クラブにも所属していない。バイトもしていない。そんな私がほぼ毎日、放課後必ず訪れる場所がある。
寡黙な教師が担当する科学の実験室――。
科学は高校一年生の時だけで、二年生の私は去年に終えていた。それなら、なぜ実験室に入り浸る必要があるのか。理由は単純。先生が好きだから。
先生は寡黙だから、一年生の時もそれほど喋ったわけじゃないし、特別に優しくしてもらってもいない。ただ、生徒に対するかすかな行動の中に、言葉にされない優しさを帯びていることに気づいた。その瞬間から、好きになってしまっていた。
ちなみに先生、結婚はしていない。薬指も空いている。推定年齢としては三十歳前後、でもくたびれた白衣からにじみでる雰囲気や髪型はちょっとおじさん。だから、年齢はやっぱり謎。他の生徒とも喋ってくれないので、それ以外の情報は全く入ってこない。
なかなか手ごわい相手を好きになってしまった、と自分でも思う。
私が実験室に入ると、先生は鍵を閉める。カーテンも閉まっている。
いやらしいことをするわけではなく、噂にならないように、という先生なりの配慮だ。もちろん先生は何も言わないから、私が勝手に推測したにすぎない。
最初こそ警戒したものの、あまりに淡々と黙々と作業を進める先生を見るうちに、なんとなく馬鹿らしくなった。今では作業の一つとして私たちの間で流されている。
先生は授業で使ったのか、器具を洗っている。
「それ、私が洗おうか?」
先生が水を止め、並べたビーカーを乾いたタオルで拭き始める。洗い場にはまだ試験管がある。
鞄を置いた私は、ジャケットを脱ぎ、シャツを腕まくりをして蛇口をひねった。試験管を柔らかいスポンジで洗っていく。
洗うだけと拭くだけのどちらが早いかといえば、手際よく拭いている先生のほうが早い。私が洗い終わるのを待つことになってしまった。
「あ、ごめんね、先生」
「急ぐと割れる」
「じゃあ、割らないように急ぐ」
拭き終えたビーカーを意外と大きく長い指で挟み、先生は棚へと持っていく。あの持ち方のほうが不安定で割れる危険性は高い。でも、割れたところで弁償するのは先生だ。給料から引かれるのだろうか。
馬鹿なことを想像しながらも、私は試験管を洗い終えた。スタンドに試験管を立てる。なんとなく壮観な眺めだ。
脱いでいたジャケットを羽織り、ポケットに冷たくなった手を突っ込む。二月は多少の暖房程度では暖まらない。
ビーカーを棚に戻し終えた先生は、教師用の大きなテーブルに向かって座り、赤ペン片手にプリントの束を広げた。
少し重い木の椅子を先生の左側へ運び、私も座ってプリントにマルがつけられていくのを見つめる。
「元素記号……懐かしい。今だったら半分くらいしか言えないかも」
言ってから、しまった、と思った。一年生の時に担当してくれた科学の教師の前で言うセリフじゃない。
でも、先生はあいかわらず黙々と採点をこなしている。
無反応には慣れているけど、ちょっかいというものを出したくなる。
先生の左手を握ってみた。直後、軽く振り払われた。もう一回握る。
「……しつこい」
呆れるような声と共にやはり振り払われた。
冗談で手を握ったけど、先生の大きくて骨のある手に、私の顔も手も熱くなる。
ヒーターのファンの音と、ペンが紙の上を滑る音が、ゆったりとした時間の中に響く。
横顔をじっと見ていても、先生は何の反応もせずに作業を続けている。寂しくはない。むしろ、じっくり見ていられるので私にとってはありがたい。
「先生、去年のバレンタインってチョコ何個もらった?」
「一個」
「えっ、誰から?」
「知らん」
「食べた?」
「ああ」
へえ、と言いながら先生から顔をそむけ、おもいきり頬を緩ませる。何を隠そう、そのチョコは私がこっそり仕込んだものだ。名前を明かす度胸もなく、名無しにしてしまったけど先生は食べてくれたらしい。他の女子の邪魔もなし。喜ばずにはいられない。
顔だけでは耐えられず、足も無意味にバタバタとさせる。
振り返ると先生と目が合った。怪しまれている。
「今年も、もらえるといいよね」
「どうでもいい」
プリントへ顔を戻した先生は、本当にどうでもいいというセリフそのままの表情で、採点の続きにとりかかる。
今年のチョコは名無しではない。名前も書くし、気持ちを告げるつもりだ。来年は受験生だから、その前に決着をつけておきたい。こんな関係も心地いいけど、もっと近づきたいという欲はもう限界に達していた。
ラッピング済みのチョコはばっちり鞄の中に入っている。実験室での作業の合間に食べられるように、甘さも控えめなナッツチョコレート。先生は一つしかもらわないだろうけど、私だとわかるようにメッセージカードも同封してある。
告白するのは勇気がいるけど、それ以上に、先生に好きだと言えることが嬉しかった。
深呼吸をして、いつものように実験室へと入る。先生が鍵を閉める。
机に鞄を置いて、ファスナーを開け、いつでもチョコを取り出せる状態にする。先生のほうを向いた。
「先生、あの、ちょっとだけ話を聞いてほしいんだけど……」
先生が、私に、体を向けた。
まともに向き合ったことがなかったから、なんとなく恥ずかしくなって、少しだけ目をそらしたのがまずかった。
教師用の大きな机の上、ふわふわと可愛いラッピングをほどこされた箱が一つ。
私の視線に気づいたのか、先生が、
「今年も一個らしいな」
と言った。私の言葉を覚えていた。
今から二個目があるんですよ、なんて冗談は言えそうにない。去年の一個は私なのに、と訂正もできない。
可愛く丁寧に飾られたチョコを持ってきたのは可愛い女の子なんだろう、とか、先生の魅力を知っていたのは私だけじゃなかったんだ、とか、自分の中に劣等感や不安が広がっていく。
心の中で、何かが急激にしぼんでいくのを感じた。
「や、やっぱり話は無し。頭で整理できてないから、今日は帰る」
開けたままの鞄を肩にかけ、鍵を開けて実験室を出た。
結局、渡すはずのチョコは、そのまま私と一緒に帰宅した。
翌日の放課後、先生の車のサイドミラーにチョコの入った紙袋をかけた。
私の名前が書かれたメッセージカードは抜き取ってある。先生は今年も名前の無いチョコを受け取るのだ。
きっと、食べてくれる。それだけでいい。完全にタイミングを失ってしまった今、告白する気力はもうない。
冬は日が沈むのも早い。辺りは暗いから誰かに見られることもないだろう。
車のかげに隠れながら駐車場を出た。
メッセージカードを手の中で握りつぶし、私はポケットへと入れた。
◇続く◇