桜、咲く日に〜バレンタイン編〜
 先生と両想いになることはできたけど、大学生活は予想以上に忙しく、真面目な先生はそんな私を気遣い、私も先生の忙しさを気遣い、大きなイベントごと以外ではあまり会っていない。
 私の中では『彼氏』ではなく『先生』で、どこか遠い人という感覚がまだ抜けない。
 それに、先生は私よりも大人で、子供のわがままを見せたらすぐに捨てられてしまいそう。そんな不安が常に頭のどこかにあって、寂しくても会いたいとなかなか言いだせない。
 毎日のメールと、時々の電話が私たちを繋いでいる。
 恋人同士のイベントごとは、先生に会えるいい口実になるので私にとっては嬉しい。
『明日、学校へ行ってもいいですか?』
 学校で先生にバレンタインチョコというものを渡してみたい。ささやかな夢を叶えるべく、いつものように短いメールを送ってみた。
『わかった。六時以降に』
 すぐに先生からメールの返事がくる。
 そっけないほどの短文だけど、私のメール内容が単なる愚痴であったとしても、先生はいつもきちんと返事を送ってくれる。
 何故と聞くことなく了解したけど、先生は明日が何の日かわかっているのだろうか。
『楽しみにしていてくださいね』
『了解』
 絵文字も何もない二文字が妙に先生らしくて、おもわず笑ってしまった。
 しばらくその二文字を眺め、閉じた携帯を枕もとへ置いて、私はベッドへと入った。


 先生に想いを告げたあの日から、母校には一度も来ていない。
 三年間通っていた高校だけど、今は校門をまたぐことすら妙に照れくさい。他校に入るような疎外感がある。
 下校する生徒の目を避けるように、足早に来客スリッパに履き替えて、職員室へと向かった。
「失礼します」
 職員室に残っている先生も少ない。その中に二年生の時に担任だった先生がいた。久しぶりだな、と笑いながら私へ近づいてくる。
「先生、久しぶりです」
 いきなり真顔に切り替わった先生は、
「ちょっと聞きたいことがある」
 と私の肩を押して職員室の外へとうながした。職員室のドアから少し離れ、周りを確認し、私へと顔を寄せる。
「お前、今日は吉井先生に会いに来たんだろう?」
 近況でも聞かれるのだと油断していた私は、予想外のとんでもない質問に何も返せない。
 私の顔を見た先生が、信じられないといった風に首を振る。
「付き合ってるのか?」
「ど、どこからそんな結論が……」
「お前が職員室に来たら自分のところへ来るように言ってほしい、と吉井先生に頼まれてな。俺はこういうのに関しちゃ勘がいい。吉井さんに聞いてみたが見事にはぐらかされた」
 先生は私の顔を覗き込んで笑う。
「……が、しかし、お前は素直だな」
 動揺も恥ずかしさも顔に出てしまっているのだろう。
 先生同士の付き合いがあってもおかしくはない。もちろん会話もする。それはわかっている。
 ただ、元担任の『先生』とこういう話をしている光景に慣れないのだ。完全に子供扱いされていた生徒時代とは違う先生の目線がくすぐったい。
「誰にも言わないで」
 先生は色恋で騒がれるのはきっと好きじゃない。私がバラしたことで迷惑はかけたくない。
「大丈夫だ」強く背中を叩かれる。「吉井さんは……ありゃ絶対に言わんだろ。俺も言わん」
「よかった」
「吉井先生はパソコンルームにいる」
「はい。じゃあ先生……」
 あっ、と先生が私の言葉を遮る。口元にはにやりとした笑みを浮かべている。
「ここは学校だからな。バレンタインで盛り上がるとは思うが、くれぐれもやましいことはしないように」
「しませんから」
「俺なら所かまわずやるが……まあ、吉井さんなら大丈夫だろ」
 先生の言葉におもわず頷いていた。
「私もそう思う」
「堅物で真面目で……まあ、がんばれよ」
 励ますかのように、先生に肩をポンと叩かれてしまった。
 先生と生徒の頃にはなかった、同士のような雰囲気に少し嬉しくなる。
「伝言ありがとうございました」
 元気でな、と背を向けて歩き始めた先生は、
「あ、吉井先生、チョコもらってたぞ。お前みたいな生徒が現れるかもな」
 嬉しそうに笑いながら、軽く手を振って職員室へと戻っていった。
 あの先生ならバレても大丈夫だ、と思って先生は伝言を頼んだのではないだろうか。ふと、そんな考えがよぎる。
 私にとっては元担任でも、先生にとっては信頼できる人なのかもしれない。当たり前ながら慣れない感覚に少し頬が緩んだ。


 パソコンルームから漏れる明かりが、薄暗い廊下を明るくしている。
 先生は本当に待っている。当たり前のことにドキドキが増してしまう。スリッパの音が響かないように歩幅を縮めて歩く。
 生徒だった頃はもちろん、パソコンルームに入ったこともある。でも、こんなに緊張しながらこの廊下を歩いたのは初めてだ。
 ゆっくり、そっとスライドドアを開け、顔だけ入れて中を覗き込む。
 先生は真ん中近くの席に座り、肘をついて机に置いてある本をパラパラとめくっていた。
 心の準備が実はまだ万全ではない。ドアを閉めようとした瞬間、本を閉じた先生が顔をあげた。
「何をしてるんだ?」
 ドアを閉めるのを諦め、私は開けていた隙間から体をねじこむようにして室内へ入った。
 パソコンルームは靴を脱いで入らなければならない。ストッキングであがるのは変な気分だ。
「深呼吸しようかな、と思って」
「今すればいい」
「……ですね」
 先生の見ている前ではあったけど、大きく深呼吸をすると不思議と落ち着いてきた。
「懐かしいな」
 授業で座っていた席は今も覚えている。右から三列目の後ろから二番目。座ってみると、景色もあの頃と変わらない。
「この席だったんですよ」
「担当じゃなかったから俺は知らん」
 立ち上がった先生が私の隣の席へと座る。
「この椅子、キャスターがついてるから座ったまま移動できるんですよ」
 つま先で床を蹴り、先生の傍まで椅子ごと移動する。
「男子は遊んだだろう」
「そうそう、回転させた後にどれくらい歩けるか、とかいろんな遊び考案してました」
 男子が遊ぶ光景を想像したのか、先生がふっと口元を緩ませた。
 その瞬間、ツンと胸に何かがはしった。本当にささいな表情の変化だけど、しばらく先生に会っていなかった私は不覚にもときめいてしまったらしい。
 抱きつきたい衝動に手が疼く。
 机の上に無造作に置かれた先生の手と指が私を誘う。
「用事があるんじゃないのか?」
 手だけでも重ねようかと思ったのに先生がふいに切り出すから、
「えっ、今それを言うの?」
 おもわず不満が口から出てしまった。
「どうした?」
「……何でもないです」
 企みに失敗した手を引っ込め、代わりにチョコの入った紙袋を机に置いた。中の箱には、半分以上をお母さんに作ってもらったチョコケーキが入っている。
「今日が何の日か知ってます?」
「ああ、知っている」
 先生が頷いた瞬間に、私は少し前に聞いた言葉を思い出した。
『吉井先生、チョコもらってたぞ』
 先生が今日は何の日か、知らないはずはないのだ。
 先生が取ろうとした紙袋を、あわてて手でつかんで引き寄せる。
 私の突然の奇行に面食らった様子で先生は手を止めた。
「チョコもらったって聞きましたけど?」
「もらったが?」
「何個ですか?」
「三個か四個」
「最低でも三人いるんだ」
「何がだ?」
「先生のことを好きな女子」
「義理だろう」
「そうかなぁ? 告白されたら先生どうする?」
「断るしかない」
「彼女……私がいるから?」
「それ以外に理由があるのか?」
「やだ、先生」紙袋の後ろへ顔を隠し、そこから覗き込むように先生を見る。「すごく嬉しい、です」
「そうか……」
 改めて、紙袋を先生のほうへと押し出す。
 紙袋を受け取り、少しだけ開いて中を確認した先生は、ありがとう、と微笑んだ。
 こんな顔を見ると、聞くようなことではないと知りつつもつい聞きたくなってくる。
「嬉しいですか?」
「意思表示はしてるつもりだが……」
 先生の笑顔が少し困惑した表情へと変わる。
「あ、ごめんなさい。別にいいんです。ちょっと確認したくなっただけで」
 先生はあまり感情を顔に出さない人だと知っているのに、バレンタインデーという特別な日がつい私を欲ばりにさせる。
 先生の困惑顔に少しだけ自己嫌悪。子供な私を見せてしまった。
「言葉では足らんか?」
「ううん、十分です。足りないなんてとんでもないです、ほんと」
 本音は――何か物足りない。先生の言葉と笑顔以上に私は何を望んでいるのだろう。自分でもわからない。
 先生は言葉以外に何をくれるのか。そこには興味がある。
 どうしようか迷っていた私と先生の目が合う。
 先生が私の腰に手をあて、椅子ごと私を引き寄せた。
 この後、何が起こるのかはわかっている。でも、先生の肩の向こうには見慣れたパソコンルームの光景がある。大きなホワイトボードには、授業で使われたらしい簡単な用語と説明が書かれたままだ。
 生徒だった頃の私がよみがえる。
「先生、ここ学校です」
「わかっている」
「学校ではやま……」
 言おうとした続きは、先生の唇の中へ消えていった。
 予想以上に強く押し付けられた唇に、呼吸をすることも忘れたまま、腰に回された先生の腕をぎゅっとつかんだ。
 肺も胸も苦しくなってきた頃、ようやく先生の唇と腕が離れた。
 しばらく、ぼーっと先生の横顔を眺める。
 キスをした後の先生は、いつもとは違う男の色気をまとっているような気がするのだ。じっと見ていると、もっとキスをせがみたくなる。そんな私を知ってか知らずか、先生はいつも顔をそむける。
「何だったんだ?」
「あ、はい。えっと、何がですか?」
「さっきの続き」
「学校ではやましいことはするな、と言われて来たんで」
「誰に?」
「先生が伝言を頼んだ人に」
「ん?」つかのま考え込んだ先生はやがて頷いた。「あの人か」
 机の上に置かれた先生の手の甲をつかむ。キスをしただけで簡単にこんなことができてしまう。
「してしまいましたね、やましいこと」
 すっと手を引いた先生は、先ほどの私と同じように手をのせてきた。先生より小さな手はすっぽりと隠れてしまう。
「黙っていればいい」
「はい」
 ゆっくりと先生の下にある手を裏返す。
 指の間に、先生の長い指がそっと入り込んできた。


 ◇終◇
読んでくださってありがとうございました
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