エレベーターをおりると、彼女が待っていた。
「奥から三台目の車です」
「緑のあれ?」
「……驚かないでください。彼は、私の予想以上に化けました」
楽しみと思う心をなるべく表情に出さないようにしていたけど、そうまで言われればもう限界。走って車まで行きたい気分になる。
「色々とありがとう」
「女子社員を集め、数人がかりで説得しました」
いかに大変だったかは、彼の性格と、彼女の苦笑いから想像がつく。
「いってきます」
「お気をつけて」
靴の音がコンクリートに響く。軽くスモークの入った窓のおかげで、ここからは彼の姿はほとんど見えない。
運転席の隣まで来た時、大きく息を吸って、窓を叩いた。いよいよ、ご対面だ。
エンジンがかけられ、窓が自動で開く。
「えっ……わっ……す、ごい、わ」
いつもぴしりと上げられた前髪は少しだけおろされ、服は年齢相応でカジュアルなものになっていた。スーツ姿しか見たことのない私にとっては、これだけでも十分新鮮だ。
私があからさまな驚きと好奇を見せているのに、彼は恥ずかしがるわけでも照れるわけでもなく、運転席から出てきて助手席のドアを開けた。
立ち居振舞いは彼のものだけど、お兄さんともおじさんとも言いがたい男性がそこにいる。
席に座ってからも、目がずっと彼を追ってしまう。
「その格好をしているということは、承諾したのね」
「名案だと思いましたから」
シートベルトを締め、キーを回して、彼がエンジンをかける。
私はジャケットを脱いで膝にかけ、彼と同じくベルトを締めた。
まだ、私には使命が残っている。彼の肩に顔を伏せるという、簡単ながら最も難しいもの。
説明を受けたということは、彼もわかっている。だからこそ、エンジンはかけたものの発進せずにいる。
私が行動しないと車は発進しない。
すっ、と彼が腕を伸ばした。思わず震えた私の肩が彼の手に引き寄せられる。自然と、顔が彼の肩へとついた。
彼の手が離れ、ギアへと伸びる。
運転席のふちに手をかけ、私は彼へと完全に倒れ込みそうになる体を、すんでの距離を保って支えていた。フリにするための必死の抵抗。力を抜いて彼へもたれたら、気持ちまで傾いてしまうから。
だけど、発進の衝撃に、ぎりぎりで保っていた肘が曲がってしまった。一本の支えを失った上半身が彼へ向かって倒れていく。頬が着地したのは彼の太ももの上だった。
「あ、やだ、ごめんなさい」
起き上がろうとした頭が、彼の手に押さえられる。
「もうすぐ、ここを出ます。このままで……」
手が離れる瞬間、そっと髪を撫でられたような感触がしたのは、おそらく気のせいだろう。
肩に顔を伏せる以上の緊張感に、手が震えそうになる。駐車場の外に誰がいてもいいからこの状況から逃れたい、とさえ思っている。
アクセルやブレーキを踏むためか、時折、目の前にある彼の膝が動く。運転を舞台裏を見てしまったようでドキドキする。
景色が見えないから、どこをどう走っているのかすらもわからない。やがて、彼の手が肩をぽんと叩いた。
「私たちの追跡をやめて、百貨店のほうへ戻りました。もう、大丈夫です」
ゆっくりと起き上がる。彼と目を合わさずに、助手席へ背を預けた。
「もう、いないわね」
ミラーすら見ず、なんとなく呆然となったままの頭に浮かんだ言葉を返す。
「今日の予定へ戻ります」
つまりは、思わぬ尾行ではずれてしまったスケジュールへ戻る、と言っているのだ。残るは帰宅のみ。もちろん、帰れば二人きりの時間は終わりとなる。
「ちょ、ちょっと待って……くれない?」
彼の服をつかんでみたけど、代替案は浮かんでいない。
「どこか寄るところがあるなら言ってください」
代替案はない。あちこちの看板を見回り、ようやく探し当てた場所。
「海岸」
「海岸?」
「そこの信号を右折して右折八百メートルだそうよ」
服をつかんでいた手を離し、私がとっさに探り当てた看板を指す。
信号で車が停まったので、お互いに、看板をじっくり確認することができた。
まず、私が絶句し、彼は、正気か、と言わんばかりの表情でこっちを見た。
海岸とは書かれていたが、それはラブホテルの場所を示す看板だった。
笑いもせずに彼が看板を指す。
「本当に、行きますか?」
肯定すれば本当に行きそうな彼の様子に、冗談だと笑うことすらできない。
「……行くわけないでしょ」
私も真面目に返し、会話はそこで終わった。
帰宅することになるんだろう、と私もこれ以上は何も言わなかった。
行くと言えば、彼は行ったのだろうか、ラブホテルに。少しだけ頭によぎる。馬鹿らしい、と内心で笑って、シートに体を預けた。
カチカチという音が、ウィンカーを点したことを車内に知らせる。彼が、右の車線を走る車の流れを確認していた。
おもわず、私は体を起こした。
「どこに行く気?」
「海岸へ向かいます」
彼がハンドルをきり、車が右折する。
「海岸があるの?」
「あるのは確かです。ホテルもありますが……」
お茶目な冗談かと思ったけど、やっぱり彼は笑っていない。
少し開けた窓から風が吹き込んでくる。視界に海が入ってきた。
「本当だわ」
彼の言ったことを信用していなかったわけじゃない。気付いたらそう言っていたのだ。
夢中でボタンを押し、窓を全開にする。窓のふちに両手をつき、風を顔いっぱいに浴びた。
海を見たことはある。それでも、なぜか、はしゃぎたい気持ちが止められない。
海岸傍の駐車場に停まった瞬間、自分でドアを開けて外へと出る。車内であびたのとは比べものにならない風が、体全体に吹き込んでくる。
「待ってください」
彼が後部席から自分の革靴を取り出し、私の足元へ持ってきた。無骨で大きな靴が私の足を待っている。
「どういうこと?」
「砂で汚れます。この靴も決して綺麗というわけではありませんが、砂から守る程度のことはできるでしょう」
別にかまわない、と言おうとしたけど、彼の靴を履く機会なんてそう簡単に訪れるものじゃない。
「そうね」
いい案だ、とでもいうように頷き、私は大きな靴へ足を差し入れた。当たり前だけど、大きいし歩きにくい。でも、心地いい。
私のローファーは彼が車へと入れた。なんだか面倒を見てもらっている子供のようで、今は妙に照れくさい。
おかしな靴音を立てながら、私へ海岸へと向かった。思ってた以上に、砂に足がとられる。さくっと彼が私の背後に立った。ランダムに歩いても彼はずっとついてくる。
彼の靴へついた砂を払おうと上体を曲げた時、風が私のスカートを襲った。
「あっ、うそっ」
体を起こしてお尻を押さえる。
風よりも、遅かった。
お尻や足のつけねに冷たい風を感じたということは、スカートの中を彼の目に晒してしまったということになる。
お尻を押さえたまま振り向いた。
彼は、完璧なほどの無表情さで立っている。何事も起こってなかったかと錯覚してしまうほど、平然と私を見下ろしていた。
「くだらないかもしれないけど、質問に答えてほしいの」
「はい」
「……見えた? いえ、見た?」
「いいえ」
彼は私のボディーガード。はい、などと言うわけがなかった。ならば、私は雇い主の娘という立場を利用する。
「正直に答えなさい。見えた?」
しばらく黙っていた後、彼は頷いた。
「はい」
私の下着も、彼を動揺させるには至らなかったらしい。下着が見えたショックよりも、彼が何とも思ってないことのほうが落ち込んでしまう。
彼は大人の男性なのだ。小娘の下着程度で心を動かされるわけもない、と思い直す。
「見慣れている……わね」
そう、無意識に呟いてから、思い出した。発進する前、私を引き寄せた手が、やけに慣れていた風だったことを。経験があるわけではない私にもわかる。タイミングも力も絶妙だった。
有能なボディーガードは遠回しに聞いても、沈黙ではぐらかす。直球で聞くことにした。
「女性の肩を抱き慣れているのね、あなた」
彼の表情が初めて動いた。正確に言えば、目がわずかに見開かれたのだ。その反応は、言い当てられて驚いた、と受け取れる。
聞いておきながら、私はかすかにショックを受けていた。女性の肩を抱き慣れている、なんて情報はあまり知りたいものではない。
「なぜ、ですか?」
「あまりにも自然だったから。それだけよ」
「……私にも過去はあります」
元の無表情に戻ってしまった。
突き放された気がして、少し、腹が立つ。
「女にだらしがなかったの?」
素直に過去というものを聞けばいいのに、身についたお嬢様気質はそう簡単にはなくなってくれないらしい。苛立ちが、私にいつもより偉そうな態度をとらせる。
彼も腹が立って本音を見せてくれればいい、と、とんでもないことさえ考えていた。
「女に不自由はしない、という時期はありました。屋敷で働く前のことです」
「お父様はそのこと……」
「ご存知ありません」
「なぜ、私に言ったの? お父様に言うかもしれないわよ?」
じっと、彼の目が私を見つめている。口は何も発しようとしない。
試しているような対応に、やがて、私も降参した。
「……言わないわ、お父様には」
女に不自由はしない時期、がどんなものかはわからない。でも、多くの女性と付き合いがあったのだろう、ということはわかる。
肩を抱かれてドキドキしていた時も、下着を見られて驚いていた時も、彼は何とも思ってなかった。『過去』に経験していたのだ。
年の差と、何か大きな溝を感じた。
「今も……」下を向いていた目を上げる。「女には不自由していないの?」
「今は、遊ぶ暇などありません」
たとえ無表情でも、彼と二人きりという状況だけで嬉しかったけど、今は、見えない多くの女性の影がちらついて離れない。
「子守りをさせてごめんなさい。私の担当から外してあげるから遊んでいいわよ」
余裕のある笑みを浮かべたのは、私の意地。
「女性を抱き慣れた男ですから、当然のことだと思います」
本当にかすかだけど、彼は自嘲するように笑った。
「違うの。違うの……よ。あんな風に肩を抱かれたら、女性が好きになるのも仕方がない、と思ったからこそ、私の担当から外すの」
誤解を解くために発した言葉だったけど、なんとなく、どこか間違えた気がする。受け取り方によっては告白に聞こえなくもない。
言い直そうと言葉を探していた私は、彼の手が伸びてきたことに気付かなかった。
肩を引き寄せられたことに驚いて顔を上げる。耳朶に彼の息がかかった。
「俺がこうした時、あなたはどう思った?」
「ドキドキ……したわ」
彼の口調が変わったことにも気付かないほど、私は混乱していた。
腰に彼の腕が回され、完全に抱きしめられる。
「今は?」
「……離しなさい」
あっけなく彼の腕がはずされた。思わず、三歩後退する。
いつも無表情なはずの彼は、口の端を上げて微笑んでいた。
「あなたは、何者?」
「惚れている女を強引に口説く男」
「豹変しすぎよ」
「あなたの担当を外されるのも、解雇も、俺にとっては同じなので後者を選んだ」
肩を抱き慣れていることは見抜けたけど、彼がこんな風になるとは思っていなかった。動悸が激しいけど、恐怖からじゃない。むしろ、気持ちは喜んでいる。
なぜなら、彼は先ほどこう言ったのだ。
「惚れた女性って……誰、なの?」
「あなた以外に誰が?」
「私は、あなたの過去も知らなかった。こんなことをする人だとも思ってなかった」
「なら、解雇、すればいい」
風の吹くなか、首を振った。目の前を覆う髪を、指で耳へかける。
「私も、あなたに、惚れているの」
好き、と言うよりも、惚れている、と言うほうが体が火照る。だから、彼も、惚れている、と言ったのだろうか。
風に髪を乱しながら、彼が近づいてくる。私をドキドキさせる手が近づいてくる。
目の前に彼が立った時、思わず、手で制していた。
「私はあなたみたいに過去がないの。何も経験したことがないのよ。さっきみたいなことはやめて」
彼の右手が伸びる。そっと、肩を引き寄せられ、私の体が彼の腕の中へ入る。
肩にあったはずの彼の手が、私の首筋をなぞり、髪の中へ入っていく。そこから、髪を梳くように下った手は、肩甲骨辺りを撫で始めた。
ぞくり、と何かが背筋を這う。
彼の服をつかんで堪え、ようやく、口を開くことができた。
「や……めて」
「また、逃げるか?」
「やめなければ……」
手が離れる。距離をとろうとした瞬間、肩をがっしりとつかまれた。
「俺も我慢してきた。これくらいは許してほしい」
今度こそ、優しく肩を抱かれる。軽くうながされるままに、砂浜を歩き、駐車場へ向かう。
「その言葉遣い、本当に解雇されるわよ」
「お嬢様、心配は無用です」
想いを確認しあった相手が、私の顔を覗き込んで不敵な笑みを浮かべる。
「俺は有能だからな」
強く肩を引き寄せられる。
この手に、あとどれだけの手管が隠されているのだろう。
有能なボディーガードに向かって、挑戦の意味も込め、私も不敵に笑い返した。
◇終◇
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