことを言われたら、冗談だとは笑えない。
手首をつかまれたのも突然だから、次に先生がどういう行動に出るかもわからない。じっと見守りながら答える。
「見たこと、あります」
先生が手を離した。
「……安易についてこないことです」
ついてきた私は用心の足らない生徒だ、と言いたいのか。それとも、簡単に自分を信用するな、とでも言いたいのか。
怒り、驚きなどのいろんな思いが頭を一気に占領する。
何も考えられなくなり、体のおもむくままに、平手で強く机を叩き、会議室を飛び出す。
一心不乱に走り、ざわめく教室前の廊下でようやく足を止めた。
怒りも驚きも薄れてはいたけど、ただ、突き放された、というショックだけはいつまでも心に残っていた。
放課後、私はいつまでも教室に残っていた。 三十分ほど、ただ、じっと机にうつ伏せている。
昼休みのことがずっと頭を巡り、帰ろうという気力さえも奪うのだ。
突如、窓を叩き始めた強い雨音に顔を上げた。天気予報では、今日の深夜からしか雨は降らない、と言っていた。
「……ま、いいっか」
独りごちて、また、机に伏せる。
小降りになるまで待つつもりで諦めた。だめなら、走ってもかまわない。いや、頭を覚ますには、濡れて帰るくらいがちょうどいいかもしれない。
そして、さらに三十分後、私はようやく帰ることを決めた。どれだけ時間を費やしても答えが出るわけがないことに気づき、考えるのを放棄した。
雨はまだ絶好調で降っているけど、走って帰る私にはどうでもいいこと。
腕をまくり、鞄を胸に抱え、いざ走り出そうと一歩を踏み出し、直後、あわててブレーキをかけた。
あの日と同じように、黒い傘をさした先生が足を止めたから。
「傘を貸しましょうか?」
故意か偶然か、先生は同じことを聞いてきた。
「いいです」
同じ言葉で答える。
「一緒に入っていきますか?」
「いいです」
互いの言葉はあの日と全く同じ。でも、先生は微笑んではいないし、私は相手を睨んでいる。
「私なんて誘わずに、他の人を誘えば成功し……」
あの日と同じように返してやろうと思ったのに、先生は、それは違います、と私の言葉を遮って続ける。
「君の肯定だけが、成功へとつながるのです」
「……つまりは?」
予想すらできない返答だったため、睨むのも忘れ、まぬけにも聞き返してしまった。
そんな私をバカにすることもなく、先生は静かに笑って、眼鏡を上げる。
「順番に整理しましょう」
答えを簡単に言ってくれないのは、国語の教師の性分なのか、それとも先生だけなのか。
ともかく、即席の授業が始まった。
「あの日、私が言っていた実験とは?」
「職員室の先生の言葉は本当かどうかを確かめるため?」
「その先生の言葉とは?」
「先生に誘われたら女子は誰も断れない」
「そして、さきほどの私の言葉です」
「その実験は、君……私が『はい』とうなずくことだけが成功といえる」
「他の生徒が応じてきてもそれは失敗と同じだ、ということです。……まだ、わかりませんか?」
答えにたどりついたとたん、先生の顔を直視できなくなった。
先生の告白のようなものを聞き返したあげく、順番に整理までさせてしまったのだ。思い返すと、やりきれないほどの羞恥が湧き上がる。
頬を熱くする私とは対照に、先生は涼やかな視線を向けながら、口元を微笑ませている。いや、にやりと笑っている、に近い。
「君が卒業するまで言う予定ではなかったのですが、限界が意外と近い、ということに、昼のあれで気がつきました。まあ、私がお付き合いを求めたところで、君が断ることに変わりはないのでしょうが」
そこまで言った先生は、ふっ、と自嘲気味に笑う。
私が断らないことを、先生は知らないのだ。
私も、ふっ、と笑い返した。
「いいですよ、先生」
自分でも脈絡のない返答だ、とは思った。だから、先生が眉根を寄せて、けげんな表情をするのもうなずける。
「私のどの言葉に対しての返答かわかりかねます」
優位にたった気分に嬉しくなりながら、私は、先生の傘の下に入り、片手を広げた。
「傘を借りるのも、一緒に入るのも……」言いながら一本ずつ指を折る。「お付き合いするのも」
言葉にしたとたん、急に現実感が増し、恥ずかしくなった私は先生から離れ、校舎の屋根の下へ戻る。
傘をさしたまま、私を追いかける先生の目が微笑んでいる。
なんだかいろいろと照れくさいけど、あふれる喜びを隠せない。先生に向かって、笑いかけた。
でも、先生は急に真顔に戻り、眼鏡を上げて、私を見る。こんなに嬉しいのに、何を宣告してくるのだろうか。
「私との関係によって、君の成績が変わるとは思わないように」
「なんだ、そんなことですか……」
気の抜けた声がでるのも仕方がない。こっちは先生の表情の変化に、さっきまで怯えていたのだから。
「先生が成績を上げてくれる、なんて期待……するわけない、ですよ」
期待したところでどうせ上げてもらえるわけないし、という言葉は飲み込んだ。
「成績によっては、褒美などあげてもいい、と思っています。自然に成績が上がるのは好ましいことですから」
素晴らしいほど前向きで先生らしからぬ言葉に、すぐには信じられなかった。聞いたことすら夢かと思うほどに。
でも、彼氏となった人の言葉を信じられなくてどうする、と疑う心をはねのけて、ガッツポーズで応える。
「ご褒美があるなら、がんばれます」
歓喜する私に向かって、先生は、ただ、と言って口の端を上げる。
「君のとっての褒美は、私にとっての褒美になり得ることもある、ということだけ最初に忠告しておきましょう」
ご褒美という甘い言葉に、忠告という罠を仕掛けた目の前の教師は、そう言って艶然と微笑んだ。
◇終◇
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