命令
 彼は半裸で私の前に立っている。私がそうするように命令したから。
 きっかけはささいなことだ。学校での休み時間に友達が言ったこと。
『ボディーガードだったらさ、言うこととか何でも聞いてくれるんじゃない? 逆らえないでしょ』
 いやらしい気持ちで命令したわけじゃない。私が彼に、好きになれ、と言ったら好きになるのか、と思ったら怖くなった。
 だから、上に着ているもの全て脱いで、と言っただけだ。とまどうだろうと思っていたのに、彼は黙々と命令に従った。なぜ、と問うこともなく――。
「裸にさせられてることに対して、何か言うことないの?」
 脱いだ服をまとめながら、彼は私を見ることもなく首を振る。
「いえ、何も……」
 つかつかと歩み寄って、私は彼の腕をおもいきり叩いた。その衝撃で服を落とせばいい。
 でも、彼は驚いてこちらを見下ろすだけで、服を落としたりもしていない。叩いた箇所にはくっきりと指のあとがついている。痛みと熱がともなっているだろう。
 そっと撫でると、腕がぴくりと動いた。
「えっちなことされるとか思ってないの? セクハラよ、これ」
 腕から鎖骨へと指をすべらす。彼は表情を変えることもなく、ただ、私の指の動きを見ているだけだ。
「私は男ですから、逃げようと思えば逃げられます」
 話すたび、彼の息が手にかかる。今度は私の手がぴくりと反応してしまった。
「じゃ、逃げれば?」
 私の指は鎖骨でずっと止まっている。最初からセクハラする気なんてない。実はこうして指を添わせているだけでも緊張しているのだ。
 喉仏を一度大きく上下させたものの、彼は何も言わない。
「好きなだけ触れって?」
 嘲笑で口が歪んでいるのがわかる。彼の鎖骨に爪をたてた。赤いスジを五つ作って離す。
 外側は忠実だけど、内側では何を思っているかわからない。私はその内側が見たいのに。
 腕と鎖骨に私がつけた赤い痣。痛いなら痛いと言えばいい。言ってほしい。そう、痛いはずなのだから。
 私は握っていた自分の手に爪をたてた。彼と同じような痕が残るように。でも、痛いと思うより先に、彼に手をつかまれた。
「一体、何を……?」
「本当に痛いのかな、と思って」
「痛いに決まっています」
 彼の手を振り切り、その反動を使って、鍛え上げられた腹筋を拳で叩いた。
「痛いのなら、言えば? 裸にさせる女なんて気持ち悪いとかさ。いろいろ言いたいことあるでしょ?」
 叩いていた手をつかまれれば、もう一方の手で叩く。結局、両手が彼につかまった。ただ見下ろしているだけなのか、睨んでいるのか、わからない彼の目。
「痛いと言えばいいのですか? 気持ち悪いと言えばいいのですか?」
 両手をつかまれて、首をぶんぶんと振るだけの私は、子供がだだをこねているのと同じだ。
「では、なんと言えば……」
「好き、って、言ってくれたら」
 無意識にそこまで言い、彼のこわばった顔と手で我に返る。
「うそ……嘘」
 驚きで力の弱まった彼の手を振りほどくのはたやすかった。あとは、勢いのままに部屋を出て走るだけ。
 彼はすぐには追いかけられない。そんなことはどうでもよかった。ただ、恥ずかしさと、やってしまったという思いが私を走らせている。
 ――言うつもりじゃなかった。


 屋敷の主の娘であっても、簡単に外には出してもらえない。今は顔を合わせたくないのに。
 屋敷内で彼の入れない場所は、私、母、父の寝室だけ。
 結局、私は自室にこもることにした。ベッドに寝転びながらも、ドアの向こうに耳を集中させる。
 やがて近づく足音だけで、彼だとわかってしまった。案の定、足音は部屋の前で止まる。
「入らないで、絶対に」
 ドアに向かってそれだけを言う。
「……わかりました」
 小さく聞こえた声はやはり彼のもの。
 入らないでと言えば入ってこない。彼にとっては当たり前のことだけど、それが私をいらいらさせる。
 部屋の外からは何も聞こえてこない。彼は私のボディーガードだ。部屋の前に立っているのだろう。
「いる?」
 なんとなく呼びかけてみた。
「はい」
 即座に彼が答える。
 余計なことは何も言わなくていい雰囲気が好きだな、などと思いながら、私は目を閉じる。
 私が言わない限り、彼から、さっきの言葉の真意について言及されることはない。悲しくもあったけど、今はむしろありがたかった。あれは、言うはずじゃなかったのだから。
「叔父様、私、この人がいいわ」
 うとうとし始めていた私は、そんな声で目が覚めた。いとこのお姉さんが遊びに来ていたのだった、と思い出す。
 歩きながら話しているのだから、声はしだいに遠ざかっていくはずだった。でも、会話は私の部屋の前でされている。
「彼はあの娘のボディーガードだからね。君には他の者を用意しよう」
「空港まで行くだけなのよ。いいでしょう?」
「しかたない。では……」
 父が呟いた瞬間、私はベッドから下り、ドアを開けた。振り向いたボディーガードに命じる。
「入って。……お姉様、また遊びに来てくださいね」
 私が笑顔でそう言った後、入った彼はドアを閉める。
「……そういうわけだから、他の者を呼ぼうか」
「じゃあ、かっこいい人をお願いね」
 父とイトコは言いながら去っていく。その足音を聞き届けて、私は隣に立つ彼を見上げた。
「顔、合わせたくなかったの、本当に」
「はい」
「私が止めずに父が命じたら、あなた、行った?」
「……はい」
 悲しそうな表情を浮かべながらも、彼ははっきりと二度頷いた。悲しそうではなく、申し訳なさそう、に近いかもしれない。
 私の言葉で彼を止められるわけがないのだ。彼を雇っているのは父なのだから。そして、私はそんな父の娘なのだから。
 私の中に、諦めに近い感情がわき始める。
「そっか」それが彼の仕事なのだから仕方がない。「さっきも……いろいろとごめん。もう、出て行っていいから」
 彼は立ち去ることなく、ポケットからハンカチを取り出して差し出す。
「なに、これ?」
「出過ぎた真似かとは思いますが」
「これから泣く、と思ってるの?」
「……いえ」
 そう言いつつも、彼がハンカチを引っ込める様子はない。
 そんなに泣きそうな顔をしているのだろうか。壁にかけられた鏡を見たけど、いたって普通の顔をしている。
 泣く、と彼は思っている。用意のいいことに、当人はハンカチを出して待ち構えている。
「いらないから、引っ込めて、それ」
 ハンカチは戻されたけど、彼がそんなことするから、今までのいろんな感情が胸の奥底から湧き出ようとする。
「命令。私を抱きしめなさい」
 ハンカチをいらないとはねのけておきながら、こんな命令をする私はなんて自分勝手な女なんだろう。命令、と付けたのは、断られるのが怖かったから。
 命令の言葉を付けたのが功を奏したのだろうか。彼はためらうことなく私を引き寄せた。
 抱きしめる彼の腕の力が意外と強く、甘い期待と錯覚に包まれそうになる。
 命令の上で成り立っている彼の行為は、私を慰めるどころか、よけいに悲しくさせただけ。
 腕を突っ張らせ、彼に、逃げたいと意思表示する。
 私に逆らうはずのない彼は、だが、腕を解こうとはしない。こんなに力を込めているのに。
「好きです」
 彼の言葉を聞いた瞬間、ドキドキよりも先に怒りが私を動かした。彼を突き飛ばすようにして、腕から逃れる。
「ふざけないで。確かに私は抱きしめてと言ったし、好きと言ってほしいというようなことも言った。……優秀なボディーガードはそんなことも言ってくれるわけ? だったら、恋人みたいなキスも? それより先も?」
 最初は驚きながら見ていた彼だったけど、しだいに目が鋭くなっていった。今は、睨んでいるといってもいい。
「あなたは」彼が一歩近づく。「自分の言葉を嘘だと言うだけでなく、私の言葉も嘘だと決め付けられるのですか?」
「だって」私は一歩下がる。「あなたは、私を好きじゃないでしょ?」
 怯えが顔に出てしまったのか。私を見て、彼が少し離れた。
「なぜ?」
「そんな態度、全然なかったじゃない」
 彼が苦笑いを浮かべる。
 たとえ苦笑いだとしても、無表情以外の彼を見るのは久しぶりだ。
「仕事中ですから」
「さっき脱いだのも、仕事中だから?」
「はい」
「さっき、抱きしめてくれたのは……」
 あれは、と彼は自分の手をつかのま見つめ、
「半分、私情が入りました」
 精一杯、私と目を合わそうとしているけど、その視線は定まっていない。
「さっきの言葉は?」
「信じてください、としか」
 強気で私を怯えさせた彼はもういない。
 彼に近づいて、ほぼ真下から顔を覗き込んだ。簡単にそらせないほどに目を合わせる。
「好きなの? 私のこと?」
 目をそらせないことがわかったのか、彼は降参するように天を仰いだ。
「これ以上は、勘弁してください」
 首から上がどんどん赤くなっていく。
 嬉しくなった。
「はい、下、向いて」
 彼が見下ろせば、見上げている私を確実に目が合う。その目をそらされないように、私は笑顔で応戦した。
「言葉とか、態度とか、そういうのが見たかったの、ずっと」
「私の本音、ですか」
「全然、出してくれなかったし」
 慣れてきたのか、目を合わせたまま彼は、何事か考え込むような顔をした。
「まだ、本音はあるのですが」
「聞かせて」
「聞かせるものでは……」
「どういうこと?」
 見上げている私の頬に彼の両手が触れる。
 彼の顔がどんどん近づいてきて、
「……というようなことをいずれできれば、と思っています」
 あと何センチかのところで止まった。
 彼に顔を挟まれたまま、ぽかんとしてしまった私は、
「なーんだ」
 と思わずぼやきを漏らし、彼の手を覆うように自分の手を重ねる。
「いずれ、命令でなく、よ」
「はい」
 いつものように短く答えた彼は、ふだん、めったに見ることのできない微笑を浮かべた。


 ◇終◇
読んでくださってありがとうございました
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