肩を抱く手〜前編〜
 学校からの帰り道。
 運転席には、スーツに身を包んだ男性が座っている。私は後部座席に座っていた。
「少し、道をそれても……いいですか?」
 運転していた男性――私のボディーガードである彼は、サイドミラーを見ながら問うてきた。バックミラーに映る彼の目は険しい。
 彼が何を確認しているかは容易にわかった。私が後ろを向くのはまずい、という状況だ。
 ミラーごしに彼と目が合う。
「後ろ?」
「はい」
「何か、案でも浮かんだの?」
「安易な案ではありますが、おそらく振り切れるかと……」
「任せるわ」
「安全とは言いがたい運転になりますので、どこかにつかまっておいてください」
 読んでいた本を閉じ、助手席に抱きついた。体ごとつかまっておけば、遠心力に振り回されることも少ないだろう。なにより、彼に近くなり、顔を見ることもできる。
 何度も曲がり角を曲がったが、ミラーには一台の車がずっと映っている。
「撒けないわね」
「スピードで突き放す気はありません」
「どうするの?」
「会長の経営されている百貨店の地下駐車場を目指します」
「社員と関係者しか入れない」
「そうです」
 会長――彼にとっては雇い主、私にとっては父にあたる。その父が経営する百貨店はもう見えている。
 この車には駐車場のセキュリティをクリアできるカードが入っているのだが、入り口のカメラがカードを読み取るまで、わずかな時間を要する。
 彼は携帯電話の短縮ボタンを押した。
「ああ、俺だ。もうすぐ駐車場に入る。少々やっかいな状況で読み取りを待つ時間がない。……頼む」
 会話は簡潔に済まされた。
 後ろからは、まだ、あの車が追ってきている。
 駐車場のゲートに近づいた。私たちの車が入ったとたん、ゲートは急速に閉じられた。
 彼が運転席に窓を開けると、ガタイのいい警備員が微笑んで会釈した。
「いらっしゃいませ」
 微笑みながらも、警備員の目は外に止まった車に寄せられる。
「あれですか?」
「そうだ。なかなか、しつこい」
 二人の男は、似たような厳しい目で、車を凝視している。
 やがて、警備員の視線が私に移った。
「お嬢様、いらっしゃいませ。今日は四階に有名どころのスイーツが集まってるらしいですよ。お嬢様のような年齢層の方々を対象としているらしいので、よろしければぜひ」
 怖そうな外見に不似合いな人好きのする笑みを浮かべて、警備員は近くに貼られたポスターを指した。
 私のような年齢層、つまりは高校生を対象としている、ということだ。
「何時まででも待ちそうだな……」
 ポスターに掲載されたケーキなどの写真に目を奪われていたけど、低く呟いた彼の言葉に我に返る。追われていたのだった、と思い出す。
「対策は甘いものを食べながらのほうがはかどりますよ。俺も何か考えておきましょう」
 そう言って警備員は後部席のドアを開け、エスコートするように私へ手を伸ばした。
「ありがとう」
 手を重ねて車から降りた。
「車を頼む」
 軽いため息をついて、彼も車から降りた。警備員へキーを渡す。
 無言のまま、私たちは駐車場脇にあるエレベーターへ乗り込む。怒っているわけではないだろうけど、彼は何も話さない。
「ごめんなさい」
「何が、ですか?」
「なんとなく……よ」
「謝られる必要はありません」
 四階に着く。おりたとたん、甘い匂いが鼻に、明るい色が目に飛び込んできた。
 近くに出店している店の売り子が一斉に頭を下げる。私よりも年齢の高い人に頭を下げられるのはやはり慣れない。
 多くのお客さんでにぎわう中から、スーツを着た見慣れた女性が近づいてきた。
「いらっしゃいませ。どうぞ、奥にお席を用意しておきました」
 女性について歩く。彼は私から一歩下がってついてくる。
「ここに来る予定はなかったのに?」
「駐車場の者から連絡がありました。何から食べられますか? おいしそうなチーズケーキがたくさんありましたが、そちらからになさいますか?」
 お茶目な笑みを浮かべた彼女は、私が小さい頃からこの百貨店にいる。私の好みを把握するなど簡単だろう。
 小さなデスクと椅子だけの置かれた質素な部屋に私たちを案内して、女性は出て行った。
 やがて、大きなトレイにカップとケーキを数個のせて、女性は戻ってきた。
「足りなければ、まだまだあります」
 デスクいっぱいにケーキが並べられる。食べられるかどうかはさておき、目の前にこれだけ並べられたら嬉しくもなる。
 フォークを手にどれから食べようか迷い始めた時、
「会長に報告してきます」
 それだけ言って、背後に立っていた彼が部屋から出て行った。
 ドアを見つめて女性がため息をつく。
「あいかわらず、無口なんですね、彼は」
 私もドアを見つめて、ケーキを一口頬ばる。
「怒ってるのか、わかりにくいわ」
 少しくだけた雰囲気の彼女の姿は、私しか知らない。彼や父のいる前では素晴らしい女性社員となる。そして、私の気持ちを知る唯一の人でもある。
「二人の間、何か話されました?」
「特に何も進展なし、よ」
「ここへはどのような用事で来られたのですか?」
 このケーキはあまりおいしくない、と思いながらも企画者である彼女には言えず、とりあえず黙々とケーキを口に運ぶ。
「逃避行の果て。尾行されていたのよ。おそらく、まだ地下の駐車場前で待っていると思うわ。撒く方法を考えましょう、ということでここにいるの」
「物騒ですね」
「そうでもないわ。銃を撃ってくるわけでもないし、でも、しつこいみたい」
「撒く方法、ですか……」
「ミステリー小説をよく読むけど、肝心な時には何も浮かばないものね」
 浮かばないのなら諦めるまでここにいればいい、と楽観的に思っている。だから、隣で真剣な表情で悩んでいる彼女を見ると、少しだけ申し訳ない気持ちになる。
 ポットから、二杯目の紅茶を注ぎいれ、私の食べるケーキも三個目に突入した頃、ようやく彼女が眉間の皺を解いた。
「名案かもしれません、これ。ですが、くだらないとお笑いになるかも……」
「言ってみて」
 彼女の整った顔が近づく。
「恋人同士のフリ、というのはどうでしょうか? ……ドラマの見すぎかもしれませんね、私」
 自分の言葉に彼女が苦笑する。
 でも、彼女ほどの人がひねり出した案なら、聞いてみる価値はあるかもしれない。
「詳しくお願い」
 私の真剣な表情におされたのか、彼女も笑いをおさめた。
「彼に着替えてもらって、お嬢様は顔を彼の肩につける。お嬢様の場合は、ジャケットを脱ぐだけでいいと思います。彼はいつもスーツですから、着替えるだけでかなりの効果が期待できると思われます。車は適当に社員の者を使ってください。お嬢様にとっては、おせっかいなことだとは思いますが……」
「何が、おせっかいなこと、なの? 案を出してもらえて私は嬉しいわ」
 いえ、と彼女が言葉を濁す。
「恋人同士のフリをする、というのが前提となる案ですから」
 名案を彼に言える、と喜んでいた私は、彼女の案に含まれた意味に気付いていなかった。
 一時的に恋人同士のフリをする、のは簡単なことだ。ただ、そこに私の気持ちというものが入ってくるので、フリをするだけ、で済まないものがある。いや、それよりも最大の問題がある。
「誰が、彼に、説明するの?」
 二人の間に自然な沈黙が入った後、彼女が諦めたような顔で手を挙げた。
「私が説明します」
「助かるわ。ありがとう」
「説明して、彼に着替えてもらいますので、二十分はかかると思います」
「三十分後くらいに駐車場で、と言っておいてくれない?」
「わかりました。では……。お嬢様の心の準備もしておいてください、ね」
 ヒールの音を響かせて、彼女は部屋を出て行った。
「心の準備……ね」
 恋人同士のフリをする彼の姿が想像つかない。彼氏のフリでもすれば、少しは彼の無表情もゆるむだろうか。
 いろいろと想像していると、自然と頬がゆるんできた。不安よりも楽しみのほうが大きい。
 三十分後、上機嫌で私は部屋を出た。


 ◇続く◇
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