帰宅した私を迎えたのは、満面の笑みを浮かべた母の顔。
「さっき晩御飯の用意終わったところなのよ。しかも、今日はね、あんたの好きな……」
「ごめん、晩御飯まだいらないかも……」
申し訳なさから、語尾がほとんど呟くような声になる。
とたんに母は拗ねるような顔へと変化した。
「せっかく作ったのに。グラタンなのに……。まだってことは、いつならいるわけ?」
「ケーキバイキング行ってきたから、あと……一時間くらいはいらない、かな」
「しょうがない。じゃ、お母さんも後にするか……。それにしても、お腹がケーキで満たされてるあんたが羨ましいわ。お母さんすんごいお腹空いてるの」
悲しげにため息ついて、母が自分のお腹をさすっている。
そりゃ、私のようにケーキを食べているわけじゃないので、空腹なのも当たり前だと思ったから、私もごく当たり前のことを提案してみる。
「先に食べれば?」
「ええ? お母さん一人で?」
父は仕事で帰宅は遅く、母のもう一人の子供である兄は一人暮らししている。つまり、私が食卓に来なければ、母は一人ということになる。
少し低い目線から、上目遣いで何かをねだるような視線を送ってくる母に、私は思わず苦笑いしてしまった。
「食べるかわかんないけど、一緒に座ってあげるから。つまめるものがあればつまんでるし、さ」
一気に笑みを広げた母は、私の肩を叩く。
「先に食べ終わっても、あんたが食べる時は一緒に座ってあげるわね」
「別にいいよ。……とりあえず着替えてくる」
キッチンへと戻っていった母に告げて、私は自室のある二階へ向かった。
つまむつもりだったグラタンは、すでに皿の底が見え始めている。母の手作りホワイトソースで作られるグラタンは私の好物で、つまむだけ、で済むはずもなかった。
「電子レンジにもう一つあるけど、それも食べる?」
「うん、食べられそう。ケーキも食べたんだけどな……」
「それが若さよ」
親指立てて嬉しそうにうなずいた母は、ミトン片手に電子レンジを開ける。
「今日、好きな人にふられた」
背を向けた母の背に、なんともいえない暖かさを感じて、私は思わず呟いていた。
「えっ……? とりあえず、はい、これ」
驚いたように言い、母は湯気をたてているグラタンを私の前へと置いた。まだ、座る様子はない。
「それでケーキバイキングってわけね。若い娘はすぐ食い気に走るんだから。はい、空いた皿ちょうだい」
急かされるように、食べ終わったばかりのグラタン皿を渡す。
私から皿を受け取った母は、鍋へと向かい、皿にグラタンを入れて、電子レンジに放り込んでからスイッチを押し、ようやく私の前へと座った。
「ごめんね。やることやっておかないとゆっくり話聞けないから。幸いお父さんも遅いし、お母さんに話してもいいなってとこだけ話しなさい」
空腹だと訴えていただけあって、母は私がゆっくりグラタンをつまんでいる間に、食事を終えていた。
じっと私を見る母の目に気圧されて、出されたばかりのグラタンへとフォークを入れる。
「学校の先生、なんだけど……。たぶん、お兄ちゃんが通っていた時にもいたと思う。社会の……」
「社会? あ、お兄ちゃんが二年生の時に担任だった先生? 確か……今はあんたの地理担当だったっけ?」
「うん、そう」
「いきなり、禁断用語出てきたわね」
禁断用語、の言葉に吹き出し笑いを漏らし、私はグラタンを少しだけ口に入れて、続きを話す。
母はさっきより身を乗り出していた。
「恋愛対象に入らない。先生が教師である以上生徒抜きにしては見られない。高校生という時期を奪えない。……だってさ」
「あ、お母さんにはその気持ちがわかる。高校生であることが当たり前のあんたにはわからないかもしれないわね」
「わかんない。まあ経緯としては、そんな感じ、かな」
言い終わった私は、フォークにのせたグラタンへ息を吹きかけ口に入れる。
身を乗り出していた母は、ゆっくりと背もたれにもたれてお茶を飲んだ。
「先生に告白したことについてはお母さんは反対も賛成もしないわよ。娘なんだから、応援はするけど。ただ、あんたの保護者としては先生に迷惑かけてやしないか、それのほうが心配」
「今んとこ、何も迷惑なんてかけてないじゃない」
言いがかりだ、なんて思いながら反論する私に、母はため息ついて、またお茶を一口すする。
「先生は教師。あんたは生徒。これ、わかる?」
「バカにしてる? それくらいわかってる」
湯呑みから顔をあげた母は睨むように私を見ている。
「あんたのせいで問題起きた場合、当人が退学や停学になるのは仕方ないとして……。仮に、何もなかったとしても、そういう噂のたった先生をずっと学校が置いておくわけもない。何かあった場合はあんたよりも先生への影響のほうが大きいの。先生は確かにあんたから高校生を奪えないけど、あんたも先生から教師は奪えない。意味わかる? 相手が同級生だったら何も言わないけど、先生を好きになった以上、そういうことは常に頭に入れておいたほうがいいわよ」
食べるつもりのグラタンはフォークから皿へと落ちたけど、私は母から目をそらせなかった。
「それから……」深いため息をついた母が、柔らかい笑みを浮かべる。
「問題起こして印象に残るよりも、もっといいこと……生徒だからこそできることで印象に残るほうが後々おいしいんじゃない? とお母さんは思うのよ。あんたのことだから、どうせ先生の言葉に納得できてないんでしょ? 卒業まで十分時間はあるんだから、しっかりと納得いくまで闘いなさい」
私と目を合わせたままうなずき、母は作戦を提案し終えた軍師のような笑いを浮かべた。
私も力強くうなずいて、残りのグラタンへとフォークを下ろす。母にはやはり敵わない、と思いながら。
次の日、社会の授業では、数枚のプリントが配布され、教科書などを見ながらそれを埋めろ、という先生にしては珍しい内容だった。
喋る生徒を軽く注意するだけで、先生はずっと本を読んでいるだけ。
私が告白したからなのか、という考えが頭をよぎり、そんなわけない、と自分のうぬぼれた考えに苦笑をもらす。
前の席に座る友達も同じことを言い、その可能性は高いという彼女と二人で笑いながら、私はきちんと時間内にプリントを埋めていく。
授業内容に秘められた真実が、昼休みに先生の口から明らかにされるとも知らず――。
◇続◇