眼鏡にはあげない・前編
 隣の席に座る彼が、眼鏡を外して机の上に置く。 夏の暑い日差しを、眼鏡のフレームが反射する。
 私は、ノートと黒板を交互に見ながらも、視界の端で彼の姿を捕らえていた。
 上を向いた彼は、一滴の目薬を落とす。そのまま何度かまばたきを繰り返し、それからじっと前を見る。何かを見据えるようにしている彼の頬を、ひとすじの雫がつたい落ちてきた。
 両目に目薬をさし終えた彼は、いつものように眼鏡をかけ、シャーペンを手にノートをとりはじめる。
「なに?」と彼に聞かれても、私は彼から目をそらすことができない。
「何でもない」とようやく答えた私は、あわてて止まっていた視線と手を動かし始めた。
 いつもと変わらない授業風景。
 いつもと変わらない彼の姿。
 なのに、私の心と目は、その日から自然と彼を追うようになった。
 初めて、男子を綺麗だと思った瞬間だった。

──あれから半年。もうすぐ女の子が浮き足立つ行事がくる。

「ね、今日の帰りにバレンタインのチョコとか買いに行かない?」
 昼休み、お弁当を食べ終わった私に、向かいに座っていた夕子が話しかける。
 同じクラスの夕子が、お昼になると空席になる私の前の席の椅子を借りて、私たちは机をはさんで向かい合わせで食べる。
 高校だから給食はないし、ついでに言うと学食もない。
「ほんとに作るの? めんどくさくない?」
 お弁当を巾着へと戻しながら言った私に、夕子は箸の先を向けて抗議する。
「なぁんでよ。約束したじゃない。そりゃ私が強く誘ったけど、たしかに沙智もOKした。それに、沙智もあげる人いるんでしょ? 手作りにこしたことはないじゃない、ね?」
「それもそうだけど……」
 私は曖昧に答えながら、お弁当箱を机にかけていたバッグへと入れる。
 夕子は急にお弁当をかきこみ始めた。手際よく片付けて、私のほうへと乗り出してくる。
「よく考えたらぁ……」夕子が周りを見回して続ける。「沙智の好きな人教えてもらってないわよね、私。言いたくないんだろうって思ったから、今まで問い詰めなかったけどさ。いい加減教えてくれてもいいと思うのよ。ねっ?」
 夕子が私の両手を握る。友達でしょ、と語っているようだ。
 私は彼女から目をそらして、隣の席を見る。
「う、う〜ん……」
「はぐらかさないっ」
 容赦のない夕子の平手が、軽く私の右手を直撃する。
「そんなに、言わなきゃいけない?」
「言いたくないの?」
「言ってもいいとは思うけど、やっぱり恥ずかしい、かな」
「そっか」
 夕子が私の手を開放してくれた。
 ほっとした私は、両手を膝の上へと避難させ、彼女の行方を見守る。
 ぐいっと後ろへ伸びた後、夕子はまた私の前へと顔を近づけてきた。
「隠してる沙智には悪いけど、だいたいの見当はついてるのよねぇ」
 そう言って、にやにやと笑う夕子。
「え? じゃ、じゃあ誰だと思う?」
「このクラスには3人眼鏡の男子がいます」夕子の指が3本立つ。「沙智がチョコあげたい人はこの中にいる?」
 わざとなのか、本当に知らないのか。
 本当のこと言うのは恥ずかしいけど、言うべきなのだろうか。
 夕子の指を見つめながら私は迷う。
「い、いない。眼鏡の中にはいない」
 私は大きく首を左右に振った。どうか彼が来ませんように、と願いながら。
「えっ、いないの!? 嘘!? 絶対この中にいると思ったんだけどなぁ」
 小さく頬をふくらます夕子。
 私は隣の空席に、内心安堵していた。……のも束の間。隣の椅子がガタガタいったと思ったら、隣に彼が座っていた。購買で買ったらしいジュースを飲んでいる。
「眼鏡じゃないなら一体誰なの?」
 私の神経は全て隣の席へと注がれている。
「あ、明日、明日の当日に言うから。絶対教えるから、ね」
 彼は一度も私たちを見ない。聞こえていたから見ないのか、聞こえてないけど見ないのか……。
「わかった、我慢する。……で、今日のチョコ作りはやめるの? 私もさ無理強いする気はないから言ってよね」
 隣の彼を一瞥して、私はうなずいた。
「やめない。チョコ作ろう。よく考えたら二人で料理なんてめったにないもんね」
 チャイムが鳴る。
「それじゃ、決定っ。また放課後に……」
 夕子が自分の席へと戻る。


「女子は大変なんっすね」
 授業中、いきなり隣の席の彼が話しかけてきた。あまり喋らないのに珍しい、と思いながらも私は返事する。
「なにが?」
「チョコとか……」
 そう言って、彼は板書をノートにとり始める。
 私もペンケースからシャーペンを出して、ノートを開ける。
 ボソボソと私語をする声と、ノートをとる音だけが教室に響く。
 そして、先生が話し始めた時を狙って、私は思いきって聞いてみた。
「チョコ欲しい、とか思う?」
 彼はシャーペン片手に頬ずえついて、
「チョコもらえりゃいいってもんでもないけどな」と、苦笑する。
 彼と話せて少しふわふわしていた私は、とんでもなく大胆な発言をした。
「チョコ、あげよっか?」

──カツーンッ

 彼の手から落ちたシャーペンの音は、寝ていた生徒を数多く起こした。
 皆が音の正体を知るためにこちらを見る。片手で謝る彼に納得したのか、教室内がまた午後の静けさに包まれる。
 私のふわふわも、さっきの音でパチンと弾けた。
 シャーペンを握り締めたまま、彼をじっと見つめる。言ってしまった以上、答えが知りたかった。
 彼も、シャーペンを握ったまま、じっと私を見つめていた。そして、私を見つめたまま、彼は眼鏡を外す。少しかかった前髪がかすかに揺れた。
「──でも俺、眼鏡だけど?」
 あまりに言葉が少ないので、しばらく意味がわからなかった。
(聞いていたんだ)
 私の心を、驚きと不安が広がっていく。
 しばらく私を見ていた彼は、冷笑してまた眼鏡をかける。
 私は、何の言い訳も理由も思いつかず、ただただ黙っているうちに授業は終わりを迎えた。
 彼もそれから何も聞かなかったし、話さなかった。

   ◇     ◇

 ラッピングのほどこされたチョコ──ほとんど夕子がやってくれた──が、白紙のメッセージカードと共に、今、私の部屋の机の上にある。
(夕子はいっぱい書いてたっけ)
 私は、夕子が帰ってからも、晩御飯を食べて、お風呂に入ってからも、ずっと迷っていた。
 昼に聞いた彼の言葉が、言った私の言葉が、頭をループする。

『い、いない。眼鏡の中にはいない』
『──でも俺、眼鏡だけど?』

 気まずいまま、バレンタインを迎えるのかと思うと、ため息しか出てこない。
 あんなことを言ってしまったてまえ、のうのうと好きだなんて書けない。
 じっとチョコを見つめる。
 頭の中で色々とシミュレートしてみる。
 埒があかない。
 不安は消えない。
 ドキドキも消えない。
(ええぃ! とにかく私は彼が好きなんだから、渡すしかない!)
 私は机の上のチョコとカードをつかみ、強引に、でも優しくバッグの中へ入れた。


◇続く◇
→「眼鏡にはあげない・後編」
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