一ヶ月以上前、高校の卒業式の日。私は、ずっと好きだった先生に告白ではなく、一つの約束をとりつけた。
『この学校の入学式の日、桜が咲いたら、ここで待ってます』
校門ではなく、職員駐車場の近くにある一本の桜の木の前で。
三年生の私の担任だった先生は、四月から新しい一年生の担任となる。入学式にも出席するだろう、と思った。
私は先生が、わかった、と頷くのを見て、そこから立ち去り、先生は車に乗って帰っていった。
先生は、単なる女生徒からの変な約束を、一言で承諾した。
口数は少ないけど、人の顔をきちんと見てくれる先生。私の顔を見て、疑問を飲み込んでくれたのかもしれない。
その後、大学合格の報告は電話で済ませたので、あの日から、先生には一度も会うことはなかった――。
今、私は桜の下に立っている。
吹く風にのって、ときどき、体育館から入学式の音が聴こえてくる。
大学の入学式用に買ったスーツを着て、履き慣れないパンプスに、高校の頃ではできなかった髪型。見かけだけは、先生に少し近づいたであろう私がいる。
校内が騒がしくなってきた。入学式が終わったのだろう。
職員駐車場は、校舎に挟まれた場所にあるから、校舎のざわめきがよく響くのだ。
校舎の廊下の窓から、担任に率いられて教室へ向かう新入生の頭がちらほらと見えた。
三階をじっと見上げていた私の視界の隅で、誰かが立ち止まった。三階の窓からは変わらず動く頭が見えるのみ。
視線を下げると、二階の窓の前で立ち止まっていた誰かは、そこからすっと離れた。歩いていた生徒が好奇心で覗いたのかもしれない。
先生の声が聴こえてくればいいな、と思っていたけど、静かな新入生に大きな声は必要ないのか、私の耳には、頭上の葉の音が聴こえるだけだった。
もう、ここの生徒ではないのだ。こうして、外で音を聴くことしかできない。
ふいに湧き上がる疎外感を打ち破ったのは、あちこちの教室から鳴る椅子の音と、生徒のざわめき。
「二組の生徒はこっちで待って!」
女の先生の声が聴こえてきたので、はっと渡り廊下の向こうを見ると、ぞろぞろと生徒が出てくるところだった。並んだ生徒の行く先には、三脚につけられたカメラがある。どうやら、クラス写真を撮るようだ。
あの場所から、ここは意外とよく見える。私は身近な車の陰にしゃがみこんだ。車の窓を通して、こっそり見る。
荷物を決められた場所に置き、写真を撮ったクラスから帰宅していく。その流れは、私の頃から変わっていないらしい。
「右の前から名簿順に並んで」
目で確認するよりも先に、耳が反応した。先生の声に――。
「そこ、ちょっと詰めて。全員、入りきれてないから。そっちは、もう少し右だ」
指差しながら生徒を並ばせた先生は、一番前の真ん中に座る。
先生は、卒業式と同じ黒いスーツを着ていた。
久しぶりに見る先生の姿だけで、なんだか泣きそうになっている自分に、少し驚いた。
フラッシュが三度ほど光った後、生徒が解散する。立ち上がった先生が、ちらりとこちらを見たので、慌てて頭を引っ込めた。
先生は、私の存在に気づいているのだろうか。でも、約束を覚えてるかどうかすら、正直、あやふやなところだ。
やがて、静かになったので立ち上がると、写真屋さんがカメラを片付けていた。
入学式は終わった。あとは先生が来るのを待つだけ。といっても、先生は車に乗って帰るので、職員駐車場に来ることは確実だ。ただ、約束を覚えているかどうか、が問題だった。
お久しぶりです、の挨拶に始まり近況報告、という流れを何人の先生に繰り返しただろうか。
職員駐車場だけに、帰宅する先生がやって来る。三年間いた高校なのだから、顔見知りの先生も多い。
そして、先生はまだ来ない。駐車場に残っている車はあと三台。どれが先生の車かはわからない。
暇にまかせて、車の中を覗き込んでいく。車内に置かれた物を見て、先生の車がどれか予想しようと思ったのだ。
最後に覗き込んだ車は、明らかに独身だと思われる車だった。助手席には書類やファイル、煙草にライターが乱暴に置かれている。
その他は、子供のおもちゃや、かわいいひざ掛けが置かれていた。
フロントガラスに無愛想にぶら下がっている交通安全のお守りが、なんとなく先生らしい気がした。
「遅くなって……すまない」
ガラスに映る私の背後に、先生が立っている。慌てて振り向いた。
「あ、大丈夫です。時間も何も言ってない私が悪いんだし」
言った私の後ろで、かちゃり、と車のキーが外れる音がする。
何をしようとしたのか驚く私をよそに、車に近づき、後部座席のドアを開けた先生は、少し大きな運動靴を私の前に置いた。よく見れば、後部席にはジャージも置いてある。
「綺麗とは言いがたいが、履き慣れないものよりはましだろう」
正直、へとへととまではいかないけど、足の指は疲れていることを思い出した。言われるまで、本当に足のことなんて考えてもいなかった。
「ありがとう、ございます」
パンプスから、先生の靴へとゆっくり足を移す。窮屈な革から解放され、指の間に空気が通る。思った以上に気持ちがいい。
でも、見かけは間抜けだ。先生の靴を履く、という思わぬ出来事に出会えたのだから、そこは我慢するしかない。
先生は、助手席のドアを開けて、何かを取り出した。
履き替えて、息をついた私に、手の平ほどの大きさの袋が差し出される。
「……受け取っていいんですか?」
「でなければ、困る」
「じゃあ、いただきます」
小さな粒が二つ入っている。袋を逆さにして、手の上に落とす。
「う、わ……」
手の上には二つのイヤリング。
勢いよく助手席のドアを閉め、先生は車の鍵をかけた。車を挟んで、
「ピアスがよければ店に行くといい。交換してもらえるらしいからな」
と言って、私の前へと戻ってくる。
小さな石が三つぶら下がったイヤリングが、宝石に見えるほどに輝いていた。驚きで目が離せない。
「全然。これ、で、十分です。ほん、とうに」
「卒業、合格、入学、祝いだ」
「ありがとうございます」
イヤリングを袋に戻し、丁寧にバッグへとしまいこむ。
「宝石でなくて悪いな」
わかってない。私の気持ちも、このイヤリングの価値も、先生はわかってない。
「女性にアクセサリーを贈るなんて、手慣れてますね、先生」
笑顔でごまかしつつ、さりげなく、彼女いるかどうかのチェック。告白してから彼女の存在を知るのは、寂しいから。
「何でも手慣れている、と思うな。俺だって、迷うことくらいある」
からかうつもりだったのに、先生から返ってきたのは、苛立ちを含んだ言葉とため息。 少し、驚いた。手慣れている、は先生にとって禁句だったのだろうか。
「ごめんなさい。なんだか、触れちゃいけないとこ、触りましたね、私」
先生が、はっとした表情を浮かべた。
「いや、そうではなくて……俺が少し先走ってしまっただけだから、気にしなくていい。それから、女性にアクセサリーを贈ったことはない」
先走った、の意味はわからなかったけど、それ以上に、手慣れていないことが嬉しかった。彼女いない率がぐんとアップする。
「先生、現在、お付き合いしている女性などは……?」
「いない。……が、質問の意図が読めん。知ってどうする?」
私の話すことがわかっていて、誘導しようとしているのかと思ったけど、先生のけげんな表情は真剣だった。
恥ずかしくて引っ張ってしまったけど、ついに言わなければならない時がきたみたいだ。
「聞いてほしいことがあるんです」
「悩みなら、俺よりも適任の先生がいるだろう」
「先生が、いいんです」
強く、言った。
先生は、あの卒業式の日のように、
「……そうか」
と頷き、ズボンのポケットへと手を入れる。車のキーに指が触れたのか、ポケットの中から小さな金属音がした。
改めて聞く態勢に入られたせいか、先生の顔をまともに見るのが恥ずかしくなった。少し視線を下げて、先生の手のあたりを見る。
「約束、覚えててくれたこと、嬉しかったです」
「少し、変わった約束だったからな」
「この靴、出してくれたのも嬉しかったです」
「女の先生が式後に、ああいう靴は疲れる、と言っていたのを思い出した」
「イヤリングも、嬉しかったです、すごく」
「あれは……」ちゃり、の音と共に先生のポケットの中で手が動く。「……いや、喜んでもらえたのなら、それでいい」
「先生に、彼女って人が、いなくて、嬉しかったんです」
伏せていた視線を上げて、先生の顔を見た。続く私の言葉が、わかったらしい。その表情は、明らかな驚きを表していた。
私は大きく頷いた。
「好き、なんです、先生のこと。よかったら、私と、お付き合いってのをして……」
ちゃりん、と大きな音が鳴ったので、思わず言葉を止めた。
先生の足元に車のキーが落ちている。でも、先生は拾おうとせず、私の顔を凝視している。
やがて先生は、ゆっくりと車のキーを拾い上げ、ぎゅっと握り締めた。
緊張でふわふわとしていた頭が、少しだけ現実に戻る。恥ずかしくなってきたので、前髪に触れながら続けた。
「私と……お付き合い、してください」
言い終わったとたん、ずっと呼吸を我慢していたかのように、自然と大きなため息が出た。
先生と目を合わせる。
先生は、目をそらさなかった。
桜の花びらが、私たちの間に舞い始めた時、先生が口を開いた。
「俺も、話したいことが、ある」
「はい。聞きます」
舞い落ちる花びらに合わせるように、先生は視線を落とす。
「お前の用件には、薄々、気づいていた。だからこそ、と言うべきか。俺は、ここに来る前、迷っていた」
私も、足元に視線を移した。断られる方向へ話が行きそうだったから。
「告白を聞きたくないから?」
「いや、そうじゃない。今日のお前の服装だ。正直、驚いた。大学に行けば、俺よりいい男などいくらでもいる。今日ここへ来れば、出会いの場へ行こうとしている者を引き止める気がした」
「でも、先生は来ました」
「俺なりに、腹を決めたから、な」
「覚悟は……できてます」
私が顔を上げた時、先生は優しく微笑んでいた。後ろには桜の木。もう、これで見納めでもいい、と思った。
ふっ、と先生が笑った。
「泣きそうだな」
「不安とか嬉しさとか、もう、なんか、いっぱいいっぱいで」
「ハンカチ、持ってるか?」
「あ、はい、今、出します」
バッグからハンカチを取り出した。先生の予告のおかげで、泣く準備は万端だ。
「どう答えても、泣きそうだが……」
「はい。ばしっと断ってください」
また、先生は笑った。
「答えは『はい』だ」
口元にあてていたハンカチが震える。信じられなかった。
「信じられないか?」
何度も頷く。首を振ったせいか、出る寸前だった涙が頬を伝った。
「俺も、自覚した時は信じられなかったが、もう、お前は生徒じゃない。長かった我慢も終わりだ」
先生の腕が、私の頭を包んだ。
卒業式の日にも見た、先生の黒いスーツに涙が吸い取られていく。
「スーツ、汚れる。メイク、してるし」
漏れてくる嗚咽が、話そうとする言葉を途切れさせる。
後頭部が、ぽん、と叩かれた。
「化けすぎだ。大学生にはもったいない」
「だから、先生、スーツが……」
ぐい、と腰も引き寄せられる。
頭と、腰に先生の腕がある。つまり、抱きしめられている。
「我慢は終わりだ、と言ったはずだ」
耳元で響く先生の低い声が、私の言葉を、心を制す。
「はい」
少し強引なこの男性の胸に、おとなしく埋もれることにした。
◇終◇
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