体操服に着替え、体育館へと急いでいた休み時間、校内に流れた呼び出し放送に思わず足が止まってしまった。
その内容は、放課後に実験室に来い、という普通のもの。ただ実験室に来いというだけではない。実験室にいる先生のところへ来いというのだ。
一緒にいた友達ももちろん聞いてくる。
「なぜに科学? 一年の時に終わったじゃん。放課後って時間帯もやばくない?」
「変なことされそうになったらさ、携帯で電話しなよ?」
得体の知れない先生のイメージはあまり良いとは言えないらしい。ある程度は覚悟していたけど、ここまでひどく言われるとは思わなかった。
「だ、大丈夫。一応、身に覚えはあるから、呼び出したのもそれだと思うし」
友達に返して、私は再び走り出す。
あの日から、一度も先生のところへは行かないまま、今日のホワイトデーを迎えた。そして先生からの呼び出し。
私は期待してもいいのだろうか――。
放課後の下校ラッシュもおさまった頃、私は実験室のドアへと手をかけていた。
「失礼、します」
ドアを開けると、カーテンの閉まった室内で、一ヶ月前と同じように先生は黙々と作業を続けていた。入ってきた私に目も向けない。
椅子に座り、肘をついて、とりあえず先生をぼーっと見つめてみる。反応はなし。
手近なところにあったボールペンを、先生の前まで転がしてみる。三角フラスコにあたって、小さな音をたてた。
さらにプリントの上に置かれていた赤ペンを取り、狙いを定めて指で弾く。今度はフラスコにあたる直前で先生の手が止めた。
ボールペンと赤ペンを白衣の胸ポケットに挿し、先生は何事もなかったかのように作業へ戻る。
おじさんくさいけど若いし、ボケているわけはないと思っていたけど、もしかしたら本当に呼び出したことを忘れているのかもしれない。
「先生、私がなんでここにいるかわかる?」
「俺が呼び出した」
「……わかってたんだ」
こんな会話をしたというのに、やはり先生は用事を切り出す気配がない。
「用事って何ですか?」
「渡すものがある」
そう言って先生はスリッパをぺたぺたと鳴らしながら、教員用机の引出しから青い箱を取り出した。持ってきて私の前へと置く。
箱に結ばれたリボンには英語で『ホワイトデー』と書かれている。高価なものに触れるかのように私は箱へと指を伸ばした。
「開けていい?」
「どうぞ」
ゆっくりリボンを解き、丁寧に包装紙をはずしていく。透明なケースにクマの形のキャンディーが入っていた。
食べ物は困る。食べるのがもったいなくて手をつけられないから。
「かわいい……」
どんな顔をして先生がこれを買ったのだろう、と想像して、ようやく私は気付いた。
名無しのチョコレートで、ホワイトデーのお返しがあるはずはないのだ。誰からもらったかわからないチョコにお返しなどできるはずもない。
あの日、メッセージカードも抜いておいた。私だとわかるものは何もない。
包装紙をたたむ手が少し震える。動揺を表に出してはいけない。
「先生、私、バレンタインチョコなんて渡してない、けど?」
あの日は暗かった。校舎にいた先生が見ているはずはない。見ていたとしても顔まで見えるわけがない。
でも、可能性はゼロではない――。
たたみ終えた包装紙を置き、ケースのフタを開けたけど、指に引っかけてしまってケースが倒れる。小さなテディベアが机にこぼれる。
慌てて拾い集める私をじっと見つめる先生が視界の片隅に映る。余計に焦る。
「買い過ぎたものだ」
それだけ言って、先生は作業へ戻る。
先生の答えにホッとして、また、気づいてしまった。買い過ぎた、ということは、私以外の人にも同じ物が渡されているということになる。
「かわいい子、だ」
違う。正確に言えば、かわいいのは顔も知らぬ女子ではなく、ラッピングのほどこされたバレンタインチョコ。先生はその女子にお返しを渡したのだ。そして、今かき集めたばかりのキャンディーは、ついで、で買われたものだろう。
名無しのチョコしか渡す勇気のなかった私にとっては自業自得に過ぎない。でも、卑屈な気分になってくる。
「かわいいラッピングのチョコに、先生、お返し渡した?」
「ああ」
頷く先生の向こうに、喜ぶ女子の姿が浮かぶ。自分だったら絶対に嬉しい。だから、きっと、その子も嬉しかったはずだ。
きちんとメッセージカードも入れておけばよかった。そんな後悔をしても遅い。
名無しのチョコレートを車にかけた本人は先生の目の前にいるのに、気付かれることなく『買い過ぎた』キャンディーをもらっている。
小さなテディベアを一つだけ口に入れた。
「甘い……」
「そうか」
独り言のつもりで発したのに、先生が応えてくれた。
いつもと変わらない先生の穏やかな空気と声。そんな先生を好きだと思ってる生徒がここにいる。気付いてほしい。
「もう一つ、チョコもらわなかった?」
「ああ、あったな」
「お返しは?」
していない、と返ってくることはわかっていた。なぜなら、当人は目の前にいる。
「……した」
「嘘、絶対に嘘」
ぽつりと呟かれた先生の予想外の言葉に、思わず私は否定していた。
しまった、と気付いても手遅れだ。すでに先生は手を止めて、じっとこちらを見ている。
「なぜ、言い切れる?」
「……なんとなく」
とっさに出てきたとはいえ、この答えは我ながら情けないと感じてしまう。こんな言葉、ごまかし以外の何者でもない。
先生の口角がわずかに上がる。
「違うな」
矛先をそらす機会だ。
わざと強気に聞き返した。
「先生こそ、言い切る理由は?」
手にもっていた器具などを置き、先生が私の横へと歩いてくる。座っている私は、先生に見下ろされるかたちとなった。
「お前、だろう?」
私だと気付いてほしいくせに、こうして指摘されると怖くなる。先生は怒っているわけでもなく、ただ、私を見下ろしている。
「どうして?」
「なんとなく」
先生が、ふっ、と不敵に笑う。
先生が怖いのではない。たまに見せつけられるこの大人の笑みがいつもの先生じゃなくて違和感があって――怖い。
子供の私は、少しの『大人』でも萎縮してしまう。
「先生、怒ってる?」
「少し……いらついている」
「なに、に?」
「素直にならない生徒に」
なぜだかわからないけど、先生にはバレてしまっている。そう確信した。そして、ごまかすことを、抵抗することを諦めた。
「絶対にバレないと思ったんだけど」
ホッと先生の口からため息が洩れた。
「やはり、か」
「えっ、先生わかってたんじゃ……」
「言ったはずだ」
「なんとなく?」
先生が頷いた瞬間、私は心から降参した。なんとなく、だけで私を追い詰めた先生に。
「あーあ」呟いて大きな机へ手をだらりと伸ばして頬をつけた。「自白させられたのか」
バレないように、と気をつけていた緊張感が拍子抜けへと変わる。ここまでバレてしまっているなら、あのことにも気付かれているはず。
「じゃあ、私の気持ちもバレてる?」
先生は、私から一つ離れたイスへと座る。
「薄々は」
「まあ、バレないほうがおかしいけど」
先生には何もかもバレている。なんとなくすっきりとした気分になっていた。
上半身を伸ばして、少し遠くにある教科書などを引き寄せた先生は、ボールペンで色々と書き込んでいく。こんな話をしているのに、先生はあいかわらず次回の授業の準備をする。
でも、今はそんな先生の態度が安心できる。告白したことで気まずくなったら嫌だ。
机に寝そべって先生の横顔を見る。
「先生、私の気持ちって迷惑?」
「別に……」
「付き合ってって言ったら……迷惑?」
「少し」
「少し、の残りの部分は『迷惑じゃない』ってこと?」
先生からの答えはない。否定だろうか、肯定だろうか。とりあえず、私に都合よく受け取ってみることにした。
「卒業の日に、付き合ってって言ってもいい?」
「好きにすればいい」
「卒業したら付き合ってくれる?」
「……わからん」
体を起こして、ボールペンを持つ先生の手をそっと握った。
「じゃ、卒業まで好きでいることにする」
「……そうか」
返ってきたのは穏やかな先生の微笑み。だけど、手はしっかりと振り払われていた。
◇終◇
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