たたかい #1
 先生を本気で好き、と言うと、友達にはありえないと言われる。
 歳の差、教師と生徒。たった二つの壁はかなり高い。それは私もわかっている。
 でも、そんな壁で防げるようなものなら、最初から先生を選んだりはしない。心が先生を求めたりはしない。
 私自身にも、こればかりはどうしようもないのだから。
 教師と女子高生。
 なんと、背徳な響き――。


「お弁当終了。じゃ、先生のとこ行ってくる」
「はいはい、がんばりすぎない程度にがんばって」
 空になったお弁当箱をてきぱきとかばんへ戻す私に向かって、一緒に食べていた友達が軽く手を振る。
 いつもの光景、いつもの彼女の返事。
 最初は私にやめろとさんざん言っていた彼女だけど、今では諦めるような応援へと切り換えている。叶うわけない、という言葉が、叶えばいいね、に変わっただけでも私としてはすごく心強い。
 職員室ではなく、私は社会科準備室へと向かった。社会科を担当している先生は、職員室よりもこちらにいることのほうが多い。
 他の先生もいるといけないから、ノックはいつも欠かさない。
「失礼します……」
 鍵のかかってないスライドドアを少し開けて、中を覗くように確認してから体を滑り込ませた。
 便利なもので、ドアは手を離すだけで勝手に閉まっていく。
 中に一人いる先生は、出前のチャーハンを口に入れたまま私を一瞥すると、また食事を再開した。
「お茶、入れましょうか?」
「お前、生徒だろ。準備室の茶の場所覚えてどうする?」
「先生にお茶が入れられます」
「……それもそうだな」
 急須にお茶葉が入っていることを確認して、電気ポットから湯を注ぎ入れ、しばらく待った後、先生の湯飲みへと注ぐ。
 先生の机に置いた時、なんとなく同業の先生のような気分になり、嬉しくなってしまった。
「どうぞ」
「どうも」
 先生の隣の椅子に座った。
 先生がれんげでチャーハンをかきこむ、その音だけが静かな部屋に響く。
 相変わらずの沈黙だけど、先生との間に漂うのは重苦しい空気ではない。そんな空気が私は好きだった。
「先生、食べるの遅いんですね。私、もうお弁当食べてきたのに」
 れんげの手を止めた先生は、私の入れたお茶を飲む。
「男の俺がお前より遅いわけないだろうが。授業の片付けに生徒を誘おうと思ったら逃げられて、おかげで食べ始めるのが遅くなったわけだ」
「先生、めんどくさがりすぎなんですよ。生徒もそれわかってますし」
「変なことに限ってしっかりと覚えていくんだな、お前らは」
 再び、食べ始める先生と、訪れる沈黙。
 私はじっと先生を見ているのに、それさえも気にならないらしく、先生は後少しのチャーハンを必死にれんげでかき集めている。
「チャーハン、好きなんですか?」
「餃子もつけたかった、がな」
「つけなかったんですか?」
 空の容器にれんげを置いて、先生は少し寂しいような切ない顔をする。
「給料日は明日だ」
「……あ、そっか。じゃ、私がお弁当を」
「お前、生徒だろ」
 先生が、さっきと同じ言葉で私の言葉を遮る。
 私の気持ちに気づいているのかいないのか、先生はいつもこの言葉を使い、私が生徒であることを思い出させる。忘れるな、とでも言われているかのような気分になる。
 先生と生徒という関係は変わらないのだから、せめてここでだけでも忘れさせてくれればいいのに、と少々うんざりする。
「確かに生徒ですけど。いつも先生は、私を追い出さないんですね。二人きりなんですよ? 何か起こってるって思われるかもしれないのに」
「何も起こらないし、起こさない」
 私の言葉にかぶせるように強い語調で先生が言う。一気にお茶を飲んだ先生は、チャーハンの容器と湯飲みを手に奥の小さな流し台へと向かった。
 先生は私の好きな人。
 だけど、さすがに今のようにきっぱり言われると、いらだちの芽が心に顔を出す。
 後を追いかけ、先生が着ている白衣の後ろをおもいきり引っ張った。
「くっ!」
 ふいの出来事に驚く先生の声。
 先生の唇を奪うつもりで近づけた私のそこには、チャーハンについていたれんげが重ねられていた。
「……残念だったな、というべきか?」
 怒りとも、呆れともとれないため息をついた先生は、私の口かられんげを離す。これで私からのキスを逃れたらしい。
 答えない私に背を向けて、先生は流し台で容器とれんげと湯飲みを洗い始める。
「あーあ……お前、リップか何かつけてやがるな? 水で落ちりゃいいが、落ちなければ……言い訳でも用意しとくか」
 れんげについてしまった淡い色のリップは、水で落とされてしまうだろう。
 私が唇を奪おうとしたことも、先生の中で洗い流されてしまうんだろう。
 先生にとって、さっきの私の行為は何だったのか。
「先生は私の気持ちに気づいてるんですか? もしかして、気づいていてああいうことするんですか?」
 私の問いに答えるかのように、水が止められる。白衣で適当に手を拭いた先生が、私の背を押して机に戻るようにうながす。
 椅子に座らない私を放って、先生は自分の椅子を私の正面まで引き寄せて座った。
「まず、お前の質問だが……気づかないわけがないだろう。いくら俺が鈍感でも、な。ただ、さっきの行為は別の話だ。唇が重なって辛い思いをするのは俺よりも、たぶん、お前だろ?」
 そこまで考えていなかった私と、先を読んで行動に出た先生。
 言い返す言葉も見つからなかったから、私は素直にうなずいた。
「……でも、好きなんです。なんか、もう、好きすぎてどうしようもないくらいに」
 先生の目を直視できないから、反応を待つのが辛かったから、先生の履いているサンダルを見つめることにした。
「キスしたからといって、どうしようもないものが晴れる、とも思えない」
 怒ったわけでも、呆れたわけでもなさそうな短い嘆息。
「……わかった。俺なりに真剣に返事するから、しばらく我慢して俺の顔を見ろ」
 顔を上げれば答えが聞けるのに、私の顔は上がろうとはせず、じっと足元を見つめたまま。答えを聞く不安のほうが大きすぎた。断られる可能性のほうが圧倒的に高いし、そうなれば、もうここには通えない。ただ、それが怖かった。
「……き、聞きたくない」
「後回しにしてもいずれこういう日は来るんだ。地に足のつかないどうしようもない状態を抱えたまま、自分自身を支えていられるのか?」
 確かに逃げていても仕方がない。大きく深呼吸した後、軽く歯を食いしばり、ゆっくりと顔を上げた。先生と目を合わせた。
 覚悟を決めた私を見てうなずいた先生は、授業の時以上に真剣な顔で告げる。
「単刀直入に言う。お前を恋愛対象には見られない。もちろん、生徒、ということもある。俺が教師である以上、お前を生徒抜きにしては見られないからな」
「退学になったって……私はいいんです」
「……俺にも高校生だった頃はある。その大切さも知っている。だからこそ、俺はお前から奪いたくない。いや、俺ごときが背負うことも奪うこともできないだろう。なにより、そこまでの恋愛感情がない……」
 頭の中で先生の声にエコーがかかる。どこか遠いようでいて、目の前で言われている現実。耳から入り込む言葉や声は確かに先生のもの。
 微かな淡い期待は『恋愛感情がない』の一言で砕かれ、退学になってもいい、という覚悟は大人にしかわからない経験ってやつに消し飛ばされた。
 普段はめんどくさがりで、生徒にも突っ込まれるくらい隙だらけなのに、こういう時の先生は本当に隙が――私の心の入り込む隙が――ない。
「私、今……ふられてるんです、よね?」
「……ああ」
 心配そうに私を見る先生の目が痛々しい。今まで一度も見たことのない表情をしていた。
「やっぱり、な」漏れてきたのは乾いた笑い。
「ちゃんと返事してくれてありがとうございました。辛いこと言わせてごめんなさい」
 瞬きしたとたんに、目から水が溢れそうだったから、軽く一礼して、先生の前から逃げるように準備室を出た。
 どこに行けばいいのかわからないまま、とにかく走る。先生に追いかけられないうちに、涙が溢れてしまわないうちに。
 教室に飛び込んだ私は、友達を強引に廊下へと連れ出し、驚いている彼女に一部始終を話した。涙を見せてはいけない、と気負っているせいか、説明している間も不思議と涙が溢れ出ることはなかった。
 説明を受けての、友達の第一声。
「よし、帰りにケーキバイキング。とにかく食おう、食おう」
 昼休みに彼女が発した言葉はそれだけだった。


 放課後、おいしいバイキングの店はどこか、などと話す私たちの前を先生が通る。
 私は無視しようと思ったけど、隣で話す友達が言葉を飲み込み、足を止めたものだから、先生も歩みを止めて私たちを見た。
「先生、さようなら。……ごめんごめん、それでさ、ケーキ何個食べる? やっぱり千円分は食べたいよね」
 早口で言って、先生に一礼した彼女は、私の背を歩くようにうながしながら、またバイキングの話へと戻る。
「ちょっと待て」
 後ろから聞こえる先生の声で足を止めてしまったのは――私。しかも、誰が発したかわからない声を無意識に判別した。
「ちょ、ちょっと、なに止まってるの。あいつなんかにかまってられないってば。ほら、行かないと……」
「あ、うん。やばいね、無意識に止まっちゃった」
 耳元で囁く友達に、苦笑いを見せる私の前に、頭上から先生の拳が差し出された。
「手、出せ、手」
 またもや、先生の声にしっかりと反応して差し出した私の手の上へ、折りたたまれた千円札が二枚落ちてくる。
「え、これ……。先生、こんなのもらえません」
 振り向いて、周りの生徒に見えないように差し出した私の手を、隣で見ていた友達の手が強引に包み込んだ。
「くれるって言うんだからもらっとこ。その代わり、後で請求するなんて大人げないことしないでね、先生」
「しないから、しっかり食ってこい」
 笑って立ち去る先生と、手に残された千円札二枚。
 目に焼きついた先生の笑顔と、ぬくもりの残った紙が二枚――。


◇続◇
→「たたかい#2」
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