先生のハンカチが私の部屋にある。
ベッドに潜り込み、室内に干されているハンカチを眺めていた。
触れるわけでも、先生が渡してくれた時のことを思い出すわけでもない。ただ、眺めるだけでなんだか顔がにやけてくるのだ。
それは、昼休みのことが幻でないことを示す唯一のもの。
泣いてしまうなんていつもの私らしくない。でも、頭を下げ、優しくハンカチを渡してくれた先生もいつもと違っている。
告白。そのたった一つの出来事が、自分でも気づかなかった私を引き出した。いや、引き出されたのかもしれない。
明日もまたあの部屋へ行ける。導くハンカチをしっかりと瞼の裏に焼き付け、私は眠るべく目を閉じた。
いつもの昼休み、ハンカチを手にした私は、準備室のドアを開く。
「失礼します……」
また昼御飯を食べているんだろう、と先生の席を見てみれば、そこには誰も座っていない。流し台にも誰もいない。
トイレだろうと思って待っていたけど、十分経っても先生は帰ってこなかった。
迷惑を承知で職員室へ訪ねに行くと、他の先生も、どこへ行ったかまではわからないらしかった。
他のクラスの授業にはきちんと来ていた。それは私も見ている。
授業、という言葉で私は隣にある社会科室を見ていないことに気が付いた。準備室の隣へのドアを開けると、そこでようやく先生がつかまった。
大きな机を囲む数個の椅子の中から、三つを繋げて、その上で先生は寝ていた。
反動で閉まろうとするドアを手で押さえながら、音を最小限に抑えて閉める。
上履きであるサンダルはキュッと音をたてるので、私は脱いで先生の傍まで近づき、再びサンダルに足を通す。
先生の頭側の空いている椅子に、音をたてないよう座り、私はその寝顔を眺めることにした。
先生の寝息の上へ手をかざす。甘くくすぐったい感触にすぐ手を引いてしまった。
特別教室が並ぶこの階は、廊下を行き交う人も少ない。
静かな空間と、規則正しく聞こえる先生の寝息。穏やかに過ぎる時間。
五時間目の授業開始五分前の予鈴が、部屋に突然響き渡る。チャイムが鳴り終えても、微かな反響が波紋のように広がる。
先生の息が乱れ、瞼がゆっくりと開けられる。
眠気から完全に脱していないであろう先生の細い目の上で、持ってきたハンカチをひらりと振ってみた。
「なっ! ……はぁ?」
起き上がろうと先生が手をついたそこには椅子も何もない。手を軸に起き上がるはずだった先生の体はバランスを崩して、お約束通り、椅子から落ちてしまった。
静かな部屋に、椅子の倒れる音や、先生の体があたる鈍い音が駆け抜ける。
「大丈夫……なわけない、ですよね?」
「いや、びっくりしただけ、だ」
落ちた時の姿勢のまま、先生は呆然と私を見ている。寝起きに次々と襲った事態に、まだはっきりと思考は追いついていないようだ。
「これ、ハンカチ返しにきただけなんです。……えっと、授業も始まるんで教室戻ります」
じっと私を見つめる先生の視線に耐えられず、ハンカチを椅子に置き、私は慌てて立ち上がる。
――と、いきなり下から腕をつかまれたので、立ち上がろうとしていた私はバランスを崩す。椅子に囲まれた先生の上に倒れる、ということは先生を囲んでいる椅子に体をぶつけることにもつながる。鈍い痛みに、腕をつかんでいる先生を睨んだ。
「い、痛い……んですけど……」
腕をつかんだのは先生だというのに、本人はなぜかまだ呆然としている。
「先生……腕、離してくれませんか?」
私たちの周りにある椅子を押しのけて、私は先生と向かい合った。呆然としている先生の前へつかまれたままの腕をかざす。
「あっ……と……悪い、な」
謝りながらも離さない先生。
「わけわからない行動に出ないでください。腕、まだつかんだままなんですけど」
「あ、ああ……」
私の腕から先生の指が離れるのを見て、立ち上がろうと椅子に手をかけたけど、今度はその肩に先生の頭がのせられた。かと思えば、体が引き寄せられる。
告白前には何度想像したことだろう。ふられた後にはありえない、と想像することすらやめてしまった。
私の目の前には先生の肩がある。白衣から先生の香りすら漂ってくる近さ。
――抱きしめられていた。
しばらく、その状態に陶酔して、やがてありえないことだと目覚める。
「……わけわからないにも限度があるんですけど!」
腕をつっぱって離れようとしたけど、先生は大人の男性。力で高校生で女子の私が敵うわけもない。
「告白をふってしまったら、もう俺にチャンスはないのか?」
耳元で囁くように尋ねられる。
ふられたにも関わらず、この体勢と先生の言葉に期待する己の心が腹立たしい。
「勝手なこと言わないでください。一度ふっておいて無効にするって言うんですか?」
「俺は教師でお前は生徒だ」
「そうですね。ふられた時にも聞きました」
「今から、都合のいいことを言う。お前は怒るかもしれない。いや、怒るだろう。とりあえず……聞いてもらっていいか?」
抱きしめたかと思えば、突然何を言い出すんだろう、この先生は。
緩められた腕から離れ、ゆっくりと先生の目を見た。そこには、大人の余裕も、先生であることの厳しさもなく、ただ、不安げに伏せられた目だけがある。
見たことのない先生の前にうながされるように、ただ、うなずいていた。
「……始まりは、お前をふった瞬間だ。俺に告白してきたということは、俺との関係になんらかの変化を求めている、ということだと思った。だが、俺はそれを断った。変化も何も起こらない先にあるのは、終わり。もしくは、今まで通りの日常。今まで通りはありえないとふんだ俺は……怖くなった。嫌だ、と思った」
勝手なことを、と思った私は鼻で笑ってみる。
「逃がした魚は大きいって気づいたんですか?」
私の嘲笑の奥にある気持ちを察したのか、先生も乾いた笑いを漏らした。
「ああ、大きかったな……。俺が翌日の授業に出たのはお前に会いたかったから。授業にくる、と確信したんじゃない。来てほしい、と俺が……。やばいな。自分がこれほど恋愛ベタだとは思わなかった……。阿呆すぎる」
「勝手なことを見事につらつらと言ってくれますね」
大きく嘆息して、私は立ち上がり、スカートの汚れを払う。
先生も立ち上がって、白衣の裾を軽く払った。
「……実に勝手だ。だが、すっきりしている部分もある。返事は聞かない。断られるのは目に見えているし、自分の勝手さ加減にもほとほと呆れてるからな」
椅子に置かれたハンカチに伸ばされた先生の手に、私はそっと手を重ねた。
驚いて私を見つめる先生と目を合わせる。
「私が告白したのは覚えてますか?」
「忘れるわけない。……暖かい思い出として励みにしていくさ」
「まだ、有効です」
先生が目を見開き、やがて静かに言った。
「……そうか、間に合ったわけだ」
手を重ねたまま見つめあう私たちの間に、鳴り始めた授業開始のチャイムが割り込む。
教師と生徒に戻るべく、私たちはどちらからともなく手を離した。
「とりあえず、教師と生徒に戻るか。今晩にでも電話する。十時……家族が出たら切るぞ」
ポケットから出てきたくたくたの名刺を渡される。それを見た私は、あまりの先生らしさに思わず笑ってしまう。
「電話の前で待ってます。私こそ、かかってこなかったら寝ますから」
「はっ、言ってくれる。……急げよ、授業、始まる」
「はい、先生」
準備室へのドアを開ける先生と、廊下へのドアを開ける私。
相変わらず先生と生徒。
でも、これからは学校でだけ我慢すればいいのだから。
たたかいの結果は――私の勝ち。
◇終◇
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